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「いちょう並木のセレナーデ」

 車を運転しながらCDを聞くことが少なくなった。一人で遠乗りをしなくなったせいかもしれないが、滅多に聞かないからもうずっと同じCDが入っている。竹内まりや、SMAP、そして原由子・・。原由子は1983年の「YOKOHAMADULT」であり、もう25年も前のCDだ。発表当時はレコードを買って、テープにダビングして繰り返し車の中で聞いたものだ。それが数年前、もう一度聞きなおしてみたくなり買ったCDが車の中に入っている。ほんのたまにだがこのCDを聞いてみると、もうだめだ、原由子の「ヘタウマ」なボーカルに心奪われてしまう。と言っても、聞くのは11曲目の「いちょう並木のセレナーデ」ばかりだ。サザンの数ある名曲の中でも最高の一曲だと私が勝手に思っている「Ya Ya(あの時代を忘れない)」と同じように、学生時代を共に過ごした人に対しての懐かしい想いを歌い上げる「小夜曲(セレナーデ)」であるが、聞くたびに胸が締め付けられる思いに駆られてしまう。

   学食のすみであなたがくれた言葉
   授業をさぼり 待つチャペルが
   いつもの場所
   季節はめぐり秋になれば
   ネルのシャツだけ
   お互いが一番大事な人なのに

   You you you, 忘れぬ日々
   You you you, when I ・・with you

 こうやって「詞」を書き出してみると、さほどの感慨は受けない。やはり「詞」は、曲が付けられ、声に出して歌われてこそ初めて聞き手に感銘を与えるものなのだろう。もしこれが「詩」であるならば、曲などつける必要はない。「詩」はすでにその中にリズムを有していて、その言葉を一つ一つを口辺に上らせるたびに自ずとそのリズムが浮かび上がってくるものなのだ。一篇の詩には、謂わば一つの小宇宙が内包されていて、その宇宙が生み出す波動が読む者を inspire せずにはいないのだ。しかし、読む者がその詩のどこにインスピレーションを受けるかはまったく自由だ。心がふるえる箇所など決められたくはない。一方、「詞」にはそれほどの自由さはない。詞を作る者、曲を付ける者、さらには歌う者といくつかの工程を経るうちに、イメージが固定化され、聞く者に裁量が与えられる余地が少なくなってしまう。その端的な例が演歌だ。余りに作り物めいた演歌を聞いても何も心に沁みてこない。パターン化してしまっているせいなのかもしれないが、既製品のような曲はもう聞きたいと思わない。しかし、原由子が次のように歌うとき私の心は30年も前の自分に戻ってしまう。

   他の誰かが好きなのは わかってたけど
   ノートのコピーを見せるのは いつも私
   渋谷から横浜までずっと音楽ばかり
   二人で見てあの Eric Clapton に涙した
   
   You you you, 期待ばかり
   You you you, when I ・・with you

 これと同じようなシチュエーションを経験したことなどない。だが、どうしたって胸が熱くなる。渋谷とか横浜とかそんな都会に暮らしたことはないし、Elic Clapton のコンサートに行ったこともない。しかし、こんなようなことがあった気がしてくるのは何故だろう。さらに、 

   いちょう並木が色を変えりゃ
   心も寒い
   学祭ではじけて恋した あの頃よ
   
   You you you, 忘れぬ日々
   You you you, when I ・・with you

 思わず涙がにじんでくる。「忘れぬ日々」--そうか、「忘れぬ日々」が私の心の片隅にあって、私をかきむしるのか・・。心の中に土足で踏み込もうとする演歌じゃだめだよな、やっぱり。窓辺で恋しい人を想いながらそっと歌うセレナーデじゃなくっちゃ・・。
   
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