今月始まった「あいちトリエンナーレ 2019」。
スタート早々から深刻なこと(表現することを今後も考えている者として決して軽視できません)が起き、今後の「表現する」ことへの懸念が高まっていますが、実際に観てきたので、遅ればせながらですが感想も含めいろいろ書きます。
当初の計画としては、高嶺格さんが「あいちトリエンナーレ 2019」に作品を出品することを先月知り、高嶺さんの作品が展示される豊田市美術館を中心とした展示を観るつもりでした。しかし、今回の件を知り、現場に足を運ぶ必要があると考え、急遽、愛知芸術文化センターにも行く予定を組み込みました。
結局8月13日、豊田市美術館には昼過ぎに着。そこで思わず時間をかけてしまったために愛知芸術文化センターに到着したのが遅い時間になってしまい、今回の件で公開が中止された作品があったとはいえ、あれだけの数の、それぞれ意味の深い作品をすべてちゃんと観賞するには時間が足りず、駆け足で作品を見て回るような状態になってしまいました。残念でした。すいませんでした。
要するに、豊田市美術館と愛知芸術文化センターに観に行った感想になります。
この2会場を拝見し、まず最初に思ったのは、今回の「情の時代」というテーマからして今の時勢にあっているし、これだけのアーティストを見事にあつめて、ここまでの形に持ってきた芸術監督を務めた津田大介さんが凄いなと思いました。これまでの彼の活動はいろいろと知っていますが、NHKの「NEWS WEB 24」にネットナビゲーターとして出演されてからは、特に気になる人物となりました。
また、あの件に関しても先日このブログでも書いたように、中止はやむを得ない判断だったと思うし、観客などに危害が及ぶかもしれないとした判断は賢明だと思います。これについて詳しく思うところは後述するとして、今回、津田さんがこの「あいちトリエンナーレ2019」でチャレンジングでありながもやろうとしたこと、そして津田さんの事後対応を支持する気持ちは変わらないです。
豊田市美術館では、タイミングがうまく合ったのでますギャラリーツアーに参加しました。ボランティアの方々の丁寧な作品の説明がやはり作品の理解を深めてくれます。
タリン・サイモンさん、レニエール・レイバ・ノボさん、アンナ・フラチョヴァーさん、それぞれの作品に社会的要素が含まれていることに感じ入りました。特に、アンナ・フラチョヴァーさんの「アセンション・マークII」というタイトルの作品はその見た目からは最初気味の悪いイメージしかいだかなかったのですが、人類の技術の進化によってもたらされる便利さの影で生まれるマイナスの部分にも目を向けているところが、最初にいだいた気味の悪さにもリンクし印象的でした。
僕にとっての本題であった高嶺さんの作品。今回は2作品出されています。
まずは豊田市美術館に展示の作品から。
取り上げているのは辺野古でした。タイトルは、「NIMBY(Not in My Back Yard)」。
壁に今年2月の辺野古新基地の住民投票の結果を報じる琉球新報の1面と英語等の説明が書かれた紙が貼られています。旭日旗を模った金と黒の模様がデザインされた金屏風のようなものの前に、これも望遠鏡のような空瓶と竹を組み合わせたようなオブジェが三脚の台の上に据え付けられており、三脚にはよく観光地の展望台によく置かれているそれのように、コインを入れるところが設けてあり、そこに備えおいてあるコインを投入すると望遠鏡の中で動画が始まる仕組みになっています。
動画は1回で1分。それが6種類あり合計6分。何度か観ましたがすべて観れたのかどうか自分でもわからないです。
「ニンビー」。いわゆる「必要性は認めるがウチの隣には御免」の考え方を指す言葉をタイトルに辺野古の新基地について考えさせるこの作品。
望遠鏡の中の動画では辺野古ゲート前の座り込みに自ら参加しおそらくリコーの360度撮影カメラを携え、自らが機動隊員に強制的に移動させられる様子も収められています。
沖縄で起こっているこの事実を望遠鏡の中で見せようとしているこの仕組みは、本土の人間にとって物理的にも認識的にも遠い距離で起こっているということの暗喩だろうか?とタイトルになってる言葉の意味も重ねて推測します。
隣接する旧豊田東高校のプールで展示されているもう一つの作品は、「反歌:見上げたる 空を悲しもその色に 染まり果てにき 我ならぬまで」というタイトル。
廃校プールの底部のコンクリートを中心部だけ切り取り垂直に立てています。やってること自体非常にシンプルでありながら物としての迫力がすごい。調べると高さが9mにもなり、それはアメリカのトランプがメキシコとの国境に作ろうとしている壁と同じ高さということです。やはりシンプルだからこそ予想通りなかなか奥が深かったです。
この後、一路栄駅へ。
後から聞いた話によると名古屋市内の展示会場と豊田市の展示会場とを結ぶシャトルバスがあったようですが、僕は愛知の雰囲気を味わいたい気分もあり電車(名鉄+地下鉄)で移動していました。盆休みということもあったでしょうが、なにか落ち着いた雰囲気を感じたのはたまたまでしょうか。
栄駅で地下鉄を降り、不思議な建築物を横目に愛知芸術文化センターへ歩きます。
その不思議な建築物は「オアシス21」というテナントも入っている商業施設でありながら、何か遊戯施設のような、またまわりも緑があり憩いの広場となっています。
こんな市街地の真ん中にこのような憩いの場があるというのは、なかなか名古屋も良いなぁ、と思いました。
そして、その敷地に隣接する愛知芸術文化センターに入るとたくさんの人。とりあえず8階と思ったのですが、順路として10階かららしく感じたので、10階から。しかし、この到着時点で17時前になっており、完全に駆け足で会場内をまわることとなってしまいましたので、あまり作品についての詳しい言及は避けておきます。
