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「人間失格」について

 

 太宰治の「人間失格」がちょっとしたブームらしい、少し前の毎日新聞にそんなことが書いてあった。07年夏に集英社文庫の「人間失格」を「DEATH NOTE」で知られる漫画家、小畑健の作品に変えたところ、販売部数が急増し、しかもそれが続いているというのだ。さらに、これも昨年7月に発売された「まんがで読破 人間失格」(イースト・プレス)が、コンビニで20代後半~30代を中心に購入されているという。「太宰や彼の生きていた時代を全く知らない人が増え、時代が一巡りして新しいフィクションとして味わわれている気がします」という関係者の話も紹介されていたが、太宰、しかも「人間失格」が何故このように読まれるようになったかを考えてみるのは、現代社会の深層を読み解くヒントになるのではないかと、10代に読んで以来手に取ることのなかった「人間失格」を読み返してみた。
 私はさして太宰が好きではない。どういうわけか、筑摩書房版の太宰全集は持っているが、ほとんど読んだことはない。もちろんそれ以前に文庫本で主な作品は読んでいるが、大きな影響を受けた作家ということはできない。ただ、「逆行」という作品は虚勢を張る太宰の真骨頂を表したものとして、深く心に残っている。太宰は東大の仏文科を中退した男であるが、私が仏文を志したのにはこの「逆行」が少なからず刺激を与えたというのは否めないと思う。R・ラディゲの「肉体の悪魔」が高校生の私に与えた衝撃は深甚なるものであった。夢遊病者のように何度も読み返したのを覚えている。それと匹敵するほどの衝撃を受けたのが、徹頭徹尾シニカルな言辞で埋め尽くされている「逆行」、特に「盗賊」であった。10代の私を深く揺さぶって、その中の一節、「フローベルはお坊ちゃんである。その弟子モーパサッンは・・」を、意味も分からず繰り返していた。大学など中退するものだと、入学する前から嘯いていた私が、太宰を信奉していなかったと言ったら嘘になるだろう。
 しかし、「人間失格」に描かれた「葉蔵」という人物は虚勢などまったく張らず、己の惨めさ、弱さを何の防御もなく曝け出す。自虐的ともいえる数々の告白は、太宰の来歴を知っている読者にとって、太宰の人生そのものだと受け取れる。もちろん小説という仮構の世界の話であるから、全てが太宰の体験だと思ってはいけないのだろうが、どうしったって太宰そのものだと思ってしまう。
 そのあたりを警戒してか、一応、書き手である私が、ある男の手記を発表するという体裁を整えている。三葉の写真、「ひとをムカムカさせる表情の」幼年時代の写真、「生きている人間の感じのしない」「不思議な美貌の青年」の写真、「ただもう不愉快、イライラしてつい眼をそむけたくなる」ような「不思議な男」の写真、を見た書き手の印象そのものの男の半生が綴られた手記が中心となっている。この葉蔵という男は、はっきり言ってどうしようもない男だ。地方の素封家の息子に生まれ何不自由ない生活を保証されて、東京に出てきて愚行を繰り返す・・。彼なりに言い訳は用意されているものの、そんなものは金持ちのボンボンがひねり出す戯言にしか思えない。そこに幾ばくかの人生の真実があったとしても、今の私には到底理解できない。10代、もしくは20代前半の若者ならば共感することもあるかもしれないが、50近くなった私にもとても無理な話だ。これをもって己の感受性が鈍ったと思いたくはない。多少なりとも、世間の荒波にもまれてきた身としては、「甘ったれるな!」と罵声を浴びせたくなってしまう。世間知に犯されたと笑わば笑え、どうしたってダメなものはダメなんだから・・。
 はっきり言って、「人間失格」の太宰はかっこ悪い。人間として失格しているのだからかっこ悪いのは当たり前かもしれないが、それにしても最後に葉蔵が世話になった女性に「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ、飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・神様みたいないい子でした」などと語らせては、太宰自身が己のそれまでの半生を言い訳したもののように聞こえて、なんだか興ざめな気分がしてしまう。これが太宰の太宰たるゆえんだ、と言えるのかもしれないが・・。
 
 やっぱり、太宰には「逆行」がよく似合う。
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