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倉俣史朗さんの「Miss Blanche(ミス・ブランチ)」観たさに、やっと先月、中之島美術館にて開催されていた「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」に展示されているのを観に行ってきました。
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今日は久しぶりにこのような時間を取ることができたので、以前からお話を伺っていてなかなか行くことができなかった、国立国際美術館のコレクション展「コレクション2 身体———身体」を鑑賞してきました。
個人的には、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんの「人魚の領土―旗と内臓」と石川真生さんの「アカバナー」が一番見たい作品でした。
会期がまだ来月の6日まで開かれているので、詳しい作品の内容に触れることは避けますが、「身体」をテーマにしている作品展ということもあってか、どの作品も作品そのもの存在自体が肉薄してくる、というか、その作品を見ている僕自身もまたその身体をもって作品を鑑賞しているわけであり、まさに「身体をテーマにした作品と鑑賞する身体が対峙している」ようなリアルを感じるような作品展だったように思いました。
さて、実際に鑑賞した順路がちょっと間違っていたようで、あとで作品リストに掲載されていた順路を確認すると会場のブロックが5つに分かれており、会場入り口を入ってすぐ正面にある高松次郎さん「影」から見てしまって、それがブロックの5番目で、結局、5→1→2→3→4の順番で鑑賞してしまいました。
それで、会場入って一番奥に展示されていることになる、ブブさんの作品が「大トリ」のように思えたのですが、個人的にもそれで良かったように思います。
石川真生さんの作品はこれまでに何らかの形で紹介されたものを観ていて、今回ちゃんとした展示で観るのは初めてで相応の肉薄感がありました。
またブブ・ド・ラ・マドレーヌさんのインスタレーションについては、以前に東京・オオタファインアーツに展示された作品で、当時コロナ禍で個人的に母親の病気のこともあり自主ロックダウンを実施しており、東京には行くことができなかった状況だったので、今回大阪で鑑賞することができたのは非常に嬉しかったです。
また当然のことながら、作品の内容やダムタイプとは別に展開されているブブ・ド・ラ・マドレーヌさんのソロ作品としても、今回会場で展示されていた動画の作品「甘い生活」も含めじっくりと初めて鑑賞することもできたのは非常に大きかったです。
追記(2024.4.21.)========
こちらの展示は、美術館の建物工事の影響で急遽4月9日にて中止となりました。(おそらく前日の雨の影響による建物内への漏水→詳細)
今後、何らかの形での再開催を心から期待しております。
今後、何らかの形での再開催を心から期待しております。
関連リンク。========
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おそらく極私的な解釈をした感想かもしれませんので、まずそこはお断りをしておきます。
2016年にびわ湖ホールで「ST/LL」観てから8年。もうそんなに経っていたのか?思うほど高谷さんはここ数年、間を置かずDumb Type(ダムタイプ)を含め作品制作に没頭され、その精力的な活動に圧倒されるばかりなのですが、今回「tangent(タンジェント)」の公演予定を知ったとき、またもや圧倒されたのでした。
それは付け加えると、今年3月下旬から4月にかけて東京・新国立劇場と京都・ロームシアター京都で公演される、RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI「TIME」の予定をすでに聞いていて、その公演を控えている中での今回の「tangent」だったということもあります。
2016年にびわ湖ホールで「ST/LL」観てから8年。もうそんなに経っていたのか?思うほど高谷さんはここ数年、間を置かずDumb Type(ダムタイプ)を含め作品制作に没頭され、その精力的な活動に圧倒されるばかりなのですが、今回「tangent(タンジェント)」の公演予定を知ったとき、またもや圧倒されたのでした。
それは付け加えると、今年3月下旬から4月にかけて東京・新国立劇場と京都・ロームシアター京都で公演される、RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI「TIME」の予定をすでに聞いていて、その公演を控えている中での今回の「tangent」だったということもあります。
●