それでも、目をひく作品がたくさん。今でも記憶に残っているのは、ウーゴ・ロンディノーネさんの「孤独のボキャブラリー」、アンナ・ヴィットさん「60分間の笑顔」(静止画だと思っていたら動画でびっくりした。)、ジェームズ・ブライドルさん「ドローンの影」(非常にシンプルな作品で伝えようとしていることがこんなに大きいとは!)など。
「表現の不自由展・その後」は、できれば会場目前まで行って、例えばガラス越しに作品が見れるなどのことを予想していたのですが、会場手前で展示していた、CIR(調査報道センター)の作品も展示中止となっていたため、会場手前にも近づけない状況でした。残念でした。
他にもじっくりと観たくなる作品がたくさんあり、そのような作品のめじろ押し感がかなりしました。時間をかけて観るために、またもう一度来てもいいんじゃないかとも思いました。それぐらいすばらしいイベントで本当に観に来て良かったと思いました。
それだけに、例の深刻な件によって、このイベント全体の本質が曲げて受け取られることが残念でなりません。
「表現の不自由展・その後」について、これまでの経緯、そして今も「表現の不自由展・その後」実行委員会との協議が続いていたり、また「あいちトリエンナーレ」の周辺に存在しているだけでこのイベントには関係のないところにまで問題が波及していたり、いろいろと現在進行系で状況が流動的ですが、僕が訪れた8月13日には会場は至って平穏で違和感も感じず、むしろ今回のことで現場のスタッフは連帯感をもって仕事をされているというか、学芸員や警備員、スタッフやボランティアを含めて、豊田市美術館でも愛知芸術文化センターでも丁寧な案内を受けました。これもまたこのイベントが素晴らしいと思った一因でしょう。(スタート当初は大変だったと思いますが…)
現時点での僕のこの件の捉え方は、正確には作者が慰安婦像ではないと定義しているのにも関わらず、それをあえて慰安婦像と勝手に解釈し、それを「ヘイト」とまで決めつけるのは、そもそも「ヘイト」を意味を誤解している受け手側だけの問題であり、誤解を恐れずに言えば「芸術」というものを正しく理解していない人の戯言だと思います。つまり、作品のコンセプトや訴求や伝えたいことを理解することなく、あの作品を慰安婦と決めつけそれを日本に対する侮辱だと思うのは、そう思う人自身に問題があるのではないか?と感じるのです。よって、そのような一方的な個人的な考えで公的な立場から展示物を撤去させる発言を行った河村たかし氏の行為は日本国憲法第21条に明確に違反していると考えます。
そして、今回の件でいろいろなネット上の記事や情報を確認していく中で、僕が一番問題と捉え強調しておきたいのは、藤原新也さんが8月14日付けで公開されているこちらの記事と、さらに津田さんがインタビューに答えられている8月24日に公開されているwebDICEのこちらの記事で書かれていることです。
津田さん自身はあまりこのことに言及していませんし、これまであまり大ぴっらにされていないと思うのですが、僕もこの「警察の動きが鈍い」ことが一番の問題点だと思います。
警察が当然のごとく適切に能動的に動き、すべてあるいはほとんどの犯人が逮捕され、そのうえで盤石なセキュリティを施していれば、まず、展示の中止はなかったように思いますし、また今後、展示を再開するにあたってもこの点は最重要なファクターです。
そして、そもそもこの点がしっかり成されているからこそ、今、津田さんやアーティスト、関係する人々のまわりで行われている議論もはじめて意味を成すものになると思うのですが、いかがでしょうか?津田さんは今現在、板挟みになっているようにしか思えません。また発言も歯切れの悪いものとなっています。
津田さんが8月15日に公開された「お詫びと報告」
以下に、今回の件で参考になる関連記事を紹介しておきます。
表現の不自由展・その後 (公式サイト)
この騒動が表面化した時、誰が謝るべきなのか?について一時議論が出たことがありました。その時に僕は戦前の「ゴーストップ事件」を思い出したのです。
大阪の天六交差点で信号無視をした陸軍兵とそれを注意した警官との間に起こった喧嘩を端に発する陸軍と警察の対立で、以後の軍の暴走のきっかけになった事件。
このとき、日本の社会は結局本質的な問題に言及されることのないまま双方の和解(お互いにお互いが謝罪する)ということで事が済まされています。
同じように今回も本質的なことに言及されないまま、もしくは日本の社会が本質的なことを問題視しないのであれば、日本は再び危険な道に進む社会になるのではないか?と大変危惧します。だからこそ、今こそ「名古屋市長が日本国憲法第21条に違反している」こと、「警察の動きが鈍い」ことに声をあげなければいけないと考えます。
またマスコミもこの事実を報じなければいけない立場にあるはずです。
会期は10月14日(月・祝)まであります。
この記事を公開した段階で、まだ約1ヶ月半あります。
気になっている方はぜひとも足を運んでいただいて、本来やろうとしていた状態ではありませんが、その部分も含めて、津田さんがやろうとしていたこと、レベルの高い各アーティストの素晴らしい作品を現地で肌で感じていただきたいと思います。
僕も仕事と家の都合が許す限り、どうなるかわかりませんが、もう一度行ってみたいと思っています。
最後に、
今後、もし観客の立場から今回の「あいちトリエンナーレ2019」が当初の計画通り行われず、本来の状態で観賞できなかったことについて、日本国憲法第21条に基づき、そのきっかけとなった河村たかし氏などを相手取った訴訟が行われる動きが出たならば、その形式にもよりますが僕はその原告の一人として名をつらねたい考えです。