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「アニキの時代」

 谷岡雅樹「アニキの時代」(角川新書)を読んだ。「Vシネマに見るアニキ考」と副題があるように、Vシネマ評論家という作者が見てきた、アニキ俳優たちの本質を解説するという内容になっている。Vシネマというものを、竹内力の「難波金融伝・ミナミの帝王」シリーズしか見たことのない私にとっては、ほとんど興味のない世界を描いたものであり、途中斜め読みになってしまった箇所もたくさんあったが、それでも何とか読み終えたのは、最近よく耳にする「アニキ」という存在が現代社会の中でどういう意味合いを持っているのかが知りたかったからである。
 著者は、「アニキ」を『「物分りよく接する大人」でもなければ、「オヤジ」でもない、新しい水先案内人』だと定義する。そして具体的な例として、Vシネマの二大帝王、哀川翔と竹内力から始まって、小沢仁志・白竜・清水健太郎・寺島進などの役者たちの「アニキ」ぶりを述べ立てる。しかし、残念なことに私はこのうち哀川と竹内くらいしか認識できないので、Vシネマの歴史などと絡めて説明されてもピンとこなかった。Vシネマの世界だけでなく、もっと広い視野で「アニキ」という存在についての解説を期待していただけに途中から読むのが面倒になってしまった。
 それでも何とか「あとがき」までたどり着いたところ、著者の考える「アニキ」像がまとめてあったので、以下にそれを書き出してみる。
 
 ・アニキは、かつてオヤジたちが持っていたような既得権益にしがみつかない。
 ・アニキはオヤジの能書きをたれずに、黙って背中で見せる、黙って働く。
 ・アニキは既存のシステムには参加しないし、共同体にも参画しない。
   (アニキと弟分との関係は、無数に広がる「一対一」の関係である)
 ・アニキが必要としているのは人間であり、人材ではない。

 なにやら「アニキ」に対する著者の熱い思いが伝わってくる文言であり、確かにこんな人物がいたら「アニキ」と慕う者も多いだろう。
 
 私が塾を始めた頃は、まだ生徒たちと年齢が大して離れていず、まさしく「アニキ」のような気持ちで毎日生徒たちと接していた。谷岡の言うような小難しいことなど考えたこともなかったが、心は生徒たちと密接に結びついていたように思う。それが年月が過ぎ、生徒と私の年齢がだんだん離れていき、自分の子供よりも若い生徒ばかりになってしまった今では、気持ちの上ではまだまだ「アニキ」のような溌剌さは忘れないようにしているが、年齢のギャップは如何ともしがたく、ついつい生徒たちに説教してしまうことが多くなってきた。昔と変わらず「黙って俺について来い!」といった思いで接しているつもりでも、私の吹く笛に生徒たちが思い通りに踊らなくなってしまっている。そうした心の距離が開いてしまったのは、もう私が「アニキ」なんかじゃなくて「オヤジ」になってしまったからなんだろう。そのスイッチに切り替えが自分の中でうまくいっていないのが、ここ数年の私の生徒に対する苛立ちの原因なのかもしれない。
 
 作者が言うように、今の時代が「アニキ」的なリーダーを求めているのかどうか、私にはよく分からない。著者の「アニキ」像に当てはめてみれば、小泉純一郎が「アニキ」的な指導者であったような気がしなくもないが、世の中を引っ掻き回しただけで自負するほどの改革は成し遂げられなかったように思う。その後の安倍ちゃんはただの「坊ちゃん」だったし、福田康夫に至ってはドラえもんが傍についていない「ノビ太」にすぎない。こんなに頼りないリーダーを前にしても、「アニキ」を求める声が澎湃と広がっているようには思えない。しかし、目をアメリカに移してみると、どうだろう、民主党の大統領候補にならんとしているオバマは「アニキ」だと言えないだろうか?彼の政治信条や施策方針などよく知らない私であるから、軽々に言うべきではないのは重々承知しているが、それでも、漏れ聞くところから「アニキ」っぽいなぁ、と思わないでもない。さて、どうだろう・・。
 
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