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アナベル・リイ

 大江健三郎著「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」(新潮社)を読んだ。年末までに読み終えたいと思っていたのだが、なかなか時間がとれず、年を越してしまった。さすがに70歳を超えると大江健三郎もダルいな、などとノーベル賞作家に対して少々不遜なことを思ってしまったくらい、前半を読んでいて面白いと思えなかった。それが遅々としてページが進まなかった一つの原因ではあるが、それは大江の発表したここ数年の小説を中途で読むのを断念し続けてきた私には、新しいことでもなかった。もともと私が大江の小説世界に入り込むには、時間がかかる。それを我慢しスムーズに読み進めるようになれば、最後まで一気に読み通せるのだが、そこにたどり着けずに放棄した作品は結構ある。と言っても、そのほとんどがノーベル賞を受賞して以降の作品だが・・。
 それでも、新刊が出るたびに必ず買ったが、どうしても最後まで読み通せないことが続いた。寅さん映画のようにお馴染みの人物構成に食傷したのか、私の思いとの懸隔が大きくなったのか、或いは私の想像力の貧弱さのせいなのか、とにかく読み通せない作品が続いた。その間も長年大江作品に親しんできた私だけに、何とか読み通したい気持ちはもち続けていたのだが、以前ほど大江の小説を有難がって読まなくなったのかもしれない。またこんな物語か・・、などと正直思ったりもした。もう私には大江健三郎は読めないのかな、などとここ数年思っていただけに、この「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」を最後まで読み通せたことは、素直に嬉しかった。
 もちろんそれは、だるい部分を我慢して久しぶりにリズムがつかめたからだろうし、物語が次第に動き出したためでもあろう。小説の内容については「今までの大江の作品の流れを集めた総集編的な作品」とでも言えばいいのだろうか。中期以降の大江の作品に馴染みのない読者にはひょっとしたら理解しにくい内容なのかもしれない。だが、もうそんなことなど大江ほどの年齢に達すると大した意味合いを持たず、大江自身と大江をよく知った読者が大江が築き上げた小説世界を懐かしめればそれでいいだけの作品なのかもしれない。読み終わった今、なんとなくそう思う。若い頃の大江に顕著だった性的描写も盛り込まれているし、生まれ故郷の四国の森の物語も語られている、所々で大学時代の大江を彷彿とさせる記述もあって、「ああ、そうだったな・・」と振り返るような箇所が随所にあった。大江に親しんできた私には、それはそれで楽しめたから、もう十分であった・・。
 
 ただ、表題にも引用されているエドガー・アラン・ポーの詩「アナベル・リイ」の訳詩が
日夏州耿之介の手になるものの引用であり、あまりに雅語がちりばめられているため、解釈しにくい箇所が幾つかあった。この小説の基底に流れるメロディーの役目を果たしている「アナベル・リイ」の詩を十全に理解できない己の勉強不足を恥じるとともに、ここまでの雅文を使いこなせる詩人がいたことに驚いた。以下にその訳詩を載せてみる。

  在りし昔のことなれども
  わたの水阿(みさき)の里住みの
  あさ瀬をとめよそのよび名を
  アナベル・リイときこえしか。
  をとめひたすらこのわれと
  なまめきあひてよねんもなし。

  わたの水阿のうらかげや
  二なくめでしれいつくしぶ
  アナベル・リイとわが身こそ
  もとよりともにうなゐなれど
  帝郷羽衣の天人だも
  ものうらやみのたねなりかし。

  かかればありしそのかみは
  わたの水阿のうらうらに
  一夜油雲風を孕み
  アナベル・リイそうけ立ちつ
  わたのみさきのうらかげの
  あだし野の露となさむずと
  かの太上のうからやから
  手のうちよりぞ奪(ば)ひてんげり。

  帝郷の天人ばら天祉およばず
  めであざみて且さりけむ、
  さなり、さればとよ(わたつみの
  みさきのさとにひとぞしる)
  油雲風を孕みアナベル・リイ
  そうけ立ちつ身まかりつ。

  ねびまさりけむひとびと
  世にさかしきかどにこそと
  こよなくふかきなさけあれば
  はた帝郷のてんにんばら
  わだのそこひのみづぬしとて
  臈(らふ)たしアナベル・リイがみたまをば
  やはかとほざくべうもあらず。

  月照るなべ
  臈たしアナベル・リイ夢路に入り、
  星ひかるなべ
  臈たしアナベル・リイが明眸俤(もかげ)にたつ
  夜のほどろわたつみの水阿の土封(つむれ)
  うみのみぎはのみはかべや
  こひびと我妹(わぎも)いきの緒の
  そぎへに居臥す身のすゑかも。


 語の美しさは感じとれるものの、これでは何種類かの辞書で意味を調べなければ何のことやら分からない・・。そこで岩波文庫『対訳ポー詩集アメリカ詩人選(1)』から、加島祥造訳を以下に載せておく。

  幾年も幾年も前のこと
   海の浜辺の王国に
  乙女がひとり暮らしていた、そのひとの名は
   アナベル・リー――
  そしてこの乙女、その思いはほかになくて
   ただひたすら、ぼくを愛し、ぼくに愛されることだった。

  この海辺の王国で、ぼくと彼女は
   子供のように、子供のままに生きていた
  愛することも、ただの愛ではなかった――
   愛を超えて愛しあった――ぼくとアナベル・リーの
  その愛は、しまいに天国にいる天使たちに
   羨まれ、憎まれてしまったのだった。

  そしてこれが理由となって、ある夜
   遠いむかし、その海辺の王国に
  寒い夜風が吹きつのり
   ぼくのアナベル・リーを凍えさせた。
  そして高い生まれの彼女の親戚たちが
   とつぜん現れて彼女を、ぼくから引き裂き連れ去った
  そして閉じこめてしまった
   海辺の王国の大きな墓所に。

  天使たちは天国にいてさえぼくたちほど幸せでなかったから
   彼女とぼくとを羨んだのだ――
  そうだとも!それこそが理由だ
   それはこの海辺の国の人みんなの知ること
  ある夜、雲から風が吹きおりて
   凍えさせ、殺してしまった、ぼくのアナベル・リーを。

  しかしぼくらの愛、それはとても強いのだ
   ぼくらよりも年上の人たちの愛よりも
   ぼくらより賢い人たちの愛よりも強いのだ――
  だから天上の天使たちだろうと
   海の底の悪魔たちだろうと
  裂くことはできない、ぼくの魂とあの美しい
   アナベル・リーの魂を――

  なぜなら、月の光の差すごとにぼくは
   美しいアナベル・リーを夢見るからだ
  星々のあがるごとに美しいアナベル・リーの
   輝く瞳を見るからだ――
  だから夜ごとぼくは愛するアナベル・リーの傍に横たわるのだ
  おゝ、いとしいひと――我が命で花嫁であるひとの
   海の岸辺の王国の墓所に――
   ひびきをたてて波の寄せくる彼女の墓所に。
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