いつも芸術を鑑賞する時は、事前にできるだけ関連する情報を入れないようにして、できるだけ「素」の状態で鑑賞するようにしています。
ただ今回タイトルの「tangent」と聞いて、高校生の時に習った、三角関数、sin(sine)、cos(cosine)、tan(tangent)を思い出したのは言うまでもないのですが、なにぶん賢くない僕の頭は「何だったけ?」とそこで思考が停止。やはりあまり構えないようにしました。
それでも、会場入りして渡されたパンフレットの高谷さんの文章だけは読んでしまったのですが、ちょっとそれは鑑賞中いろいろな理解の手掛かりになったのではないか、と思います。
今回も高谷さんは音楽を坂本龍一さんにお願いしようとしていたのですが、悲しいことにそれはかなわず、高谷さんが考え抜かれた結果、去年リリースされたアルバム「12」の音を使うことになったようです。
本来はここから印象に残った舞台のシーンを取り上げ感想を書こうと思ったのですが、今後も世界で公演の予定があるとのことで、それはやめてこの舞台でのパフォーマンスを総じて、「tangent」なので3つのキーワードで表すとすれば、
音、光、人、
でしょうか。
この3つがいろいろな形で接する、触れる。
そして、音の部分には終始何かしら「坂本龍一さんなら、こうしたんじゃないか?ああしたんじゃないか?」という試行錯誤が感じられ、それはおそらく的を射ていたように思います。
「12」の音は非常に合っていました。
強いて、ひとつだけシーンを取り上げることが許されるのであれば、このパフォーマンスで唯一激しいかった音と光が乱れ合うことがしばらく続く中で、天井からぶら下げられ舞台中央で円を描くようにまわっていた球体を、舞台袖から出てきた演者が両手でパシッとつかまえ、その瞬間、舞台が暗転して終わるシーン。
僕はすごく気持ちが高ぶりました。
僕にはまるで、この地球上に起こるあらゆる事象。その中でも人が起こしたものは人でしか終わらせることができない、と言っているかのようでした。
つまり言い換えれば、戦争を起こすのも人間、終わらせるのも人間。
そのように高谷さんがメッセージをこめていたかは僕には知る由もないのですが、坂本龍一さん最後のアルバム「12」がリリースされてから一年、おそらく世界でいちばんこのアルバムを聴きこみ、パフォーマンスでどのように使うか?あるいはここからイメージをどのように広げていくか?を考えていたのではないかと推察する時、そこにウクライナでの戦争が終わらないまま、さらに起こったガザでのジェノサイドに坂本さんがいれば無視はしていなかったことは想像に難くないことであり、おそらくそれ自体も高谷さんは考え及んでいた可能性はあるかと思います。
さらに率直に言えば、この作品はもしかすると長らく一緒に作品制作をしてきた坂本さんへの鎮魂歌なのかもしれないとも思いました。
関連リンク。========
この記事、昨年末書きはじめて今さらなんですが、
昨年11月20日から、東京都現代美術館にて行われている展覧会、
現代美術家・寒川裕人(かんがわ ゆうじん)さんによる日本を拠点とするアーティストスタジオの展覧会です。
実は少し以前からお名前は存じ上げていたのですが、今回、東京都現美で、それも個展が行われる、ということで個人的にも俄然注目度がアップしており、いろいろサイトなども拝見したところ、これが社会的なコンセプトも感じられるところがあり、今後非常に注目したくなる現代美術家であることを知ったのです。
寒川裕人さんを知ったきっかけは、もちろん名字が同じであることではあるのですが、通常、「寒川」という名字は(さむかわ)と読む場合と(かんかわ)と読む場合と大きく2つに分かれます。
そして、(かんかわ)と読む場合、ほとんどの場合2つ目の「か」は濁りません。2つ目の「か」は濁っている僕は戸籍の登録の際、誤って2つ目の「か」を濁らせた話もあり、寒川家の元々のルーツである徳島に住む親戚には(かんかわ)と名乗っている家もあります。
そのため、今回、寒川裕人さんの名字が(かんがわ)と名乗っていらっしゃることでさらに(勝手に)親近感が沸いたということもあります。
しかし、今となってはそんなことどうでもよくなっており、彼が創り出している作品に非常に魅かれるのと、その作品が創り出されるコンセプトというのが非常に共感できるものとなっており、またそれが芸術家として確立されたものを感じるからこそ、今回東京都現代美術館での平成生まれの現代美術家としての初めての個展に至った理由になっていると思います。
謎っぽく、ぞわぞわする印象。
同時に美しく芸術として洗練されたものも感じます。
(これは「推し活」したくなる。関西でもやってほしい…。)
コロナ禍でいろいろ難しいところもありますが、観に行ける方はぜひ観に行っていただきたいと思います。
行かれる方は下記のリンクをご参照されてから。
このゴールデンウィーク。
もちろんのことながら、「自主ロックダウン」中なので、どこにも行かなかったのですが、個人的には見逃せないイベントがオンラインで行われていました。
ひとつは、「Visual AIDS」という団体が「Normal Screen」という団体と共催したイベント「"LIFE WITH VIRUS": Teiji Furuhashi in New York」
Dumb Type(ダムタイプ)の中心的人物、古橋悌二さんがニューヨークにいた頃の話を中心に、1994年のDumb Type(ダムタイプ)の作品、「S/N」に関連するイベント。
内容としては、
- 「S/N」記録映像の世界初配信(5月9日まで)
- ブブ・ド・ラ・マドレーヌさん、山中透さん、バーバラ・ロンドンさんのお三方をゲストに迎えたトークライブ配信 (5月1日に開催済み)
貴重な機会だったので迷わず参加!(しかも無料)
非常に充実したトークが拝聴できました。それに、もう拝見することはできないだろうと思っていた「S/N」の記録映像を鑑賞。(とりあえず2回観ました。もう1回ぐらい観たいです。)
「S/N」の記録映像を初めて観たのは、↓この時だったのですが、
この時は、本当に衝撃でした。
衝撃すぎて、次から次へと展開する舞台のシーンに頭の理解が追いつかず、少々、というか、かなり頭の中が混乱していたことに、今回初めて気づいたのでした。
しかし、今回じっくりと鑑賞することができて、さらに理解が深まりました。
映像ではなく、あの時あの場所にいたかった衝動には今回もかられました。
「S/N」から最新作「2020」に至るまで、演者の迫力というか挑む姿勢というか、そういった一貫したものを感じます。
その流れで、上記のリンクにあるイベント、2008年9月の「ダムタイプ《S/N》トーク・イヴェント」が開かれた東京・初台のNTT ICCのサイト上にアーカイブされているイベントの動画も拝見。
ちなみに、このブログの過去記事によると、この時は高谷さん目当てで聞きに行った記述があり、高嶺さんにはちっとも興味がなかったのですが、今は高嶺さんにいちばん興味があり、上記のトークの中で「『S/N』から方法論を学んだ。」旨の発言がありますが、まさしく今でもこの方法論は実践されているように思え、社会(風刺)的なものを孕んだ作品は、いつも僕の脳みそをかき回されます。
そして、ちょうど公開されていた、最新作「2020」の映像も鑑賞。(一部分カット)
もうひとつは、「レイ・ハラカミを振り返る -没後10年トークライブ-」
こちらは、2011年に急逝した音楽家・レイ・ハラカミ没後10年を目前にひかえて行われたトークライブ配信。
こちらは、山本精一さん(ROVO)、高谷史郎さん(Dumb Type)、ルビオラさん(harp on mouth sextet・司会)のお三方。
お三方ともハラカミさんとは深い親交のあった方々。
これまでに聞けなかったお話も出て、特に山本さんのトークのおもしろさも相まって、非常に盛り上がりました。
「S/N」の中で、ピーター・ゴライトリーさんが古橋さんを呼ぶときの
「テイちゃん」と
トークライブの中で、高谷さんがハラカミさんを呼ぶときの
「レイちゃん」が、
僕の頭の中で交錯するゴールデンウィークでした。
関連リンク。--------
こんな動画があったとは!
アートラボ第4回企画展 「LOVERS ー 永遠の恋人たち」/ ARTLAB4 "LOVERS"
「LOVERS 」が発表された1994年当時の映像でしょうか。
なかなか貴重だと思います。
キヤノンの文化支援プログラム「キヤノン・アートラボ」 の一環として発表されたものだったんですね。
動画をアップされているのも、当事者の一人である四方幸子さんの模様。
ありがとうございます。
それにしても、この作品は今でも古びない、いや、むしろ今だからこそ作品の意味合いが増しているように思います。
キヤノンの文化支援プログラムと言えば、写真をやっている者としては「写真新世紀」なんですが、個人的にこちらはどうも敬遠してしまいます。先はわかりませんが…。
追記。
関連リンク。--------
(2008年に東京オペラシティ・アートギャラリーで展示された「LOVERS」を観に行った時の記事)
今月始まった「あいちトリエンナーレ 2019」。
スタート早々から深刻なこと(表現することを今後も考えている者として決して軽視できません)が起き、今後の「表現する」ことへの懸念が高まっていますが、実際に観てきたので、遅ればせながらですが感想も含めいろいろ書きます。
当初の計画としては、高嶺格さんが「あいちトリエンナーレ 2019」に作品を出品することを先月知り、高嶺さんの作品が展示される豊田市美術館を中心とした展示を観るつもりでした。しかし、今回の件を知り、現場に足を運ぶ必要があると考え、急遽、愛知芸術文化センターにも行く予定を組み込みました。
結局8月13日、豊田市美術館には昼過ぎに着。そこで思わず時間をかけてしまったために愛知芸術文化センターに到着したのが遅い時間になってしまい、今回の件で公開が中止された作品があったとはいえ、あれだけの数の、それぞれ意味の深い作品をすべてちゃんと観賞するには時間が足りず、駆け足で作品を見て回るような状態になってしまいました。残念でした。すいませんでした。
要するに、豊田市美術館と愛知芸術文化センターに観に行った感想になります。
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この2会場を拝見し、まず最初に思ったのは、今回の「情の時代」というテーマからして今の時勢にあっているし、これだけのアーティストを見事にあつめて、ここまでの形に持ってきた芸術監督を務めた津田大介さんが凄いなと思いました。これまでの彼の活動はいろいろと知っていますが、NHKの「NEWS WEB 24」にネットナビゲーターとして出演されてからは、特に気になる人物となりました。
また、あの件に関しても先日このブログでも書いたように、中止はやむを得ない判断だったと思うし、観客などに危害が及ぶかもしれないとした判断は賢明だと思います。これについて詳しく思うところは後述するとして、今回、津田さんがこの「あいちトリエンナーレ2019」でチャレンジングでありながもやろうとしたこと、そして津田さんの事後対応を支持する気持ちは変わらないです。
豊田市美術館では、タイミングがうまく合ったのでますギャラリーツアーに参加しました。ボランティアの方々の丁寧な作品の説明がやはり作品の理解を深めてくれます。
タリン・サイモンさん、レニエール・レイバ・ノボさん、アンナ・フラチョヴァーさん、それぞれの作品に社会的要素が含まれていることに感じ入りました。特に、アンナ・フラチョヴァーさんの「アセンション・マークII」というタイトルの作品はその見た目からは最初気味の悪いイメージしかいだかなかったのですが、人類の技術の進化によってもたらされる便利さの影で生まれるマイナスの部分にも目を向けているところが、最初にいだいた気味の悪さにもリンクし印象的でした。
僕にとっての本題であった高嶺さんの作品。今回は2作品出されています。
まずは豊田市美術館に展示の作品から。
取り上げているのは辺野古でした。タイトルは、「NIMBY(Not in My Back Yard)」。
壁に今年2月の辺野古新基地の住民投票の結果を報じる琉球新報の1面と英語等の説明が書かれた紙が貼られています。旭日旗を模った金と黒の模様がデザインされた金屏風のようなものの前に、これも望遠鏡のような空瓶と竹を組み合わせたようなオブジェが三脚の台の上に据え付けられており、三脚にはよく観光地の展望台によく置かれているそれのように、コインを入れるところが設けてあり、そこに備えおいてあるコインを投入すると望遠鏡の中で動画が始まる仕組みになっています。
動画は1回で1分。それが6種類あり合計6分。何度か観ましたがすべて観れたのかどうか自分でもわからないです。
「ニンビー」。いわゆる「必要性は認めるがウチの隣には御免」の考え方を指す言葉をタイトルに辺野古の新基地について考えさせるこの作品。
望遠鏡の中の動画では辺野古ゲート前の座り込みに自ら参加しおそらくリコーの360度撮影カメラを携え、自らが機動隊員に強制的に移動させられる様子も収められています。
沖縄で起こっているこの事実を望遠鏡の中で見せようとしているこの仕組みは、本土の人間にとって物理的にも認識的にも遠い距離で起こっているということの暗喩だろうか?とタイトルになってる言葉の意味も重ねて推測します。
隣接する旧豊田東高校のプールで展示されているもう一つの作品は、「反歌:見上げたる 空を悲しもその色に 染まり果てにき 我ならぬまで」というタイトル。
廃校プールの底部のコンクリートを中心部だけ切り取り垂直に立てています。やってること自体非常にシンプルでありながら物としての迫力がすごい。調べると高さが9mにもなり、それはアメリカのトランプがメキシコとの国境に作ろうとしている壁と同じ高さということです。やはりシンプルだからこそ予想通りなかなか奥が深かったです。
この後、一路栄駅へ。
後から聞いた話によると名古屋市内の展示会場と豊田市の展示会場とを結ぶシャトルバスがあったようですが、僕は愛知の雰囲気を味わいたい気分もあり電車(名鉄+地下鉄)で移動していました。盆休みということもあったでしょうが、なにか落ち着いた雰囲気を感じたのはたまたまでしょうか。
栄駅で地下鉄を降り、不思議な建築物を横目に愛知芸術文化センターへ歩きます。
その不思議な建築物は「オアシス21」というテナントも入っている商業施設でありながら、何か遊戯施設のような、またまわりも緑があり憩いの広場となっています。
こんな市街地の真ん中にこのような憩いの場があるというのは、なかなか名古屋も良いなぁ、と思いました。
そして、その敷地に隣接する愛知芸術文化センターに入るとたくさんの人。とりあえず8階と思ったのですが、順路として10階かららしく感じたので、10階から。しかし、この到着時点で17時前になっており、完全に駆け足で会場内をまわることとなってしまいましたので、あまり作品についての詳しい言及は避けておきます。
それでも、目をひく作品がたくさん。今でも記憶に残っているのは、ウーゴ・ロンディノーネさんの「孤独のボキャブラリー」、アンナ・ヴィットさん「60分間の笑顔」(静止画だと思っていたら動画でびっくりした。)、ジェームズ・ブライドルさん「ドローンの影」(非常にシンプルな作品で伝えようとしていることがこんなに大きいとは!)など。
「表現の不自由展・その後」は、できれば会場目前まで行って、例えばガラス越しに作品が見れるなどのことを予想していたのですが、会場手前で展示していた、CIR(調査報道センター)の作品も展示中止となっていたため、会場手前にも近づけない状況でした。残念でした。
他にもじっくりと観たくなる作品がたくさんあり、そのような作品のめじろ押し感がかなりしました。時間をかけて観るために、またもう一度来てもいいんじゃないかとも思いました。それぐらいすばらしいイベントで本当に観に来て良かったと思いました。
それだけに、例の深刻な件によって、このイベント全体の本質が曲げて受け取られることが残念でなりません。
「表現の不自由展・その後」について、これまでの経緯、そして今も「表現の不自由展・その後」実行委員会との協議が続いていたり、また「あいちトリエンナーレ」の周辺に存在しているだけでこのイベントには関係のないところにまで問題が波及していたり、いろいろと現在進行系で状況が流動的ですが、僕が訪れた8月13日には会場は至って平穏で違和感も感じず、むしろ今回のことで現場のスタッフは連帯感をもって仕事をされているというか、学芸員や警備員、スタッフやボランティアを含めて、豊田市美術館でも愛知芸術文化センターでも丁寧な案内を受けました。これもまたこのイベントが素晴らしいと思った一因でしょう。(スタート当初は大変だったと思いますが…)
現時点での僕のこの件の捉え方は、正確には作者が慰安婦像ではないと定義しているのにも関わらず、それをあえて慰安婦像と勝手に解釈し、それを「ヘイト」とまで決めつけるのは、そもそも「ヘイト」を意味を誤解している受け手側だけの問題であり、誤解を恐れずに言えば「芸術」というものを正しく理解していない人の戯言だと思います。つまり、作品のコンセプトや訴求や伝えたいことを理解することなく、あの作品を慰安婦と決めつけそれを日本に対する侮辱だと思うのは、そう思う人自身に問題があるのではないか?と感じるのです。よって、そのような一方的な個人的な考えで公的な立場から展示物を撤去させる発言を行った河村たかし氏の行為は日本国憲法第21条に明確に違反していると考えます。
そして、今回の件でいろいろなネット上の記事や情報を確認していく中で、僕が一番問題と捉え強調しておきたいのは、藤原新也さんが8月14日付けで公開されているこちらの記事と、さらに津田さんがインタビューに答えられている8月24日に公開されているwebDICEのこちらの記事で書かれていることです。
津田さん自身はあまりこのことに言及していませんし、これまであまり大ぴっらにされていないと思うのですが、僕もこの「警察の動きが鈍い」ことが一番の問題点だと思います。
警察が当然のごとく適切に能動的に動き、すべてあるいはほとんどの犯人が逮捕され、そのうえで盤石なセキュリティを施していれば、まず、展示の中止はなかったように思いますし、また今後、展示を再開するにあたってもこの点は最重要なファクターです。
そして、そもそもこの点がしっかり成されているからこそ、今、津田さんやアーティスト、関係する人々のまわりで行われている議論もはじめて意味を成すものになると思うのですが、いかがでしょうか?津田さんは今現在、板挟みになっているようにしか思えません。また発言も歯切れの悪いものとなっています。
津田さんが8月15日に公開された「お詫びと報告」
以下に、今回の件で参考になる関連記事を紹介しておきます。
表現の不自由展・その後 (公式サイト)
この騒動が表面化した時、誰が謝るべきなのか?について一時議論が出たことがありました。その時に僕は戦前の「ゴーストップ事件」を思い出したのです。
大阪の天六交差点で信号無視をした陸軍兵とそれを注意した警官との間に起こった喧嘩を端に発する陸軍と警察の対立で、以後の軍の暴走のきっかけになった事件。
このとき、日本の社会は結局本質的な問題に言及されることのないまま双方の和解(お互いにお互いが謝罪する)ということで事が済まされています。
同じように今回も本質的なことに言及されないまま、もしくは日本の社会が本質的なことを問題視しないのであれば、日本は再び危険な道に進む社会になるのではないか?と大変危惧します。だからこそ、今こそ「名古屋市長が日本国憲法第21条に違反している」こと、「警察の動きが鈍い」ことに声をあげなければいけないと考えます。
またマスコミもこの事実を報じなければいけない立場にあるはずです。
会期は10月14日(月・祝)まであります。
この記事を公開した段階で、まだ約1ヶ月半あります。
気になっている方はぜひとも足を運んでいただいて、本来やろうとしていた状態ではありませんが、その部分も含めて、津田さんがやろうとしていたこと、レベルの高い各アーティストの素晴らしい作品を現地で肌で感じていただきたいと思います。
僕も仕事と家の都合が許す限り、どうなるかわかりませんが、もう一度行ってみたいと思っています。
最後に、
今後、もし観客の立場から今回の「あいちトリエンナーレ2019」が当初の計画通り行われず、本来の状態で観賞できなかったことについて、日本国憲法第21条に基づき、そのきっかけとなった河村たかし氏などを相手取った訴訟が行われる動きが出たならば、その形式にもよりますが僕はその原告の一人として名をつらねたい考えです。
雨の京都もまた良いものです。
3ヶ月連続、今年3回目の京都は、日本を代表するメディアアーティスト集団「Dumb Type(ダムタイプ)」の中心メンバーだった古橋悌二さんの生誕祭のイベントに行ってきました。
まず、触れておきたいのは山中透(DJ LALA)さんのスペシャルライブ。
初めてで、終始、鳥肌モノでしたが、最後の方で「Pleasure Life」と「S/N」の音楽を新バージョンで演奏され、
特に、「S/N」の音楽をされた時には、初めて「S/N」のビデオを東京のICCで観た時に衝撃を受けたことを思い出しました。
もう何年前になるのでしょうか?
確か、そのビデオを観てから、高谷史郎さん、高嶺格さん、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさん、浅田彰さんのトークショーを聞いた記憶があります。
Dumb Type - S/N
今、調べてみたら、11年前。
こんな記事やページがあった。
ダムタイプ《S/N》 トーク・イヴェント@ICC - junzirogoo!!!
ダムタイプ《S/N》トーク・イヴェント
(ICC・ページ下部の皆さんのお写真が若い!)
この時に、ダムタイプにこんなに没頭するなんて、思いもしなかったです。
話を元に戻して、
あと、内容としては、OK GIRLSのアーバンギャルド・ショウと南琢也 (softpad)さんのDJプレイだったわけですが、
OK GIRLSの素敵なパフォーマンスにおりまぜられているユーモアで起きる会場のクスクス笑いが良かったし、
南さんのDJでは、途中、YMO「Behind the Mask」のリミックス的な音源が流れたりして、内容の濃いDJだと思いました。
終電の時間もあり23時のラストまでいることはできなかったのですが、今回の司会をしていたブブさんとご挨拶もできたこともあり、いろいろと行ってよかったです。
ところで、ダムタイプについては、ブブさんが司会の中で仰られていたとおり、
ご存知の方もおられると思いますが、来年、京都のロームシアターで18年ぶりの新作が発表される予定です。
また、今年の11月からは東京現代美術館にて下記の展覧会があります。
ページを見ていると東京現美のほうでも新作インスタレーションがあるようで、これはこれは非常に楽しみです。
一日、池田亮司作品三昧。
いやぁ、すごかったですね。
池田さんの凄さを思い知りましたね。
早速ですが、「concert pieces」の4作品から観た順に。
「C⁴I」
軍事的オペレーションにおける指揮統制のための情報伝達・情報処理システムの名称をタイトルにしたこの作品(パンフレットより)。
言語がやはり英語で細かいところはよくわかりませんでしたが、「その時」は本当にやってくるかもしれない、という警告とも取れる訴求はもの凄い深刻感を持って迫ってきました。
これまで観賞した池田作品の中でいちばん直接的であり社会的訴求が強く感じた作品です。
「datamatics [ver.2.0]」
この作品は数年前に同じく京都国際舞台芸術祭で京都芸術劇場・春秋座で観賞した作品。→詳しくはこちら。
微視的なDNAや分子から巨視的な宇宙まで、私たちの世界に浸透する不可視で多様な実体を持つ〈データ〉を知覚するための可能性を探る「datamatics」は、オーディオヴィジュアル・コンサート、インスタレーション、出版そしてCDへと展開してきたアートプロジェクト。その最終形(パンフレットより)。
なかなか無機質なデータを題材にしつつも、壮大な映像と音響を体感させてくれます。
少し気になったのは、前回春秋座で観賞した時よりも音響が尖っていたというか、硬かったというか。春秋座の時はもう少し柔らかく意外と非常に観賞しやすかった印象があったため、今回は少し耳につきました。どちらが作者的にはベストなんでしょう?
「formula [ver.2.3]」
音の周波数とスクリーン上の動きが完全に同期、観る者を二進法の幾何学で描かれる空間に配置し、その知覚を増幅させるための闇が探究される(パンフレットより)。
池田作品の中でオーディオヴィジュアルの部分でのいろいろな表現手法を見せてもらった気がします。他の作品にも言えることですが先進的な手法ですごく不思議な体験をさせてもらった感じがあります。そして他の芸術作品では見られないような「池田流」を感じました。
「matrix」
純粋なサインウェーブとホワイトノイズを彫刻的素材として用いたサウンド・インスタレーションのシリーズとして展開。
鑑賞者が音場を通過すると、その動きが音と干渉することで、微妙な振動パターンが耳の周りに発生し、極めて個人的な経験を生み出す作品となった。今回2016バージョンとして再構築、コンサート形式で日本初公開(パンフレットより)。
この作品は他の池田作品に比べると非常にシンプル。
始まると、真っ暗になる会場。しだいに聴こえてくる音。すべての意識が耳に集中する。
耳元で音によるパルス、音圧を感じながらその変化を楽しむ。15〜20分ぐらいつづく。
するといきなり目前が明るくなる。数十個の白熱灯のようなライトが観客席側に向いて一斉に点灯し眩しい。
シンプルでありながら考えられていて思っている以上の体験を観客に与えることができている作品。
池田さんがこの作品で、「世界の最先端を行くアーティストとしての称号を得た。」(パンフレットより)というのが納得できる。
そして、屋外で展示されていた、「the radar [kyoto]」。
(展示の雰囲気を撮影した動画は→こちら。instagram。)
特設の巨大スクリーンに映し出されるのは、展示される地点の緯度・経度から観測できる宇宙を膨大なデータベースを元にマッピングしたイメージの集積となる。私たちの通常の知覚では計り知れない広大な宇宙の境界面を、研ぎ澄まされた映像と音によって体験する貴重な機会だ(パンフレットより)。
相変わらず奥の深い作品で、巨大なスクリーンと同様にこの作品のコンセプトの広大な視野、作品の壮大なる世界を感じざるをえない。
このようなアートが街中の公園にいきなりどーんと現れその場を非日常空間にしていることだけで十分にすごいことなんだが、それができている京都という街に憧れを持ってしまう。付け加えれば、すぐそばには蔦屋書店とスターバックスがあり、例えばコーヒーを飲みながらでもこの作品を楽しむこともできてしまう。
作品についてはできれば集積されたイメージの解説などを聞きたくなるのだが、そうでなくともこの研ぎ澄まされた映像と音響がそんなことをどうでもよくしてしまう研ぎ澄まされた時間を作り出している。観賞した観客に少し贅沢な至福を与えている。
ということで、
池田亮司作品の5連発でしたが、個人的なことを言えば、これまで僕は実はそれほど池田さんを重視していなかったのです。
それは社会的訴求がいまいち少し薄いと感じていたからですが、そうではなく特に、のっけから「C⁴I」を観てその認識が誤りであることを思い知らされました。
他のダムタイプのアーティスト同様、社会的訴求を持っているアーティストとして認識させられました。
その点で、今回の観賞は特に有意義なものだったと思いました。
(翌日、体調不良になってもその甲斐はあったわけです^^;;;→こちらの記事参照。)
TB。--------
「junzirogoo!!!:池田亮司『datamatics [ver.2.0]』@京都芸術劇場 春秋座・感想。」
正直、そんなに期待していなかったんです。
事前に情報はわざと取得しないようにしているので。
しかし、その光景を見て「えっ、そこまでしてるの!」と高谷史郎さんと坂本龍一さんの本気度を感じ鳥肌ものでした。
完全にインスタレーションをやりきっているということ。
素晴らしい!!
いや、失礼ながら写真や映像が普通に壁面に掲示されていて、その展示室に坂本さんの音楽が流れている程度ぐらいにしか思ってなかったんです。ここまでやっているなんて知らなかった。失礼ながら。ほんと、すいませんm(_ _)m
いつものやり口と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、それをちゃんとやりきっているのですから凄いですよ。
前置きはさておき、
2013年から毎年行なわれている「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」。
今年はなんとか機会を確保できましたので、クリスチャン・サルデさんのプランクトンの顕微鏡写真を高谷史郎さんと坂本龍一(教授)さんがさらに高いレベルのアートに昇華している展示、「PLANKTON 漂流する生命の起源」展をメインに鑑賞する予定で京都へ。
会場は、京都市美術館別館2階。
本館は昨年の「PARASOPHIA 京都国際現代芸術祭」での高嶺格さんの展示を鑑賞した際、訪れていますが、こちらも重厚な建物。美術館にふさわしい。築はこちらの方が新しいのかな。昭和初期の建築は好きですね。
会場の入り口では、会場全体が薄暗くライティングされているせいと構造もあって、その奥にどのような展示が行なわれているかあまりわからない状況。
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会場に少し入ると、美しいプランクトンの大きな写真が壁面にズラッと展示されています。全部で16点。
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どれも生命の神秘を感じます。
それを鑑賞しながら奥に進んでいくと左手奥にさらに奥手に入る入り口があります。
その入り口に立ってその奥の様子を伺った時、息を呑みました。
「(ほぼほぼ)LIFEじゃん!」
思わずその場でつぶやいてしまいました。
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さすがに天井に吊り下げられた水槽の水煙幕に映像が映写されているものではないのですが、それがそのまま床にも淡く映し出されていることを考えると似ているのです。
LIFEの時のような広さの空間にて、床に12面の16:9比率の液晶ディスプレイ(4Kなのかな?)が4×3面に配置され、そこにプランクトンの映像が映し出されています。
ある画面には静止画。ある画面には動画でプランクトンの動きが映し出されています。
思わず映像の上に立てるのかな?と勘違いしてしまいましたが、そんなことしたらディスプレイが壊れるでしょう。LIFE鑑賞経験者は要注意です!(笑)
空間の壁面(西側と東側に4つずつだったと思います)の少し高い位置に等間隔にLIFEの時にも使用されていたスピーカーが備え付けられ、そこから教授の音楽がエンドレスに流れています。どんな楽曲かは書きませんが、いつものあんな感じです。
映像の方は、時間周期とかはなく、これもLIFEの時のようにそれぞれのディスプレイがランダムに動いています。そして、7~8分ぐらいおきにシンクロして動く時があるそうです。
映像と音楽に満たされたその空間はいつまでもいたくなる美しく神秘的な空間で、何か普遍的なものを感じる空間でもありました。考えれば、「LIFE=生命」でもあり、クリスチャン・サルデさんの「生命」の写真を、今回、高谷さんと坂本さんがその点もありこのような展示を行ったのかな?とも思いました。
そんなことを考えながら、会場には1時間ぐらいいてしまいました。
同じ建物の1階では、CHANELが絡んだファッション写真の展示が行われており観ました。
これまでのファッション写真のなかなか有名な写真も展示されており意義ある展示です。
会場もなかなか凝った設営をされており、さすが「CHANEL」です。ただちょっと順路がわかりにくい。
ファンにとっては写真だけでない何かがあるイベントだったのでしょう。
京都市美術館別館西側に位置するロームシアター京都。その1階で行われていた写真展。
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大々的に行われている写真のイベントで、実にいろいろな作品を観る中、このような力のあるドキュメンタリー(スナップ)写真が展示されているとホッとします。
タイトルからただの「撮り鉄」の写真とか想像したらダメですよ。
中国の鉄道の昔からの安価な車両に乗り合わせる乗客たちの人間模様と言いましょうか、人間臭さがリアルに捉えられており素晴らしい作品群でした。
そして、それは昔の日本にもあったような情景でどことなく懐かしい。
地味に行なわれている写真展ですが、ぜひ観てほしい展示です。
近年、写真人口は増えたとはいえ、僕は写真をやる人間として、まだまだ盛り上がっていってほしいと願ってやみません。
このような大規模なイベントはもっと各所に広がっていってほしいとも思っています。そして、写真の裾野を広げていってほしい。
そう思っていながらも僕も毎年仕事の関係上、全部観れないのが残念なのですが、逆に僕のようにせめていちばん観たい展示だけでも観てほしい、と毎年思う「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」です。
今年は、いよいよ今週末、5月22日(日曜日)までとなっています。