毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
熊手
お千代保稲荷へ初詣に行ってきた。
小春日和とはこんな日のことを言うんだな、と実感できる麗らかな一日だった。エアコンをつけた車内が暖かで、シャツ一枚になって運転していても平気だった。木曽川を越えた辺りから、雪をうっすらとかぶった伊吹山がずっと正面に見えた。周りの山とは高さが違うのだろう、伊吹山のみ冠雪していて、神々しささえ漂わせていた。やはり雪は山に神聖さを与える。伊吹山でさえ思わず手を合わせて拝みたくなったのだから、雪をかぶった霊峰富士の威容を目の前にしたらひれ伏してしまいそうだ・・。
真正面に見える伊吹山の写真を撮りたかったのだが、運転中にそんなことができるわけがない。高速道路を降りてから、停車して写真に収めたのだが、霞がかかったような陽気だったためか、あまりはっきりと写せなかったのは残念だ。
そんな天気に誘われたのか、稲荷の参道は参拝客で一杯だった。
ここ数ヶ月は平日の昼に来ていたため、人出もさほど多くなかったが、さすがにまだ正月9日だけあって、初詣に来る人は多いようだ。三が日はいったいどれだけの人で溢れたのだろう、きっと歩くことさえままならなかっただろうな、と思ってみたが、一度はその人いきれでごった返す雰囲気を是非味わってみたい。
まだまだ参道には正月のめでたさが溢れていた。
普段は飾られていない大きな宝船の置物や招き猫が並べられていたし、幾つかの店では所狭しと熊手が売られていた。私は10年ほど前、初えびすで大きな熊手を買ったことがある。熊手でお金をかき集められたら、などと欲をかいて買ったのだが、見事に期待はずれで、その年はずいぶんお金に苦労した。それ以来熊手は決して買うまいと心に誓って、悪運が家に忍び込まぬよう破魔矢を一本買うだけにとどめてきた。なので、道行く人が熊手を担いで闊歩していくのを見ても、全く心が動かなかった。
それにしても、このお千代保稲荷が他の神社と違っているのは、社務所がいつ行っても開いていないことだ。お正月ともなればどこの神社でも、社務所で袴をはいた神職たちがお札やお守り、あるいは絵馬や御神籤などを売っているものだが、この稲荷にはそんなものは一切ない。ただ参拝客が拝殿の前に立って拍手を打ってお祈りしてくるだけだ。お供えする油揚げとろうそくは神社の入り口の商店が売っているもので、神社が売っているのではない。熊手も神社でお祓いを受けたものではなさそうだから、果たしてどれだけのご利益があるのか分からない。初めてこの稲荷を詣でて以来、あまりに商売っ気がないのにはずっと感心してきた。商売繁盛を願って集まってくる者たちに、あまりに儲けに走ってばかりいてはいけないよ、と諭すかのようである。利にさとくばかりいては商売は繁栄しない、そんな日本古来の商売道徳が表れているような気さえする。
多くの人が商売繁盛を祈念しに欲得ずくでやって来るのだろうが、参拝をした人々の顔が晴れやかに見えるのは、多かれ少なかれ、そうした神社の気風に触れるからではないだろうか。私もここに来るたびにもっと一生けんめい頑張ろうという気になれる、不思議な場所だ。
小春日和とはこんな日のことを言うんだな、と実感できる麗らかな一日だった。エアコンをつけた車内が暖かで、シャツ一枚になって運転していても平気だった。木曽川を越えた辺りから、雪をうっすらとかぶった伊吹山がずっと正面に見えた。周りの山とは高さが違うのだろう、伊吹山のみ冠雪していて、神々しささえ漂わせていた。やはり雪は山に神聖さを与える。伊吹山でさえ思わず手を合わせて拝みたくなったのだから、雪をかぶった霊峰富士の威容を目の前にしたらひれ伏してしまいそうだ・・。
真正面に見える伊吹山の写真を撮りたかったのだが、運転中にそんなことができるわけがない。高速道路を降りてから、停車して写真に収めたのだが、霞がかかったような陽気だったためか、あまりはっきりと写せなかったのは残念だ。
そんな天気に誘われたのか、稲荷の参道は参拝客で一杯だった。
ここ数ヶ月は平日の昼に来ていたため、人出もさほど多くなかったが、さすがにまだ正月9日だけあって、初詣に来る人は多いようだ。三が日はいったいどれだけの人で溢れたのだろう、きっと歩くことさえままならなかっただろうな、と思ってみたが、一度はその人いきれでごった返す雰囲気を是非味わってみたい。
まだまだ参道には正月のめでたさが溢れていた。
普段は飾られていない大きな宝船の置物や招き猫が並べられていたし、幾つかの店では所狭しと熊手が売られていた。私は10年ほど前、初えびすで大きな熊手を買ったことがある。熊手でお金をかき集められたら、などと欲をかいて買ったのだが、見事に期待はずれで、その年はずいぶんお金に苦労した。それ以来熊手は決して買うまいと心に誓って、悪運が家に忍び込まぬよう破魔矢を一本買うだけにとどめてきた。なので、道行く人が熊手を担いで闊歩していくのを見ても、全く心が動かなかった。
それにしても、このお千代保稲荷が他の神社と違っているのは、社務所がいつ行っても開いていないことだ。お正月ともなればどこの神社でも、社務所で袴をはいた神職たちがお札やお守り、あるいは絵馬や御神籤などを売っているものだが、この稲荷にはそんなものは一切ない。ただ参拝客が拝殿の前に立って拍手を打ってお祈りしてくるだけだ。お供えする油揚げとろうそくは神社の入り口の商店が売っているもので、神社が売っているのではない。熊手も神社でお祓いを受けたものではなさそうだから、果たしてどれだけのご利益があるのか分からない。初めてこの稲荷を詣でて以来、あまりに商売っ気がないのにはずっと感心してきた。商売繁盛を願って集まってくる者たちに、あまりに儲けに走ってばかりいてはいけないよ、と諭すかのようである。利にさとくばかりいては商売は繁栄しない、そんな日本古来の商売道徳が表れているような気さえする。
多くの人が商売繁盛を祈念しに欲得ずくでやって来るのだろうが、参拝をした人々の顔が晴れやかに見えるのは、多かれ少なかれ、そうした神社の気風に触れるからではないだろうか。私もここに来るたびにもっと一生けんめい頑張ろうという気になれる、不思議な場所だ。
コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )