緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

安野光雅さんを偲ぶ

2021年01月28日 16時22分18秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

令和3年1月

敬愛する安野光雅さんを偲ぶ

「国際アンデルセン賞」を受賞するなど海外でも高い評価を受けている安野光雅さんが先月、肝硬変のため亡くなりました。

彼は子供の頃より画家になる夢を抱いていた。美術のみならず、科学数学文学などにも造詣が深く豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表した。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く

主な著書に『ふしぎなえ』『繪本平家物語』『天動説の絵本』『空想の絵本』『ABCの本』『旅の絵本』『算私語録』『空想工房』『空想書房』『わが友 石頭計算機』(=『石頭コンピュータ』としてリメイクされている) など。アンデルセンの原作を森鴎外が翻訳した『即興詩人』の熱心なファンで、舞台となったイタリアの紀行文『繪本即興詩人』を発表している。

略歴

1926年(大正15年)3月20日、島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。1940年(昭和15年)山口県立宇部工業学校(現・山口県立宇部工業高等学校)採鉱科に入学。1944年1月、宇部工業学校を繰り上げ卒業し、住友鉱山に就職して忠隈鉱業所(飯塚市)に務める。1945年4月に応召し、香川県王越村(現坂出市)にて上陸用舟艇の秘匿場建設に従事する。復員後の1946年、敗戦直後の混乱期に無資格のまま山口県徳山(現・周南市)で小学校の教員を務める。のち山口師範学校(現・山口大学教育学部)研究科を修了し、1949年(昭和24年)に美術教員として上京する。約10年間三鷹市の三鷹市立第五小学校や明星学園武蔵野市立第四小学校で教師を務めるかたわら、玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。明星学園・国語部、教育科学研究会・国語部会などによる日本語指導(言語の教育)のテキスト『にっぽんご』シリーズの装幀も手がけたのもこの頃である。この小学校教諭時代の教え子に後の筑摩書房取締役の編集者松田哲夫がおり、そのつながりで同社の多数の本の装丁をしている。数学者の藤原正彦も教え子。二紀会に所属していたが、食べるための仕事のために出品できなくなり1960年代に退会した。

35歳のとき教師を辞して絵描きとして自立する。1968年(昭和43年)42歳の時に刊行された最初の絵本『ふしぎなえ』(福音館書店)で絵本作家としてのデビューを果たす。『ふしぎなえ』は1961年フランスを旅したときに目にしたエッシャーの絵に大きな影響を受け不可能図形の不思議な世界を描き世界中で評判となった代表作である。

エッシャーからの影響についてはエッセイ「『ふしぎなえ』について」(「空想工房(平凡社)」)で自ら「エッシャーの作品に魅せられて呪いにかかった」旨を述べている。

その後、次第に世界的評価が高まり、絵本は世界各国で翻訳された。画家としても数多くの作品を発表し、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の装画も担当した。文学にも詳しく、著述家としても活躍した。大阪府立国際児童文学館(1984年開館)のシンボルマークも担当した。

劇作家の井上ひさしが主宰する劇団こまつ座の宣伝美術を数多く手がけた。1996年からちくま文庫で刊行されたシェイクスピア戯曲の松岡和子による新訳シリーズでは全巻の表紙画を描いている。

2001年の春、故郷の津和野町に多くの作品を常時展覧する「安野光雅美術館」が開館した。2011年の夏に神奈川近代文学館で展覧会「安野光雅の世界」が開催された。2015年の夏には東京の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で、展覧会「旅の風景 安野光雅 ヨーロッパ周遊旅行」が開催された。2017年には京丹後市にも常設の美術館「森の中の家 安野光雅館」が開館した。 2020年12月24日肝硬変のため死去した。94歳没。

受賞

1974年度芸術選奨新人賞講談社出版文化賞小学館絵画賞、ケイト・グリナウェイ賞特別賞(イギリス)、ブルックリン美術館賞、ホーンブック賞、最も美しい50冊の本賞(以上、アメリカ)、1977年BIBゴールデンアップル賞(チェコスロバキア)、1978年、1980年ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞(イタリア)、1979年絵本にっぽん賞など、内外の数多くの児童書・美術の賞を受賞。1984年には、全業績に対し国際アンデルセン賞国際児童図書評議会)を受賞した。1988年紫綬褒章。1997年勲四等旭日小綬章受章。2008年菊池寛賞受賞。2012年文化功労者。囲碁も愛好し、2007年の大倉喜七郎賞を受賞した。

著作

1960年代
  • 『小学校図画工作科指導細案 3・4年』 米倉正弘共著、明治図書出版、1960年
  • 『小学校の図画工作』 米倉正弘、西光寺亨共著、明治図書出版、1961年
  • 『たのしい木彫』 グラフ社〈手芸文庫〉、1965年
  • 『ふしぎなえ』 福音館書店こどものとも〉、1968年
  • 『イタリアのむかしばなし カナリア王子』 カルヴィーノ再話、安藤美紀夫訳、福音館書店、1969年 / 福音館書店〈福音館文庫〉、2008年
  • 『かずくらべ』 西内久典ぶん、福音館書店〈かがくのとも〉、1969年
  • 『さかさま』 福音館書店〈こどものとも〉、1969年
1970年代
  • 『かず』 西内久典ぶん、福音館書店、1970年
  • 『なかまはずれ』 福音館書店〈かがくのとも〉、1970年 / 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本1』 福音館書店、1982年
  • 『くらべてみよう』 福音館書店〈かがくのとも〉、1971年
  • 『ふしぎなさーかす』 福音館書店〈こどものとも〉、1971年
  • 『ふしぎなきかい』 福音館書店〈かがくのとも〉、1971年 / 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
  • 『カットのエスプリ』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1972年
  • 『くらべてかんがえる』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
  • 『かずのだんご』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
  • 『みずをかぞえる』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
  • 『ひっかかった春』 半村良文、フレーベル館〈こどもSF文庫〉、1972年
  • 『さよならティンク』 鈴木妙子作、偕成社、1973年
  • 『昔咄きりがみ桃太郎』 岩崎美術社、1973年 / 『きりがみ昔咄 桃太郎・舌切雀・花咲爺』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1980年
  • 『わが友石頭計算機』 大伏茂之監修、ダイヤモンド社、1973年 / 文藝春秋文春文庫〉、1987年 / 『石頭コンピューター』 野崎昭弘監修、日本評論社、2004年
  • 『じゅんばん』 福音館書店〈かがくのとも〉、1973年 / 『はじめてであうすうがくの絵本1』 福音館書店、1982年
  • 『十のいましめ』 永井明文、女子パウロ会、1974年
  • 『昔咄きりがみ舌切雀』 岩崎美術社、1974年 / 『きりがみ昔咄 桃太郎・舌切雀・花咲爺』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1980年
  • 『昔咄きりがみ花咲爺』 岩崎美術社、1974年 / 『きりがみ昔咄 桃太郎・舌切雀・花咲爺』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1980年
  • 『美しい数学 集合』 野崎昭弘監修、ダイヤモンド社、1974年
  • 『アーコのおみまい』 大石真作、小学館、1974年
  • 『ジムのおばけキャベツ』 ディヤングさく、白木茂やく、文研出版、1974年
  • 『まよいみち』 福音館書店〈かがくのとも〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本3』 福音館書店、1982年
  • 『ふしぎなのり』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本1』 福音館書店、1982年
  • 『もじあそび』 福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年
  • 『まほうのくすり』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本3』 福音館書店、1982年
  • 『きれいなさんかく』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本3』 福音館書店、1982年
  • 『てんてん……』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
  • 『ABCの本 へそまがりのアルファベット』 福音館書店、1974年
  • 『6月31日6時30分』 寺村輝夫作、童心社、1974年
  • 『海っこの貝がら』 大野允子作、ポプラ社、1974年
  • 『シンデレラ』 世界文化社〈ドレミファランド〉、1974年 / 世界文化社、2011年
  • 『かぞえてみよう』 講談社、1975年
  • 『きつねのざんげ』 千趣会〈千趣会ミニブックス〉、1975年 / 岩崎書店、1979年
  • 『貝になった子ども』 松谷みよ子著、偕成社〈偕成社文庫〉、1975年
  • 『あいうえおの本』 福音館書店、1976年
  • 『手品師の帽子』 童心社、1976年 / 新潮社〈新潮文庫〉、1985年 / 筑摩書房ちくま文庫〉、1992年
  • 『かげぼうし』 冨山房、1976年
  • 『おおきなもののすきなおうさま』 講談社、1976年
  • 『画集 野の花と小人たち』 岩崎書店、1976年 / 『ハンディー版 野の花と小人たち』 岩崎書店、1997年
  • 『ひだりとみぎ』 福音館書店〈かがくのとも〉、1976年 / 『はじめてであうすうがくの絵本3』 福音館書店、1982年
  • 『あけるな』 谷川俊太郎作、銀河社、1976年 / ブッキング、2006年
  • 『きりがみのイラストレーション』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1976年
  • 『がまの油 贋作まっちうりの少女』 岩崎書店、1976年
  • 『旅のイラストレーション』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1977年
  • 『旅の絵本』 福音館書店、1977年
  • 『歌の絵本 日本の唱歌より』 芥川也寸志編、講談社、1977年
  • 『もりのえほん』 福音館書店〈こどものとも〉、1977年
  • 『安野光雅の画集 ANNO 1968-1977』 講談社、1977年
  • 『きりがみ江戸いろは』 新泉社、1980年
  • 『せいくらべ』 福音館書店〈かがくのとも〉、1978年 / 『はじめてであうすうがくの絵本1』 福音館書店、1982年
  • 『子どもの季節』 岩崎書店、1978年
  • 『ヨーロッパ・野の花の旅』 講談社、1978年
  • 『旅の絵本 II』 福音館書店、1978年 / 2006年11月改訂版
  • 『ゆうちゃんとこびと』 野長瀬正夫作、フレーベル館、1979年
  • 『歌の絵本II 世界の唱歌より』 芥川也寸志編、講談社、1979年
  • 『空想工房』 平凡社、1979年6月 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1986年
  • 『天動説の絵本 てんがうごいていたころのはなし』 福音館書店、1979年
  • 『美の幾何学 天のたくらみ、人のたくみ』 伏見康治中村義作共著、中央公論社〈中公新書〉、1979年 早川書房〈ハヤカワ文庫〉、2010年
  • 『きりがみいろはかるた』 講談社、1979年
1980年代
  • 『津和野』 岩崎書店、1980年 / 『ハンディー版 津和野』 岩崎書店、1997年
  • 『魔法使いのABC』 安野雅一郎共著、童話屋、1980年
  • 『話のイラストレーション』 岩崎美術社、1980年
  • 『算私語録』 朝日新聞社、1980年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1985年
  • 『狩人日記』 平凡社、1980年 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1985年
  • 『イタリアの丘』 朝日新聞社、1980年
  • 『魔法使いのあいうえお』 安野雅一郎共著、童話屋、1980年
  • 『ロマンチック街道』 講談社、1980年
  • 『フランスの道』 朝日新聞社、1980年
  • 『カルチャー・ライフの知恵』 堺屋太一、松本克美共著、新潮社、1980年
  • 『九つの物語』 長谷川四郎著、青土社、1980年
  • 『西洋古都』 岩崎書店、1981年
  • 『安曇野』 文藝春秋、1981年
  • 『ソナチネの木』 岸田衿子著、青土社、1981年
  • 『10人のゆかいなひっこし』 童話屋〈美しい数学〉、1981年
  • 『旅の絵本 III』 福音館書店、1981年
  • 『らんぷと水鉄砲』 三木卓共著、新潮社、1981年 / 新潮社〈新潮文庫〉、1985年
  • 『さよならさんかく』 講談社、1981年
  • 『すうがく博物誌 上』 森毅著、童話屋〈美しい数学〉、1982年 / 『新装版 すうがく博物誌』 童話屋〈美しい数学〉、1995年
  • 『ニュルンベルクの道画師 さし絵「中世の窓から」』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1982年
  • 『対談 数学大明神』 森毅共著、日本評論社、1982年 / 新潮社〈新潮文庫〉、1986年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1992年 / 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2010年
  • 『イギリスの村』 朝日新聞社、1982年
  • 『すうがく博物誌 下』 森毅著、童話屋〈美しい数学〉、1982年 / 『新装版 すうがく博物誌』 童話屋〈美しい数学〉、1995年
  • 『壺の中』 安野雅一郎作、童話屋〈美しい数学〉、1982年
  • 『きりがみのイラストレーション』 岩崎書店〈双書・美術の泉〉、1982年
  • 『安野光雅対談 ロジックの詩人たち』 平凡社、1982年
  • 『起笑転結』 青土社、1983年 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1988年
  • 『アメリカの風』 朝日新聞社、1983年
  • 『旅の絵本 IV』 福音館書店、1983年
  • 『八十頁世界一周』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1983年
  • 『街のイラストレーション』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1983年
  • 『蚤の市』 童話屋、1983年
  • 『赤いぼうし』 野崎昭弘文、童話屋〈美しい数学〉、1984年
  • 『安野光雅装幀集』 岩崎書店、1984年
  • 『算私語録 そのII』 朝日新聞社、1984年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1986年
  • 『スペインの土』 朝日新聞社、1984年
  • 『空想画房』 平凡社、1984年
  • 『3びきのこぶた』 森毅文、童話屋〈美しい数学〉、1985年
  • 『地球は日時計』 福音館書店〈たくさんのふしぎ〉、1985年
  • 『裏道のスペイン』 文藝春秋、1985年
  • 『中国の市場 北京/大同/洛陽/西安』 朝日新聞社、1986年
  • 『中国の運河 蘇州/杭州/紹興/上海』 朝日新聞社、1986年
  • 『黄金街道』 講談社、1986年 / 講談社〈講談社文庫〉、1994年
  • 『噴版 惡魔の辭典』 なだいなだ日高敏隆別役実横田順彌共著、平凡社、1986年 / 平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1998年
  • 『空想茶房 対談安野光雅』 平凡社、1986年
  • 『エブリシング』 青土社、1987年 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1994年
  • 『中国故景』 中村愿文、岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1987年 / 『安野光雅のイラストレーション 中国故景』 岩崎美術社、2000年
  • 『花』 杉本秀太郎文、岩崎美術社、1987年 / 岩崎書店、1995年
  • 『いないいないばあのえほん』 童話屋、1987年
  • 『絲綢の道はるか』 澤地久枝共著、文藝春秋、1987年
  • 『算私語録 そのIII』 朝日新聞社、1987年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1990年
  • 『きつねがひろったイソップものがたり1』 岩波書店、1987年
  • 『きつねがひろったイソップものがたり2』 岩波書店、1987年
  • 『安野光雅の異端審問』 森啓次郎共著、朝日新聞社、1988年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1994年
  • 『にこにこかぼちゃ』 童話屋、1988年
  • 『オランダの花』 朝日新聞社、1988年
  • 『画文集 安野光雅の「ファーブル紀行」』 日本放送出版協会、1988年
  • 『おめんのえほん』 童話屋、1989年
  • 『読書画録』 講談社、1989年 / 講談社〈講談社文庫〉、1995年
  • 『ZEROより愛をこめて』 暮しの手帖社、1989年 / 『君は大丈夫か ZEROより愛をこめて』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年
  • 『三つの鏡 ミヒャエル・エンデとの対話』 ミヒャエル・エンデ、井上ひさし、河合隼雄共著、子安美知子編訳、朝日新聞社、1989年
1990年代
  • 『黄昏のベニス』 文藝春秋、1990年
  • 『スイスの谷』 朝日新聞社、1990年
  • 『きつねがひろったグリム童話1 漁師とおかみさん』 岩波書店、1991年
  • 『きつねがひろったグリム童話2 あっぱれ四人兄弟』 岩波書店、1991年
  • 『空想書房』 平凡社、1991年
  • 『安野光雅のスケッチブック』 日本航空文化事業センター、1991年
  • 『オランダの画帖』 日本放送出版協会、1992年
  • 『カリジェの世界 スイスの村の絵本作家』 日本放送出版協会、1992年
  • 『安野光雅の新異端審問』 森啓次郎共著、朝日新聞社、1992年 / 『安野光雅の異端審問』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1994年
  • 『ふしぎなたね』 童話屋〈美しい数学〉、1992年
  • 『どうぶつたち』 まどみちお詩、美智子選・訳、すえもりブックス、1992年
  • 『ドイツの森』 朝日新聞社、1993年
  • 『文学の絵本 「ちくま日本文学全集」の装画』 筑摩書房、1993年
  • 『マッチうりのクリスマス』 童話屋、1993年 / 安野光雅美術館、2004年改訂版
  • 『ことば・把手・旅 暮しの中のデザイン』 天野祐吉共著、暮しの手帖社、1994年
  • 『みちの辺の花』 杉本秀太郎文、講談社、1994年 / 講談社〈講談社学術文庫〉2006年
  • 『ニューイングランド 安野光雅のスケッチブック』 日本航空文化事業センター1994年
  • 『そこまでの空』 俵万智著、河出書房新社、1994年 / 『俵万智の贈り物 そこまでの空』 河出書房新社、1998年
  • 『台湾小景 『街道をゆく』スケッチ集』 朝日新聞社、1995年
  • 『安野光雅・文集1 蟻と少年』 筑摩書房、1995年
  • 『安野光雅・文集2 わが谷は緑なりき』 筑摩書房、1995年
  • 『安野光雅風景画を描く』 日本放送出版協会〈NHK趣味百科〉、1995年
  • 『安野光雅・文集3 こころのふち』 筑摩書房、1995年
  • 『安野光雅・文集4 ホテル・ヴェリエール』 筑摩書房、1995年
  • 『安野光雅・文集5 空想犯』 筑摩書房、1995年 / 講談社〈講談社+α文庫〉、2001年
  • 『安野光雅・文集6 手品の種』 筑摩書房、1995年
  • 『繪本 平家物語』 講談社、1996年 / 『繪本 平家物語 カジュアル版』 講談社、2006年
  • 『ペペロン村の四季』 毎日コミュニケーションズ、1996年
  • 『ニューヨークの落葉 『街道をゆく』スケッチ集』 朝日新聞社、1996年
  • 『散語拾語』 朝日新聞社、1996年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1999年
  • 『カタロニア カザルスの海へ』 日本放送出版協会、1996年
  • 『イタリアの陽ざし』 朝日新聞社、1997年
  • 『あなたと読む恋の歌百首』 俵万智著、朝日新聞社、1997年
  • 『画家たちの旅 スケッチノート』 平松礼二ほか共著、日本放送出版協会、1997年
  • 『安野光雅きりえ百首 俵万智と読む恋の歌より』 日本放送出版協会、1997年
  • 『スケッチ集 『街道をゆく』』 朝日新聞社、1997年
  • 『生きることはすごいこと』 河合隼雄共著、講談社〈講談社ソフィア・ブックス〉、1998年 / 『人が、ついとらわれる心の錯覚』 講談社〈講談社+α文庫〉、2002年
  • 『ふしぎなポケット』 まどみちお詩、美智子選・訳、すえもりブックス、1998年
  • 『絵のまよい道』 朝日新聞社、1998年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、2006年
  • 『安野光雅のポスター』 岩崎書店、1998年
  • 『繪本 シェイクスピア劇場』 松岡和子文、講談社、1998年
  • 『めるへんいっぱいデンマーク紀行』 宮沢乃里子文、東京書籍、1999年
  • 『ヨーロッパの街から村へ』 朝日新聞社、1999年
  • 『空想の繪本』 講談社、1999年
2000年代
  • 『日曜喫茶室 頭の特効薬』 はかま満緒共著、講談社、2000年
  • 『おとぎの国の郵便切手』 岩崎書店、2000年
  • 『故郷へ帰る道』 岩波書店、2000年
  • 『安野光雅のイラストレーション 歌とおはなし』 岩崎美術社、2000年
  • 『安野光雅のイラストレーション 旅ときりがみ』 岩崎美術社、2000年
  • 『新編 算私語録』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、2000年
  • 『片想い百人一首』 筑摩書房、2000年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2007年
  • 『物語の街から村へ』 朝日新聞社、2001年
  • 『歌の風景』 講談社、2001年
  • 『ヨーロッパ・絵はがき風味』 岩崎書店、2001年
  • 『ねがいは「普通」』 佐藤忠良共著、文化出版局、2002年 / 『若き芸術家たちへ ねがいは「普通」』 中央公論新社〈中公文庫〉、2011年
  • 『天は人の上に人をつくらず』 童話屋〈小さな学問の書〉、2001年
  • 『職人たちの春』 講談社、2002年
  • 『サヨナラだけが人生だ』 高橋源一郎高山文彦共著、恒文社21、2002年
  • 『昔の子どもたち』 日本放送出版協会、2002年
  • 『村の広場』 朝日新聞社、2002年
  • 『絵本 即興詩人』 講談社、2002年 / 『「即興詩人」の旅』 講談社〈講談社+α文庫〉、2009年
  • 『旅の絵本 V』 福音館書店、2003年
  • 『絵のある人生 見る楽しみ、描く喜び』 岩波書店〈岩波新書〉、2003年
  • 『青春の文語体』 筑摩書房、2003年
  • 『旅の絵本 VI』 福音館書店、2004年
  • 『絵とイマジネーション』 日本放送出版協会〈NHK人間講座〉、2004年 / 『絵の教室』 中央公論新社〈中公新書〉、2005年
  • 『安野光雅のいかれたカバン』 世界文化社、2005年
  • 『ついきのうのこと 続・昔の子どもたち』 日本放送出版協会、2005年
  • 『大志の歌 童話の学校校歌・寮歌』 童話屋、2005年
  • 『繪本 歌の旅』 講談社、2005年
  • 『雲の歌 風の曲』 森ミドリ曲、岩崎書店、2005年
  • 『世にも美しい日本語入門』 藤原正彦共著、筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、2006年
  • 『空想亭の苦労咄』 筑摩書房、2006年
  • 『サンタクロースのふくろのなか』 童話屋、2006年
  • 『安野光雅 風景画を描く』 日本放送出版協会、2006年
  • 『繪本 三國志』 朝日新聞出版、2008年 / 『新編 繪本 三國志』 朝日新聞出版、2010年
  • 『あいうえおみせ』 福音館書店〈こどものとも〉、2008年
  • 『語前語後』 朝日新聞出版、2008年
  • 『木のぼりの詩』 日本放送出版協会、2008年
  • 『風景と出会い』 丸善、2009年
  • 『三国志談義』 半藤一利共著、平凡社、2009年
  • 『旅の絵本 VII』 福音館書店、2009年
  • 『明日香村』 日本放送出版協会、2009年
2010年代
  • 『三國志逍遥』 中村愿著、山川出版社、2010年
  • 『繪本 仮名手本忠臣蔵』 朝日新聞出版、2010年
  • 『日本のふるさと奈良』 産経新聞出版、2010年
  • 『口語訳即興詩人』 森鴎外文語訳、山川出版社、2010年
  • 『『史記』と日本人』 半藤一利、中村愿共著、平凡社、2011年
  • 『絵のある自伝』 文藝春秋、2011年
  • 『会えてよかった』 朝日新聞出版、2013年
編集
  • 『にほんご』 大岡信、谷川俊太郎、松居直共編、福音館書店、1979年
  • 『子どもの美術』全6冊 佐藤忠良共編、現代美術社1979年 / 上巻・下巻 1983年新訂版
  • 『まるいちきゅうのまるいちにち』 エリック・カールレイモンド・ブリッグス、ニコライ・ポポフ、林明子、ジャン・カルビ、レオ&ダイアン・ディロン、朱成梁、ロン・ブルックス絵、童話屋、1986年
  • 『ちくま文学の森』 森毅, 井上ひさし, 池内紀共編、筑摩書房、1988年~1989年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2010年~2011年
  • 『ちくま哲学の森』 鶴見俊輔, 森毅, 池内紀, 井上ひさし共編、筑摩書房、1989年~1990年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2011年~
  • 『日本の名随筆 89 数』 作品社、1990年
  • 『中野好夫エッセイ集 悪人礼賛』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1990年
  • 『燐寸文学全集』 池内紀共編、筑摩書房、1993年
  • 『新 ちくま文学の森』 森毅, 井上ひさし, 池内紀共編、筑摩書房、1994年~1995年
解説
  • 藤原正彦著『心は孤独な数学者』
挿画・表紙
  • 月刊雑誌『数理科学』の表紙(1968-1977)
  • 週間朝日「街道をゆく」(1991/8-1996/3)
  • 『週刊朝日』の表紙(1997-1999)
装丁
  • 『にっぽんご』シリーズ(明星学園・国語部著、むぎ書房)
  • ハンセン病文学全集

安野光雅美術館

安野光雅美術館安野光雅美術館

電話予約 0856-72-4155

安野光雅の作品を収蔵、展示する美術館で絵本原画や風景画など約120点を常時展示。

館内には昭和初期の小学校を再現した「昔の教室」やプラネタリウムなども設置している。

 


ゴールデンウィークと村岡花子

2014年05月03日 14時14分39秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

平成26年5月3日(土)

ゴールデンウィーク後半の連休になりました。

日中は、日本全国で気温が上がり、25℃以上に。

我が家では、先日から庭や畑の草取りに追われています。

 

知り合いも、TDLやUSJなどへ。新幹線は混雑しているようです。

また、台湾や香港、韓国、サイパン など海外へ観光という方々も。

あるいは、自然派は、九重や阿蘇へキャンピングカーで子供連れで

三泊四日の山登りや、BBQ(バーベキュー)レジャーに出かけた方々もいる。

 高速道路は、30km以上も渋滞しているところもあると、ニュースで報じられていた。

 そんな4日間もありますが、皆様は、いかがお過ごしでしょうか?

 

今、主婦の話題はNHKTVの『朝ドラ』なのだそうです。 

「じぇじぇじぇ」の次は「てっ」? 

 
『花子とアン』、視聴率好調とのこと。
 

朝日新聞デジタル

 5月3日(土)9時51分配信より

 放送開始から1カ月が経ったNHK連続テレビ小説

『花子とアン』の視聴率が好調。

登場人物のセリフには、

甲州弁で驚きを表す「てっ!」、もう一つ、

しっかりの意味の「こぴっと」がしばしば登場する。

 

前々作『あまちゃん』では

「じぇじぇじぇ」が一大ブームを巻き起こし流行語大賞に輝いた。

NHKは、2匹目のどじょうを狙う。

 女優の吉高由里子さんが主演する今作は、山梨出身の主人公、

安東はな(村岡花子)が、東京の女学校で勉強するため上京し、

やがて『赤毛のアン』など児童文学の翻訳に人生を捧げる物語。

 

5日放送分からの6週目では、

華族のご令嬢・葉山蓮子(れんこ=仲間由紀恵)(=同級生の柳原白蓮がモデル)が、

はなとともに甲府を訪れ、華やかな衣装をまとった姿に地元の人たちが

「てっ!」を連発する。



 加賀田透チーフ・プロデューサーによると、

花子の孫にあたる村岡恵理さんの原作

『アンのゆりかご』には出てこないセリフで、

脚本の中園ミホさんも最初は標準語で書き始めた。



 “導入”を勧めたのは甲州弁指導の奥山真佐子さん。

台本上の表記は「て!」「てっ!」「てぇ……」など内容によって様々で、

「感情をひと言に込めるため、発音は俳優さん任せ」という。


 加賀田透さんは

「この作品作りを始めたのは『あまちゃん』が人気を博した頃。

最初は正直、少し恥ずかしいという思いがあった。」

と笑うが、放送1カ月間(27回分)の平均視聴率は

21・8%(関東、ビデオリサーチ調べ)と、直近の前2作を上回る。

 

放送開始後から甲州弁がインターネットなどで話題になり、

今では「今後も週に2~3回は出していく。」と意気込んでいる。

朝日新聞社より

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最終更新:5月3日(土)12時58分

 

 このテレビ朝ドラのヒロインの 安東はな のモデルは、

  村岡 花子(むらおか はなこ)さん。

1893年(明治26年)6月21日 - 1968年(昭和43年)10月 25日)

日本の翻訳家・児童文学者。

児童文学の翻訳で知られ、カナダの女流作家モンゴメリの著作の多くと、

エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳を手がけた。

 山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。

本名は安中 はな(あんなか はな)。

クリスチャンである父逸平の希望により、

2歳でカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受ける。

父の逸平は駿府(静岡県)の小さな茶商の家に生まれ、

茶の行商中にカナダ・メソジスト派教会に出入りするようになり、

熱心なクリスチャンとなる。

布教の流れで甲府に移り住み、

そこで出会ったてつと結婚してその実家に住むようになる。

教会での交流で新しい文化の影響を受けた逸平は、

利発な長女のはなに過剰なほどの期待をかけた。

 

常識にとらわれず商売そっちのけで理想を追い求める逸平は、

妻の実家や親戚と揉め事が絶えず、はなが5歳の時にしがらみを断って一家で上京し、

南品川で葉茶屋を営むようになる。

城南尋常小学校に通うはなは、心象風景を短歌で表現し句作をして

詠んでは楽しむ幼少期を過ごした。

その頃、社会主義活動に加わった逸平は特に教育の機会均等を訴え、

娘の才能を伸ばすべく奔走し、1903年(明治36年)、

学校創設者との信仰上の繋がりから、

10歳のはなを東洋英和女学校に給費生としての編入学を実現させる。

 

一方、家族の生活は困窮しており、8人きょうだいのうち

高い教育を受けたのは長女のはなのみで、

他の弟妹は次女と三女を残して

皆養子や奉公などで家を出されている。

はなの入学は、弟妹たちの犠牲の上に成されたものであった。

 

女学校入学

東洋英和女学校でカナダ人I・S・ブラックモーア宣教師から英語を学ぶ傍ら、

同級生柳原白蓮の紹介で佐佐木信綱から万葉集など日本の古典文学を学ぶ。

この頃からペンネームとして安中 花子を名乗るようになる。

同校高等科在学中からアイルランド文学の翻訳家

松村みね子(歌人としての筆名に片山廣子芥川龍之介の晩年の恋人)

の勧めで童話を執筆。

 

1914年に東洋英和女学院高等科を卒業すると、英語教師として

山梨英和女学校に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。

この時期、キリスト教の夏季講座で市川房枝と出会う。

 

1917年から、東京銀座のキリスト教出版社である教文館

女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務。

1919年に福音印刷合資会社の経営者村岡儆三と結婚し、村岡姓となる。

1920年に誕生した長男を、1926年に病で失う。

このことを機に、英語児童文学の翻訳紹介の道に入る。

 

1927年、片山廣子の勧めにより、

マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を

王子と乞食』の邦題で翻訳し、平凡社から公刊。

 

1932年から1941年11月まで、JOAKのラジオ番組『子供の時間』の一コーナー

『コドモの新聞』に出演、「ラジオのおばさん」として人気を博し、

寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだった。

この頃、翻訳作品を自ら朗読したSPレコードをいくつか発売した。

 

第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、

戦争遂行に協力的な姿勢を取った。

また、市川房枝の勧めで婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力

(その一方、婚外子への法的差別撤廃には反対した)。

その他、文部省嘱託や行政監察委員委員、女流文学者協理事、公明選挙連盟理事、

家庭文庫研究会会長、キリスト教文化協会婦人部委員などを歴任。

1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受ける。

1968年、脳血栓で死去。

 

長男・道雄の病死後、子供に恵まれなかった事から、

妹・梅子の長女・みどり(1932年生)を養女とする。

そのみどりの娘で花子の義理の孫にあたる村岡恵理

赤毛のアン記念館の館長を務めている。

クリスチャンとしては日本基督教団大森めぐみ教会の会員として、教会に通った。

モンゴメリと村岡花子

村岡花子とモンゴメリとの出会いは、戦争中に日本を去る

カナダ人宣教師のミス・ショーから手渡された『赤毛のアン』の原書、

1908年の冬版であった。

この出会いは1939年のことで、村岡は灯火管制のもと

翻訳を続けて終戦の頃に訳し終えた。

1952年に、三笠書房から出版された『赤毛のアン』は

日本の若い読者にも広く受け入れられた。

 

村岡はその後、

アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン

果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなど、

モンゴメリの作品翻訳を次々と手がける。

村岡の最後の翻訳作品となった『エミリーの求めるもの』は、

彼女の没後、1969年に出版された。

山本史郎の『東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章』

東京大学出版会)は村岡の訳の中に一部が欠落していることの

理由を考えた講義。

 

略年表

  • 1893年、山梨県甲府市に生まれ東京に育つ。
  • 1904年には東洋英和女学校へ編入学。
  • 1914年に東洋英和女学院高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。
  • 1917年から、教文館に女性向け・子供向け雑誌編集者として勤務。
  • 1919年、結婚。
  • 1920年、長男誕生。
  • 1926年、長男を疫痢で喪う。
  • 1927年、マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を翻訳し邦題『王子と乞食』として公刊。
  • 1932年から1942年までJOAK(NHK東京放送センター)のラジオ番組の『コドモの新聞』コーナーに出演、「ラジオのおばさん」として人気を博す。
  • 1939年、宣教師のミス・ショーからモンゴメリの"Anne of Green Gables" を受け取る。
  • 1952年、モンゴメリの"Anne of Green Gables" を翻訳し邦題『赤毛のアン』として公刊。
  • 1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章受賞。
  • 1963年、夫を喪う。
  • 1967年、カナダを訪問。
  • 1968年、脳血栓で死去。

著訳書

訳書・著書 多数あります。

  • 炉辺 日本基督教興文協会 1917
  • モーセが修学せし国 救世軍 1919
  • 王子と乞食 マーク・トウェイン 平凡社 1927 のち岩波文庫
  • 花咲く家 ペリー 教文館 1929
  • 見知らぬ国へ 冒険実話集 カザリン・クロンク 教育館出版部 1930
  • パレアナの成長 エレナ・ポーター 平凡社 1930 「パレアナの青春」角川文庫
  • 姉は闘ふ パレアナ姉妹篇 エレナ・エチ・ポーター 教文館出版部 1932 「スウ姉さん」角川文庫
  • ディッケンス物語の子供たち 春陽堂 1933
  • 日本イソップ繪物語 大日本雄辯會講談社 1933
  • 聖書物語 エステル・ルツ 基督教出版 1935
  • 愛情の道 ウイドマー 教文館出版部 1936
  • 喜びの本 ポーター 中央公論社 1939
  • 母の生活 パアル・バック 第一書房 1940
  • 家なき天使 方洙源 那珂書店 1943

                          他

 

村岡花子の生涯/『アンのゆりかご』から


 明治26年(1893)6月21日、村岡花子(旧姓:安中、本名:はな)は、父:安中逸平と母:てつの長女として山梨県甲府市で生まれます。父の実家は駿府(現・静岡県)で茶商を営んでいましたが、父は、熱心なクリスチャンで実家を離れ、てつの実家に身を寄せていました。花子は2歳の時に、甲府で幼児洗礼を受けました。

 明治31年(1898・花子5歳)、父親は親戚とのしがらみに決別し、一家で上京。南品川で、葉茶屋を始めます。

 明治36年(1903・10歳)、貧しい暮らしでしたが、父親は花子に高等教育を受けさせる道をつけたいと願い、10歳の花子は麻布の東洋英和女学校に寄宿生として入学します。     孤児院での奉仕活動が義務付けられ、成績が悪いと即退学という給費生の待遇でしたが、予科(2年)、本科(5年)、高等科(3年)で、予科と本科は学年20名ほど。うち高等科まで進むのは6、7名でした。

 花子の寄宿舎生活が始まりましたが、花子の同級生17人のうちの半数以上が、東洋英和の付属小学校からあがってきた生徒で、すでに3年間の英語教育を受けていました。食事中に婦人宣教師と英語で楽しそうに話をしたりします。

 英語をまったく知らなかった花子は、父親の期待に応えるためにも、猛勉強を始めます。礼拝では、全校生徒約180名が一堂に会し、半数は「寄宿生」で、もう半数は自宅から通う「通学生」でした。東洋英和女学校を設立したカナダの宣教師たちは、「通学生」よりも、寝食を共にする「寄宿生」を可愛がり、花子は、英語に加え、西欧の考え方や生活習慣も身に付けます。

 猛勉強のかいがあり、花子の英語の成績は群を抜き、また、書籍室にあった本を読み漁りました。カナダ人作家ルーシー・モード・モンゴメリの『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』はアメリカのボストン・ページ社から明治41年(1908)に出版されますが、花子は、モンゴメリと同世代のカナダ人たちに囲まれて、東洋英和で青春時代を過ごしました。

 また、在学中に同級生柳原白蓮の紹介で、歌を習うため、佐佐木信綱の元に通っています。当時、世に出るために道が閉ざされていた女性たちにとって、「歌人」は、ほとんど唯一といってもいいほどの文芸的職業として確立されており、信綱の門下は女流の登竜門でもありました。信綱の主宰する短歌結社「竹柏会」は歌壇、文壇に留まらず、多方面の芸術分野に人材を輩出していました。

 花子は、東洋英和の先輩でアイルランド文学の翻訳者としても知られる歌人の片山廣子を紹介されるなど、信綱門下で多くの人に出会いました。寄宿舎の書籍室の本を読み尽くしてしまっていた花子は、廣子の本棚から、毎週のように近代文学の原書を借り出し、寄宿舎に持ち帰って、読みふけりました。

 花子は、勉強と並行して続けている奉仕活動を通して、日本基督教婦人矯風会の機関誌『婦人新報』の編集に関わるようになります。『婦人新報』は、海外の未成年者の禁酒運動記事や大会報告などを乗せてしまえば、あとは花子が自由に編集することができました。花子は、童話・短歌・随想・翻訳小説を掲載するようになります。

 大正2年(1913・20歳)、花子は20歳で、東洋英和女学校の高等科を卒業しました。卒業式で学年を代表して発表された、花子の英文で書かれた卒業論文『日本女性の過去、現在、未来』は、テニスンの長詩『イン・メモリアム』から引用された「古き制度は変わりゆく、新しきものに場所をゆずりつつ」という詩句で結ばれていました。花子は、卒業後1年間、校長のミス・ブラックモアの配慮で、寄宿舎に残り、婦人宣教師に英語を教えながら、婦人矯風会の書記の仕事と英文学の勉強を続けました。

 大正3年(1914・20歳)春、花子は、生まれ故郷の甲府へ行きます。東洋英和の姉妹校の山梨英和女学校が、カナダ人の校長の秘書を兼ねた英語教師を必要としており、貧しい実家を支えるために確かな収入が必要だったため赴任を決意しました。

  当時、花子には、澤田廉三という、お互いに引かれ合う男性がいました。廉三は東京帝国大学法学部の学生で、実兄を追って、外交官領事館試験を受けて外務省に入る予定でした。教会で顔を合わせるうちに、英文学や短歌について言葉を交わすようになりました。やがて、澤田は外務省に入り、第一次世界大戦中の激戦地、フランスへ数年間の仕事で行くことになりました。出発の前にどうしても会いたいと言われ、花子は東京へ向かいます。外交官としての重い任務を帯びて澤田はフランスへ旅立ちました。廉三からの手紙の中に、廉三の決意を見た花子は、「もうこれでおわりにしましょう。これでお別れにします。さようなら」と書き送りました。

 花子は、矯風会の仕事を続けており、実業家の広岡浅子と面識を得ました。60歳を過ぎてクリスチャンになった浅子は、社会を変えていく実力を身につけた女性の育成に力を注ぎ、花子は、市川房枝らと知り合います。また、花子が『少女画報』に小説を発表していたことを山梨英和の教え子たちが発見し、教え子たちに物語を語り聞かせたりするようになりました。花子は、少女たちが物語を欲しているにもかかわらず、年ごろの彼女たちにふさわしい読み物が少ないことを感じ、子どもから大人への成長の過程で心の指針となるような本の大切さが英米に比べて軽視されてる日本の現状を痛感しました。

 大正8年(1919・26歳)3月、花子は、山梨英和の教師を辞めて東京に戻ります。赤坂新町の婦人矯風会館の2階宿舎に下宿し、プロテスタントの各派宣教師の共同出資で作られた築地の基督教興文協会の編集者となります。花子の英語力は即戦力として役立ち、ミッション・スクールの教材や日曜学校の子どもたちの読み物など、翻訳依頼の仕事が次から次へと舞い込んできます。

 花子は、基督教興文協会で、開港の街・横浜で聖書を初めとするキリスト教関係の書物の印刷・製本を一手に引き受ける「福音印刷」の御曹司・村岡敬三と知り合いました。花子と出会ったとき、敬三は江川幸と結婚していましたが、幸は結核を発病し、療養のため実家に戻っていました。花子と敬三は、築地教会で結婚式を挙げ、大森に新居を構えました。

 大正9年(1920・27歳)、長男の道雄が誕生します。

 大正12年(1923・30歳)9月1日、関東大震災が発生します。福音印刷の建物は倒壊し、70名の職人が焼け死にました。敬三は福音印刷を継いでいましたが、震災で実業家肌の弟・斎(ひとし)や、牧師の水上家に養子に入っていた敬三と幸との間の7歳になる嘉男が亡くなります。

 また、福音印刷に敬三の父の代からいた役員が、復興手続きのために預けていた印鑑と重要書類を持ち逃げしました。敬三は一気に多くのものを失います。花子は30歳で、敬三は36歳でした。花子は、翻訳小説を毎月、婦人矯風会の機関誌『婦人新報』に寄稿する傍ら、道雄に聞かせる物語を少しずつ書き起こした童話の原稿を執筆し、敬三を支えました。

 大正15年(1926・33歳)9月1日、長男の道雄が6歳の誕生日を前にして、戦前に猛威を振るった疫痢にかかって、世を去りました。花子は悲嘆に暮れて、気力を無くしてしまいました。しかし、3か月半ほど過ごしたのち、マーク・トウェインの『ザ・プリンス・アンド・ザ・ポーパー』を手に取り、寝食も忘れて、丸2日間かけて読みました。読み終えた時、神が定めた運命に従い、自分の子は失いましたが、日本中の子どもたちのために、上質の家庭小説を翻訳しようと決意します。

 安中家の長女だった花子は、静岡の比較的にゆとりのある農家に嫁いだ妹の家に両親が身を寄せることになり、ほっとしていましたが、北海道に嫁いだ妹で次女の千代から、奉公に出た11歳年下の三女の梅子が、厳寒地で真冬でも裸足のまま労働をさせられていることを知ります。梅子は、花子が東洋英和女学校の寄宿舎に入ってから生まれた子で、交流は無いに等しかったのですが、花子は、すぐに大森の家に梅子を引き取りました。

 昭和5年(1930・37歳)、花子は敬三と共に大森の自宅に設立した青蘭社から、子どもも大人も楽しめる家庭文学を提唱する機関誌『家庭』を創刊し、アメリカ人作家エレナ・ポーター作『長姉物語』(『スウ姉さん』として出版)を連載します。『家庭』は、のちに同題の雑誌が大日本統合婦人会から出たため、『青蘭』と改題しました。

 昭和7年(1932・39歳)6月1日から、花子は、午後6時から30分間放送されるラジオ番組『子供の時間』の中で、最後の5分間に放送される、内外のニュースをかみ砕いて放送するコーナー『子供の新聞』のパーソナリティーを担当するようになります。花子は、道雄を亡くして間もない昭和2年(1927)1月に、『家庭の時間』という番組で「童話を通じての家庭教育」というテーマで25分間、話したことがあり、その時の放送の評判と、童話作家としての経歴が買われての抜擢でした。花子の放送は「全国の小さな方々、ごきげんよう! これから皆さまがたの新聞のお時間です」ではじまり、「ごきげんよう。さようなら」で終わります。花子は、「ラジオのおばさん」として全国で親しまれるようになります。

 昭和14年(1939・46歳)年、ドイツがポーランドを攻撃し第2次世界大戦が始まります。翌年には、日本は、イタリアを加えた日独伊三国軍事同盟を締結。英語は敵国語とされ、花子の大森の家に「国賊!」の言葉と共に石が投げ入れられるようになります。日米関係の悪化と共に、連合国出身の人々は荷物をまとめて日本から本国へ帰り始めます。政府の圧力に屈せず英語教育を貫いてきた東洋英和女学校も、昭和13年(1938)には、ご真影と日の丸の旗の奉戴を受け入れていました。

 昭和14年(1939・46歳)、35年間に渡り日本で奉職してきたカナダ人宣教師ミス・ショーが、帰国を決意します。ショーと花子は、アメリカ人宣教師によって設立され、キリスト教関係の本を出版していた銀座の教文館でいっしょに働いていました。出発の日、ショーは、見送りに来た花子に、「いつかまたきっと、平和が訪れます。その時、この本をあなたの手で、日本の少女たちに紹介してください」といわれ、「友情の記念」に、『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の原書を贈られます。『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』は、何度も読み返したためか、手ずれていましたが、カナダ人のほんとうの心を伝えてほしいという万感の思いが込められていました。花子は、「平和が訪れた時に、必ずこの本を翻訳して、日本の多くの人に読んでもらいます。それまでどんなことがあっても、この本を守ります」と誓いました。

 昭和16年(1941・48歳)12月8日、日本が真珠湾を攻撃して、米英と全面戦争に突入しました。花子は、開戦を機に、軍部の干渉でとうに限界を感じていた『子供の新聞』をやめました。戦争中、花子は、ジフテリアに感染し2か月間、ほとんど医師としか顔を合わせないような静養生活を送りました。回復した花子は、やせ細っていましたが、家中の原稿用紙をかき集め、『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の翻訳に取り掛かります。花子は、家族にも、「自分の留守中に空襲があったら、この本と書きかけの原稿を防空壕に運んで欲しい」と念を押していました。花子は、大森の家の灯火管制下の暗い部屋で『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を訳し続けます。空襲で、大森、蒲田、川崎などは焼かれましたが、花子の家は幸い焼け残り、終戦を迎えました。花子の書斎の机の上には、『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の原書と、700枚余りの翻訳原稿が積み上げられていました。

 終戦翌年の昭和21年(1946・53歳)、学校復興の準備のため、カナダ人宣教師たちが次々と戻ってきます。ご真影と日の丸の旗は降ろされ、空襲で焼けた、山梨英和と静岡英和の復興に取り掛かります。花子の家には、多くの編集者が訪れ、戦争で焼けなかった蔵書を食い入るように見つめます。花子が戦前に書いた童話や翻訳作品が、再編され復刻され始めます。

 また、昭和21年(1946・53歳)正月早々、花子は、4夜連続で特別に企画された子ども向けラジオ番組に出演しました。花子の声がラジオから流れるのは5年ぶりでしたが、花子の声を懐かしむ大反響が起こりました。大森の家では、妹・梅子、夫、娘の晴子、また梅子の娘で花子の養女になっていたみどり、義弟・昇の家族が住んでいました。終戦直後に21歳の長男を結核で失った弟・健次郎の一家も呼び寄せます。花子は、長男である兄を失って悲しみにくれる健次郎の娘・マリ子を自分のベッドに寝かせて慰めたりしました。

 昭和23年(1948・55歳)、三笠書房が『風と共に去りぬ』を復刻します。南北戦争を背景にたくましく生きるヒロイン、スカーレット・オハラの姿が、日本人女性たちの心を掴みました。昭和26年(1951・58歳)、その三笠書房から小池嘉考という編集者が花子を訪ねてきます。『風と共に去りぬ』に続く作品を刊行したいとのことでしたが、自然の中で成長する孤児アンの日常を描く『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』は、『風と共に去りぬ』のようなドラマティックな作品ではありません。花子は、いったんは、「ありませんよ」と断りました。しかし、「ねえ、実は、あるのよ」と、ためらいながらも、小池に700枚の原稿を渡します。

 『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の邦題は、当初、さんざん話し合ったあげく、花子が決めた『窓辺に倚る少女』に決まっていました。しかし、三笠書房の社長の竹内から、「小池が『赤毛のアン』はどうだろうと言うんですが、いかがでしょう」と電話が掛かってきます。花子は気に入らず、「嫌です。『赤毛のアン』なんて絶対嫌です」と断り、電話を切りました。しかし、20歳になる娘のみどりに「小池さんたらね、『赤毛のアン』ですってさ」とこぼすと、「素晴らしいわ! ダンゼン『赤毛のアン』になさいよ、お母様!」と思わぬ答えが返ってきました。この物語を読むのは若い人たちなのだと我に返った花子は、慌てて社長に電話を掛け、翌日には印刷所へ回ってしまう原稿のタイトルを、『赤毛のアン』に変更してもらいました。

 昭和27年(1952・59歳)4月末、サンフランシスコ講和条約が発効し、GHQが廃止されます。5月、『赤毛のアン』が出版されます。花子に『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を託したミス・ショーは、帰国した翌年に祖国カナダで亡くなり、原作者のモンゴメリも戦争中に亡くなっています。しかし、カナダの人々の思いは花子に託されました。物質的には恵まれない時代でしたが、想像する喜びを知り、困難の中で、愛する家族を得ていくアンの物語は、日本中の若い女性たちの心を虜にし、大ベストセラーになりました。

(2013年7月11日)

村岡花子の生涯

(1)村岡花子の生涯 - 『アンのゆりかご』のあらすじ

(2)村岡花子の生涯 - 『アンのゆりかご』の感想

(3)村岡花子の生涯 - 道雄文庫

(4)村岡花子の生涯 - 福音印刷の赤レンガの建物と速水御舟

女たちの近代

(1)女たちの近代 - 林芙美子と「戦線」

(2)女たちの近代 - 柳原子と「白蓮事件」

(3)女たちの近代 - 伊藤伝右衛門と子

(4)女たちの近代 - 宮崎龍介と柳原白蓮

(5)女たちの近代 - 九条武子と柳原白蓮

村岡花子の作品

(1)村岡花子の翻訳 - 『赤毛のアン』

(2)村岡花子の翻訳 - 『少女パレアナ』

(3)村岡花子の翻訳 - 『パレアナの青春』

(4)村岡花子の翻訳 - 『フランダースの犬』

(5)村岡花子の翻訳 - 『まりおねっと』

(6)村岡花子の童話 - 『みみずの女王』『黄金の網』『たんぽぽの目』

→ 映画『蛇にピアス』吉高由里子のあらすじと感想

→ 映画「横道世之介」吉高由里子のあらすじと感想

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アンのゆりかご-村岡花子の生涯

アンのゆりかご-村岡花子の生涯/村岡恵理 Amazonへ

 

連休には、新緑の中で 読書もどうぞ!

 

182回 小机が生んだ印刷王(村岡 平吉)=村岡花子の舅

            -バイブルの村岡さん-

  グリン・ゲイブルス、アボンリー、プリンス・エドワード島といえば、『赤毛のアン』の舞台として有名ですが、アン・シリーズを始めとするモンゴメリーの数々の著作を日本に紹介した翻訳家が村岡花子です。

 その村岡花子を主人公としたNHK連続テレビ小説『花子とアン』が、3月31日から始まります。花子は、山梨出身で、大田区に住んでいたので、横浜とは縁がなさそうですが、実は横浜に本籍がありました。横浜市立図書館で、村岡花子で検索すると、なんと219冊もヒットします。

 村岡花子は小机(こづくえ)と縁があり、晩年まで夫妻で度々訪れていました。前回ご紹介したように、平成2年(1990)1月の広報の「区内散歩」は、第74回「小机と村岡平吉(むらおかへいきち)」ですが、花子は、平吉の息子の嫁でした。今では村岡花子の方が有名ですが、かつては「バイブルの村岡さん」と呼ばれた義父村岡平吉の方が著名人でした。

 村岡平吉は、嘉永5年(1852)に橘樹郡(たちばなぐん)小机村で生まれました。父は平左衛門、母はヤヱ子です。平吉は、明治の初年に東京へ出て印刷業の職工として修業をし、その後、横浜に戻り、フランス系の新聞社に勤めました。その頃キリスト教に接し、明治16年(1883)に横浜指路(しろ)教会(当時は横浜住吉教会といいました)で受洗(じゅせん)します。横浜指路教会は、福音(ふくいん)主義(プロテスタント)の教会です。

 明治20年(1887)に平吉は上海(シャンハイ)に渡りました。1年間欧文印刷の技術を学んだようです。帰国後は、横浜製紙分社という出版社に10年間勤め、明治31年(1898)に独立して、中区山下町に福音印刷合資会社を創立します。福音印刷の社名は、福音主義から名付けたものと思われ、信仰と仕事が一体となっていたことが分かります。平吉は、聖書や賛美歌の本などキリスト教関係の書物をたくさん印刷しましたが、国内は素より、インド・中国・フィリピンなどアジア諸国の聖書も一手に扱い、「バイブルの村岡さん」と呼ばれたのです。

福音印刷は、明治から大正期の印刷業界で確固たる地位を築きました。社長の村岡平吉は、明治43年(1910)に出版された『開港五十年紀念横浜成功名誉鑑』で「印刷業の巨擘(きょはく)(指導的立場の人物)」の1人として顔写真入りで取り上げられています。

キリスト教徒としての平吉は、明治30年(1897年)から横浜指路教会の長老となっています。指路教会は、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士の塾で学んだ青年たちが中心となり設立された教会です。そのヘボン博士が明治44年(1911年)にアメリカの自宅で亡くなったとき、指路教会では追悼会を開き、長老村岡平吉が祈(き)祷(とう)をしています。

村岡平吉は、中区太田町(おおたまち)に自宅を構えていましたが、生まれ育った小机との縁も続いていました。平吉は、大正11年(1922年)に亡くなりますが、仏教の13回忌に相当する昭和9年(1934年)5月20日、「村岡平吉氏十三週年((周))記念会」が 小机で開催されています。その時の挨拶が『指路教会六十年史』に掲載されています。

福音印刷の事業は順次拡大し、銀座と神戸に支社を設けるまでになります。やがて、5男斉(ひとし)が横浜本社を、3男儆三(けいぞう)が東京本社の経営を引き継ぎました。株式会社としては東京が本社となります。村岡儆三は、出版社勤務の安中(あんなか)はな(後の村岡花子)と営業活動中に知り合い、大正8年(1919年)に結婚しました。

 実は、村岡花子はペンネームで、本名は「村岡はな」です。花子が儆三と結婚したとき、義父平吉はすでに70近い老人でしたが、平吉と結婚したと間違えられました。なんと、平吉の奥さん(花子の義母、結婚前に死去)の名も「村岡はな(ハナ子とも書く)」、同じ名前だったのです。

 ちょっとややこしくも幸せな村岡家でしたが、平吉が大正11年(1922年)に亡くなり、翌大正12年の関東大震災では横浜本社が倒壊し、村岡斉や多くの社員が死亡しました。東京本社にいた儆三は、幸いにして生き延びましたが、東京本社の社屋は震災後の大火で類焼しました。

 「京浜間(けいひんかん)印刷界に於ける最有力者の1つ」(『指路教会六十年史』)とまで言われた福音印刷は、こうして壊滅しました。もし震災が無ければ…。人生の歯車を狂わされた村岡儆三でしたが、やがて新しい会社を設立し、妻の花子は翻訳家として『赤毛のアン』を三笠書房から出版することになります。その話は、NHKの朝ドラ「花子とアン」に任せましょう。

 小机と村岡平吉、村岡花子については、篠原東(しのはらひがし)の峯岸英雄(みねぎしひでお)さんが、「「花子とアン」と小机を応援する会」を作って、調査研究と広報活動を続けています。5月25日には港北図書館で講演会も予定されており、今から楽しみです。

   記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)(2014年2月号)

 

※ 横浜市付近にいらっしゃる方々、下旬がおたのしみですね。 

 

 


詩人まど・みちおさん(104歳)のご冥福をおいのりします。

2014年03月01日 00時00分41秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

平成26年2月28日(金)

朝から戸外は真っ白な霧の海?と、思っていましたら、時間が経っても晴れない。

これは、北西の風に乗ってやってきた悪名高い『PM2.5』らしい。

外気が、室内に流れ込まないように、注意深く気を付けました。

そして、マスクをして外出しました。

皆様もどうぞ、粒子の小さい『PM2.5』用のマスクをご用意して

お出かけをお勧めいたします。

 

午前9時過ぎに、悲しい訃報が流れていました。

 

「詩人まど・みちお さんが、104歳でご逝去」

丁度、今、園では彼の作った歌

『一年生になったら』

を年長さんが練習を始めた所です。

 

童謡「ぞうさん」や「やぎさん ゆうびん」などで知られ、

やさしく深い言葉で命の貴さをうたいあげた詩人

まど・みちお(本名石田道雄〈いしだ・みちお〉)さんが、

2月28日午前9時9分、老衰で亡くなった。

 

104歳だった。

葬儀は近親者で営む。

喪主は長男石田京(たかし)さん。

 

 1909年、山口県周南市生まれ。(現在の徳山市)

1919年から日本統治下の台湾で暮らし、

1929年に台北工業学校を卒業して台湾総督府に勤めた。

1934年、雑誌「コドモノクニ」に投稿した詩が二篇、(彼が25歳の時)

北原白秋の選で特選に入り、以後、詩や童謡の創作に打ちこむ。

1943年には戦地に召集され、東南アジアの島々に送られた。

 1946年復員。

 

1949年から雑誌「チャイルドブック」の編集に携わり、

1959年から創作に専念。

 

1968年、詩集「てんぷらぴりぴり」で野間児童文芸賞

1976年、「植物のうた」で日本児童文学者協会賞、

1981年、巌谷小波文芸賞

 

 故團伊玖磨(だん いくま)さんが、曲をつけた

「ぞうさん」や「やぎさん ゆうびん」をはじめ、

「一ねんせいになったら」「ふしぎな ポケット」など

ユーモアあふれる童謡詩は歌い継がれ、

子どもたちに愛されてきている。

 

ぼくも、ゾウも、マメも、

かけがえのない存在としてここにいる、

とうたった

「ぼくが ここに」や

「ぞうさん」などの作品を通して、

「自分が自分であることのすばらしさ」を伝え続けた。

 私は、『ぞうさん』の歌が一番好きなのです。

 誰かに、はやされて、

 「変な長い鼻だね~」なんてバカにされた小象、

でも、その小象は、決してメゲタリはしない。

 「そうだよ、大好きな母さんもお鼻が長いんだよ!」

と胸を張ってる。

誰からバカにされたり、差別的な言葉を浴びせられても、

全然平気な小象の姿が目に浮かぶ。

 

たくさんのしあわせな時間を有難うございます。

ご冥福を心からお祈りします!

 

彼は、幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡りました。

そして、さらにみちおが5歳の時に

母が彼の兄と妹を連れて同地に移住したため、

4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っているのでした。

その後、彼も祖父のもとを離れて台湾へ渡った。

 

台北工業学校土木科に在学中、

数人で同人誌『あゆみ』を創刊し詩を発表。

卒業後は台湾総督府の道路港湾課で働いていたが

1934年、雑誌『コドモノクニ』の童謡募集に応じて5篇を投稿、

そのうちの2篇が特選に選ばれたのをきっかけに

詩や童謡の投稿を本格的に行うようになる。

 

1936年には山口保治によって童謡『ふたあつ』が作曲された。

その翌年には同人誌『昆虫列車』の創刊に参加し、1939年の廃刊まで活動する。

1943年、召集によって台湾の船舶工兵隊に入る。

マニラを皮切りに各地を転戦し、シンガポールで終戦を迎える。

 

日本に戻り、1948には出版社に入社。

雑誌『チャイルドブック』の創刊にたずさわり詩や童謡の発表をしながら

子供のための雑誌、書籍の編集やカットに関わった。

 

1959年に出版社を退社した後は、詩・童謡・絵画に専念する。

1963年にはそれまでに作った童謡を

『ぞうさん まど・みちお子どもの歌一〇〇曲集』としてまとめる。

 

その5年後、はじめての詩集となる『てんぷらぴりぴり』を出版し

第6回野間児童文芸賞を受賞。

 

1976年、『まど・みちお詩集』(全6巻)によって

第23回サンケイ児童出版文化賞を受賞。

 

第1巻『植物のうた』は、日本児童文学者協会賞にも選ばれた。

 

同年、川崎市文化賞を受賞。

 

その後の賞歴を箇条書きする。

  • 1979年 - 『風景詩集』により第22回厚生省児童福祉文化奨励賞。
  • 1980年 - 第23回日本児童文芸家協会児童文化功労賞。
  • 1981年 - 第4回巌谷小波文芸賞。
  • 1986年 - 『しゃっくりうた』により第35回小学館文学賞
  • 1992年 - まどの生誕地である山口県徳山市(当時)から、市民文化栄誉賞。
  • 1993年 - 1994年 - 『まど・みちお全詩集』により第43回芸術選奨文部大臣賞および第40回産経児童出版文化賞大賞、第16回路傍の石文学賞特別賞。
  • 1994年 - 国際アンデルセン賞 (Hans Christian Andersen Award) 作家賞。
  • 1998年 - 第47回神奈川文化賞。
  • 1999年 - 1998年度朝日賞。
  • 2001年 - 『うめぼしリモコン』により第11回丸山豊記念現代詩賞。
  • 2003年 - 第59回日本芸術院賞

1992年には、皇后美智子様の選・英訳による

『どうぶつたち』(The Animals) が日本およびアメリカで出版された。

 

1994年に彼が日本人として初めて受賞した国際アンデルセン賞は、

“児童文学のノーベル賞”とも言われている重要な文学賞であり、

日本人の受賞者は現在も彼一人だけである。

 

満90歳(1999年11月)を過ぎた頃からは、

自らの「老い」を見つめた詩も増えているとされる。

2008年末、腰を痛めたのを機に入院したが、創作活動は続ける。

2009年、満100歳を迎えるにあたり、

新作詩集2冊(『のぼりくだりの…』『100歳詩集 逃げの一手』)が

11月に刊行されたほか、出身地の周南市ではさまざまな記念イベント。

 

2014年2月28日、老衰。104歳没。

 

作品

「やぎさんゆうびん」

1939年、「昆虫列車」に初出、

1953年にNHKラジオで放送された(作曲:團伊玖磨)。

白ヤギと黒ヤギの間で終わりなく繰り返される手紙のやりとりがユーモラスな作品である。

「ぞうさん」

1948年に書かれたもので、1953年に團伊玖磨が曲をつけてNHKラジオで放送された。

その歌詞は自らのもつ差異を肯定し、誇りとするものとされている。

周南市徳山動物園には「ぞうさん」の歌碑がある。

みちおは「ぞうさん」について次のように語っている。

「『鼻が長い』と言われれば からかわれたと思うのが普通ですが、

子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴しい」

「ふしぎなポケット」

1954年発表。

たたくたびに中のビスケットが増える魔法のポケットがほしいと歌う作品。

作曲は渡辺茂

「一ねんせいになったら」

1966年発表。

幼稚園児や小学1年生の間で非常に人気があった作品。

作曲は山本直純

2007年、『てんぷらぴりぴり』(大日本図書、1968年)

  • 『まめつぶうた』(理論社、1973年)
  • 『まど・みちお詩集』(全6巻 銀河社、1974-1975年)
  • 『風景詩集』(銀河社、1979年)
  • 『つけもののおもし』(ポプラ社、1979年)
  • 『いいけしき』(理論社、1981年)
  • 『しゃっくりうた』(理論社、1985年)
  • 『くまさん』(童話屋、1989年)
  • 伊藤英治編『まど・みちお全詩集』(理論社、1992年初版、1994年増補新装版、2001年新訂版。右のISBNコードは新訂版。ISBN 9784652042311)
  • 『それから…』(童話屋、1993年)
  • 『メロンのじかん』(理論社、1999年)
  • 『おなかの大きい小母さん』(大日本図書、2000年)
  • 『きょうも天気』(至光社、2000年)
  • 『そのへんを』(未知谷、2006年、写真:みやこうせい
  • 市河紀子編『のぼりくだりの…』(理論社、2009年)
  • 水内喜久雄『100歳詩集 逃げの一手』(小学館、2009年)

エッセー

  • 『すべての時間を花束にして』

      (聞き書き:柏原怜子、佼成出版社、2002年ISBN 9784333019717)

  • 『いわずにおれない』(集英社、2005年 ISBN 9784086501019)

詩画集

  • 『とおいところ』(新潮社、2003年 ISBN 9784104641017)

翻訳絵本

  • 皇后美智子様選・英訳『どうぶつたち (The Animals)』

     (絵:安野光雅、すえもりブックス、1992年 ISBN 9784915777066)

  • 皇后美智子様選・英訳『ふしぎなポケット (The Magic Pocket)』

     (絵:安野光雅、すえもりブックス、1998年 ISBN 9784915777219)

童謡

合唱曲

  • 児童(女声)のための合唱組曲「虫の絵本」(作曲:吉岡弘行
    • テントウムシ
    • チョウチョウ
    • ガガンボ
    • セミ
  • 混声合唱組曲「宇宙のうた」(作曲:近藤春恵
  • 女声(児童)合唱曲「花と木の歌」(作曲:今井邦男
  • 「こんなにたしかに」(作曲:山本純ノ介
  • 混声合唱組曲「詩の歌」(作曲:三善晃
    • コスモスのうた
    • いちばんぼし
    • かいだん I
    • やどかりさん
    • サザンカ
    • かいがらさん
  • 「うたをうたうとき」(作曲:信長貴富木下牧子

同人誌

  • 昆虫列車 - 詩人の水上不二と発行
  • 資料 水上不二さんの詩(ポエム・ライブラリー夢ぽけっと 2005年)

校歌

 

  ※ 実にたくさんの校歌ですね!

 

関連項目

外部リンク

まどさん、本当にたくさんの幸せを、ありがとうございます! 

きっと、いつまでもこどもたちに歌い継がれていく歌や詩でしょう。

 


二十一世紀に生きる君たちへ(小学国語6年下)司馬遼太郎

2008年09月20日 22時20分07秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

平成20年9月20日(土)昨夜遅く有明の月が見られました。 

  http://www.lunarembassy.jp/meigetu/fun02.html

台風13号は、宮崎県に大雨を降らせて、四国沖から東海沖へ向かいました。

午前10時受付開始、10時半~リズム遊びの公開保育を実施しました。

                

当園独特の感性を高める「リズムゲーム」を

初めて体験した親子は、

 子「おもしろかった!」

 子「たのしかった!」

 父「幼稚園での情操教育の一端、土台作りの大事さがわかりました。」

 祖父「このリズム遊びはメタボ対策にもよさそう。」

 母「子どもと一緒に 家でもリズム遊びのゲームをしたい。」 

 祖母「スキンシップして、親子共々ストレス解消にもよさそうですね~」

など 色々と 感想を話していました。

                  

 指導してくださったエキスパートティーチャー

『ゴリラせんせい』ことF先生は汗かきの暑がりや。

汗だくで、未入園の2歳の子ども達にもわかりやすく

3歳以上の在園児にも集中できるような 

素晴らしい導入部分の一工夫の遊びをご紹介!

 満3歳児も集中しあっと言う間の1時間でした。

                             

 終了後には、ゴリラ先生と、一緒に 昼食をいただきながら

今日の公開保育の反響は?とか 

最近の子どもをめぐる世相の話、また

(金融危機!政治家や大相撲、小学1年生の殺人事件?汚染米!環境問題…)

にも言及し、回りの状況の変化にも 非常に敏感なゴリラ先生は、

小説家 司馬遼太郎さん(1923~1996年) の『十六の話』から

二十一世紀に生きる君たちへ(小学国語6年下)」

を話題に、あの素晴らしい名文を 最後には私に一冊くださいました。

それで、おかげさまで久し振りに読み返し 想起して噛み締めています。

                  

 『十六の話』 司馬遼太郎 中央公論社

1993年10月初版 1300円

 ISBN4-12-002251-X

(帯)

『歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことども 』
を豊かに伝える司馬遼太郎の最新文集

(目次)

・文学から見た日本歴史 ・・・英国ケンブリッジで開催された英国日本学研究会に於ける講演
開高健への弔辞・・・文学界1990年3月号
・アラベスク ・・・井筒俊彦氏を悼む・・・中央公論 1993年3月号
・『古代史』と身辺雑話・・・日本の古代別巻
・華厳をめぐる話・・・・・・・井上博道 撮影”東大寺”中央公論社
・叡山美術の展開・・・・・不動明王にふれつつ
・山片ばん桃のこと
・幕末における近代思想
・ある情熱
・カイリン丸誕生の地
・大阪の原形・・・・日本におけるもっとも市民的な都市
・訴えるべき相手がないまま
・樹木と人
・なによりも国語
洪庵のたいまつ・・・小学国語5年下
・二十一世紀に生きる君たちへ・・・小学国語6年下

司馬さん最晩年の作品群です。

司馬さんは、まっすぐなところがとても好感が持て尊敬できます。

この本は日本の歴史を文学の切り口から異国の人に語り始め、

漱石で締めくくり、最後は子ども達に語ることで、

謂わば丁度彼の「遺言」として残して 直後に ご他界されました。

大阪外大蒙古語科出身の彼は、風の如く爽やかなモンゴルの人々と

貧乏だが清廉潔白な日本人を愛してやまない人とも言われていました。

                  

その最後の『二十一世紀に生きる君たちへ』は、

小渕総理大臣平成11年1月19日、第145回国会の開会に当たって、

引用なさいました。 当時、小渕総理大臣は、

「司馬遼太郎氏が説(と)かれたように、未来の担(にな)い手が『たのもしい人格をもち、自分に厳(きび)しく、相手にはやさしい自己』をもつ人間に育つ環境を作っていく…」と演説。

故・小渕総理は、「竜馬がゆく」などの歴史小説を書いた小説家司馬さんを尊敬し、司馬さんの作品の大ファンでした。

司馬遼太郎さんの「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章、これはもともと小学校六年生の国語の教科書のために書いたものです。

この文章は、21世紀に活躍する小学生たちに向けて、

「どのような人間になってほしいか」を伝えた、

司馬さんからのすばらしいメッセージです。

著作権の問題がありますが、是非とも一人でも多くの方々に読んでいただきたいと願います。『十六の話』 の最後の文です。↓司馬さんの全文紹介します。               

 
どうぞ「心の叫び」の熟読を お願いいたします。
 
毎日の習慣
5分間の積み重ね
 
どんな子どもに育てたいのか
考えながら
 
夢と希望に燃えて
愛情たっぷりに
楽しみながら
子育てを…
 
地道に
一歩一歩
 
世のため
人のために
有用な
何らかの役に立つ
生きる力を持った人材
 
その子ならではの
よい個性を
生かして
 
その子らしく
その子の色に
かがやくように…
 
お知らせ
 
10月4日(土)は作品展・バザーの日です。
 
10時~14時
 
 
未入園のおともだちもお待ちしています!
 
各組に 絵画表現や陶芸作品や、楽しい工作など
 
それぞれの組の作品が展示してあります。
 
 
たのしいプレイコーナーもあります。
 
どうぞ皆様、
 
寝冷えや風邪に気をつけて
 
お元気で
 
緑ヶ丘・第二幼稚園で 
 
お待ちしています!
 
 
 

北京五輪陸上の為末選手と絵本『すてきな三にんぐみ』

2008年08月17日 18時02分27秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

平成20年8月17日(日)

昨日から雷がはげしく、大雨洪水警報発令中。

竜巻警報もでていましたが午後からは無事に雨はおさまってきました。

今、北京ではオリンピックが開催されており、

その中で 色々な競技種目がありますが、

「陸上」と言えば、

より速く、より高く、より強くという運動競技の基本が陸上競技です。

その競技の起源は古代オリンピックにまで遡り、当時は男性だけのもので、

女性は見ることさえ許されなかったと伝えられています。

陸上競技の一部は今日まで変わらずに受継がれ、

競技が行われているものもあります。

陸上競技にはハンマー投や走高跳などのフィールド競技、

100mなど短距離走や障害物を使ったハードルなどのトラック競技、

一般公道を使用するマラソンや競歩があり、それぞれ多くの種目を持っています。

近代オリンピックに女性が参加したのは1928年、オランダで開催された

第9回アムステルダム大会が最初で、参加できた競技は5つのトラック競技、

円盤投と走高跳でした。

現在人気のある陸上競技のひとつ、女子マラソンが

オリンピック競技になったのは、1984年の第23回ロサンゼルス大会からのことです。

オリンピックに日本人の陸上競技者が初めて参加したのは

1912年(大正1年)、スウェーデンで開催された第5回ストックホルム大会で、

三島弥彦金栗四三の2選手が参加しました。

1925年(大正14年)3月、日本陸上競技連盟創立。

1928年(昭和3年)、第9回アムステルダム大会の三段跳で

織田幹雄選手が15m21cmを飛び、日本選手初の金メダルを獲得。

また同大会の女子800mでは人見絹枝選手が銀メダルを獲得しています。

日本の陸上競技の歴史は(財)日本陸上競技連盟のホームページ

「日本陸上タイムトラベル」で詳細がご覧いただけます。

また過去の入賞者、メダル獲得については

JOCのホームページ「オリンピック歴代日本代表選手全記録」で検索できます。

現在は、トラック競技では、ベテラン朝原 宣治 (あさはら のぶはる)選手や、

末続 慎吾  (すえつぐ しんご)選手, 為末 大(ためすえだい)選手などは、

日本の陸上選手の代表的な選手で、後進の指導にも力を注いでいます。 

 

為末 大(ためすえだい)選手は、開幕前のインタビューでプレッシャーに負けない

で勇気づけられる本として名前を挙げたのは

なんと、絵本『すてきな三にんぐみ』でした。

他の選手は予想通り根性物のアニメなどが多かったので、少し意外でした。

『すてきな三にんぐみ』は、

子ども達も 私も大好きな一冊の一つです。
怖くて悪い怪盗団が、さらって来た女の子みなしごのティファニーちゃんの何気無い一言で、次第に「あれ?」っと気づき、思いがけない展開と良心の目覚め、あたたかさに、先がわかっていても、子どもも読み聞かせる側の私も、その都度 ワクワク感が有り楽しめました。
怖ーい感じの冒頭からの三人の泥棒たちの 変わりよう、孤児たちにお城をプレゼントする結末は、期待を裏切らず、変わろうと努力して変わるのでなく、ちょっとしたきっかけで、視点が変わり 気が付けば全てが大きく変わってしまっていた…と言う「すてきなお話」です。
冒頭と女の子に出会ってからの雰囲気の違いように 小さい子でも興味深く引き込まれる絵本です。
   http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?No=16


ここから本文です  「侍ハードラー」と呼ばれた為末 大選手は、

ご自身のホームページにも刻々と書き込みをしていて大変興味深いのですが、

広島県の出身で・皆実高3年時に世界ジュニア選手権の400メートルで4位に入り、

ジュニアで初の45秒台を記録。

国体の400メートル障害では高校生で初めて50秒を切る。
法大進学後、48秒台に突入した。
2001年世界陸上決勝で、現在も日本記録の47秒89で3位。
2005年世界陸上でも3位。
シドニー、アテネ五輪代表。アテネでは準決勝に進出した。
2007年の世界陸上ではまさかの予選敗退、その後、けがに苦しんだが、
2008年6月の日本選手権でA標準記録をクリアして優勝。
北京五輪代表の座をつかんだ。

 

為末 大
 日本

為末 大  (ためすえ だい)選手

・出場種目
[ 陸上 ] 400m障害
・生年月日 1978年5月3日
・出身地 広島
・身長 170センチ
・体重 67キロ
・最終学歴 法大
・所属先 APF

      →ブログ検索

出場競技日程
関連ニュース

    http://tamesue.cocolog-nifty.com/samurai/message/

 引退表明は少し残念でしたが、今後、若手の指導育成に

きっとご尽力下さることでしょう。

その燃える闘志とパワー、ものすごい努力の積み重ねは 尊敬に値します。

ケガに苦しみ、その辛さを乗り越えてきた

根性や精神力を養う原動力の一つが…

絵本だったとは!!!

絵本『すてきな三にんぐみ』のお話を採り上げてくださったその感性で、

多くの方々に「為末スピリット」を植え付けて、

引き継ぐべき「至宝」とも呼びたい経験を活かして

今後も子どもたちの心に光を灯し、末永く ご活躍いただきたいものです。

                

さて、明日から年長組のお泊まり保育第1弾です。

どうか、雨が上がりますように

そして、目的意識を高めて おともだちとなかよく協力して、

良い経験がたくさん出来、心が大きく育つように…

『もりのいえ』へ全員元気に行けるように 願っています。

     http://www.otomarihoiku.jp/mori/

 


女性の品格

2008年03月13日 20時02分32秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

 平成20年3月13日(木)

ぽかぽかして、日中は、ヒーターが要らない。

昨日から日増しに 春の陽気になり、温かい。

第215回『子育て教室』実施。

今年度最後の集まり『茶話会』になりました。

子育て文集が、坂本英子さんのご尽力で、多くの協力を得て、

完成し、本日原稿を書いていただいた 関係の皆様に配布しました。

その中にも最後に紹介していたのが、この本!

昨年も『子育て教室』で いち早く 話題にしていた新書版、

『女性の品格』坂東眞理子著が、ベストセラーに!

以下その内容をご紹介です。

[掲載]2007年03月11日 [評者]小柳学(編集者)

著者の坂東眞理子さんは、昭和女子大学学長,

内閣府初代男女共同参画局長、埼玉県副知事、

女性初の総領事

(オーストラリア・ブリスベン)などを歴任。

豊富な経験から、

女性が「品格」を身につけるためにするべきことを

具体的にアドバイスしている。

 例えば

「礼状をこまめに書く」から始まり、

「乱暴な言葉を使わない」といった話し方や、

「無料のものをもらわない」といった暮らし方。

また

「約束をきちんと守る」

といった仕事の心構え、

さらには

「恋はすぐに打ち明けない」

といった生き方まで、その項目は66にわたる。

    

 「(男性には)権力者をかぎわけ上手に取り入る器用な人も数多くいます。

女性はそのひそみに倣いたくないものです」と、

男性中心の社会を超えた「品格」を呼びかけている。

この本は、読者の8割が女性。

 それまで新書の主な読者層といえば、中高年男性だが、

女性がターゲットの新書ということもあり、

版元 営業部では最初、女性読者が比較的多い

東京・二子玉川ブックファースト

目立つように置いてもらった。

売れ行きが好調のため、

確信をもって全国に展開していった。

年齢的には20代が3割を占める。

予想外のことで、新書では珍しいという。

「年上の女性がアドバイスをしてくれる

機会がないので、とても助かりました」

という感想が届いている。

 「『品格』は流行語でなく、これからいろいろな領域で

求められていくと思っています。

いまの女性の品格を考えたとき、組織のなかできちんとした仕事をしている

坂東さんの名前が浮かびました」

担当編集の横田紀彦さん。

 今年になって売り上げが急増しており、

「就職活動シーズンに入って、本書を

参考にしている面もあると思います」

という。

戦後の書籍売上ランキングでも15位に入り、

売上高は出版界では異例の20億円。

内容は『約束をきちんと守る』『型どおりの挨拶が出来る』などの、

ごく一般的な日常作法。

誰しもが知る内容の本が、何故これほどに売れているのか?


剛腕社長がこだわった『売れるタイトル』   

敏腕編集者が叩きだした『売れる構成』

地元密着書店が展開した『売れるからくり』 


そして著者、坂東眞理子が、この本に託した強い思い。

ベストセラー誕生の裏に隠された、知られざる母と娘の物語とは?

さらにベストセラー作家の、意外な私生活。


● 発案者は出版社社長


2005年4月 あるパーティーでPHP総合研究所・社長江口克彦氏が、

当時昭和女子大学・副学長の坂東眞理子と会話した時の事だった。

会話が盛り上がる中、江口氏が提案をした。

江口氏が注目したのは、坂東氏の華麗な経歴。

1968年、東京大学文学部卒業後、女性初の総理府(現内閣府)へ入省。

働きながら2人の娘を育てた、元祖キャリアウーマン。

その後埼玉県副知事・女性初のブリスベン総領事など、

働く女性として第一線で活躍してきた彼女が、

品格について書けばきっと売れる。

江口氏の思いに説得されて、断り続けていた坂東氏も書く事を承諾した。


そしてそのパーティーから1年後。坂東氏の企画書が編集部へ。 

企画書は編集者・横田紀彦氏に託されたが、

それを読んだ横田氏は不安に思った。

『女性向けの新書は売れない』というのが出版界の常識であったからだ。

さらに企画書に書かれていた本の内容も堅く、

女性向けの堅い内容の本を作っても売れる筈がないと思った。


● 大幅な企画変更とタイトル


2006年4月11日 企画書を受け取ってから数日後、

横田氏はある決意を持って昭和女子大学へ。

横田氏は坂東氏の企画を却下。別のアイディアを提案した。

2ヶ月後、坂東氏が書きおろした原稿が横田氏の元へ。

そこには誰にでもわかるやさしい内容

大人の女性なら必ず身につけたいマナーが書きしるされて横田氏もOK


ここで『女性の品格』というタイトルが問題となった。

当時『国家の品格』がベストセラーになっていたため、

それをマネしたのでは と思われないか。

『女性の品格』というタイトルには賛否両論あったという。

しかし社長の江口氏からの強い要望があり、

タイトルは『女性の品格』に決定。


5万部売れれば大ヒットと言われる新書の世界で、

『女性の品格』は初版14,000部。

多くも少なくもない、通常通りの出版数だった。


● 出版社の戦略


1.250万部のベストセラー『頭がいい人、悪い人の話し方』を参考に、

本の装丁と目次をマネた。


2.文字数は1ページあたり615字を546字に減らし、大きさも若干大きくした。


3.分厚過ぎず・薄過ぎない、200ページというページ数にした。


4.各項目はどこでも読めるように、2~3ページの読み切り型とした。

 

● 発売後の反響

2006年9月『女性の品格』発売

発売直後に書店からの注文が殺到。

女性客が若干多い二子玉川店では、

時間によっては5人に1人が立て続けに買って行くという現象が起きた。

二子玉川店の成功に続けと『女性の品格』はすぐに増刷。

書店の目立つ場所に平積み販売。 

 

主な項目は以下です。

礼状が書ける
流行に飛びつかない
約束をきちんと守る
得意料理を持つ
良い客になる
勝負服を持つ
姿勢を正しく保つ
贅肉をつけない
人に擦り寄らない
仲間だけで群れない
心を込めてほめる
良い事は隠れてする
品格の有る男性を育てる
一人のときを美しく過ごす
古典を読む趣味を持つ
恋はすぐに打ち明けない
無料のものをもらわない
プライバシーを詮索しない
過去にこだわらない
思い出の品を大切にする
型通りの挨拶が出来る
愛されるより愛する女性になる
内助の功
花の名前を知っている
長い人間関係を大切にする

 

さて、あなたは?

私は、数個の項目では、

努力不足を痛感しています。

お互いに切磋琢磨で、

「品格ある太陽ママ」目指して Fight! 

       

最初から完璧な人はいません。

著者の坂東眞理子さんは、

実は

お母様に子育ても仕事も随分とサポートして貰った~

そのお陰で…今日がある 

と、テレビのインタビューで答えていました。

そうです、

あせらずに優先順位を考えて、

あきらめずに 少しずつ現状を 打開しましょう!

目標は、身近な現実的な些細なものから、

一歩一歩夢の実現に向かって倦まず弛まず前進いたしましょう!
 


鏡開き/落合恵子先生の講演会に感動

2007年01月11日 22時20分05秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

平成19年1月11日(木) 朝は、3℃、日中は、10℃。

いよいよ今日は、楽しみにしていた二つの[研修会]の日です。

東京から、はるばるいらっしゃる落合恵子先生をお迎えに

福岡空港へまいりました。

事務局の鮫島さん、教育研究委員長末益先生のご配慮 ご尽力で

八幡西区「K2旅行社」へのチャーター車は、マークXではなくて

少しでも快適にと「白いトヨタクラウン」にグレードアップ

で、河野ドライバーと7時過ぎにはスタンバイ。

で、不測の事態を想定しながら

予定を少し早め出発いたしました。

八幡インターから高速にのり、市内までは渋滞もなく快走。

福岡空港第二ターミナルに 無事に 約1時間も前に到着。

落合先生のANA便は、予定通りに 9:35到着。

「歓迎メッセージ」の掲示を掲げつつ ワクワクお待ちしていましたら

右手前からスッスッと パンツスタイルで現れ 一目でわかった。

「恥ずかしいから~直ぐ私の名前は しまってください!」

「九州は意外と寒いわね~」とおっしゃり、

「では、ご案内をよろしくお願いいたします。」

と丁寧に一礼され、発車でした。

早速、北九州市八幡西区相生町の生涯学習センター大ホールへ

河野さんは安全運転でスムーズ

往路は まず、自己紹介。その後、やや緊張気味。

昔のベストセラーご著書『スプーン1杯の幸せ』を皮切りに

二つの講演会の『テーマや目的』を確認し、

しっかり流れを打ち合わせしてから、

北九州市長選挙情報や 

昨今の子育てについて、

イジメや虐待などの話も…

次々に話題を変え… 

わりあい気楽に過ごしているうちに到着。

  著名人なのに 意外に 全然気取っていない。安堵した。

非常にデリケートな所と勇猛果敢なポジティブな所と同居!

なぜ、多忙を極める日程のなか、一日だけ時間を割いてくださったか?

それは、落合先生と私だけが感じる波長みたいなものがピッタリ来たから

この、運命的な出会いに感謝し、巡り会えた喜びでいっぱいに

考え方や、感じ方がよく似ている

昨年の夏に せいがの森保育園藤森平司園長先生に出会った時にも

感性が似ている部分が沢山感じられ、嬉しく思った。

価値観の共通している居心地の良さ

講演の最中も まさに 一言一言が感動の連続で、

元気づけられ 勇気百倍の気分でした

午前中の「八幡西私立幼稚園PTA研修大会」は、

今まで、例年 参加者が減る傾向で、

会場をいっぱいにするのに苦労していたが、

今回平成18年度は、600人定員の会場が予定外に参加者が増えて 

最後はいっぱいになっていた。

 第一部 PTA大会  司会 八幡西PTA副会長 田口朋子

     開会の辞 八幡西PTA理事 藤田香世

     会長挨拶 八幡西PTA会長 田仲恵理子

     八幡西私立幼稚園連盟会長 眞田宏昭

    来賓紹介 八幡西PTA理事 中川貴子

    来賓祝辞 三原・縣(あがた)・松尾・佐々木・柴田

    愛の花輪  指揮 荒木祥子

 第二部 PTA研修会 

    講師紹介  八幡西PTA副会長 立花千恵子

    講  師  作家・東京家政大学特任教授

           落合恵子先生

    演  題 『子どもと大人、同時代を生きる

   閉会の辞   八幡西PTA理事 古賀綾子

 

 午後の人権同和教育研修会』は、

小倉北区 パークサイドビル9階 大会議室で

実施されました。同じく講師は 落合恵子先生

 演題『いのちの感受性2007・・・・・21世紀の人権

まず、参加者の年齢を聞かれ、エイジング(加齢)による差別について

年齢から自分を解き放ちましょう」と、お話がスタートしました。

つまり、年をとることはマイナスではない年々積み重ねてきた経験は

お金では買えない貴重な財産。向上心に燃えて年輪が大きくなる喜び

参加者の園長・理事長・事務職・主任・教諭の約80名余りは、

熱心に引き込まれて 聴き入りました。

62才にしては、桁違いのものすごいパワーで 幅広くご活躍。

そして、自宅での認知症のお母様(83才)を7年間在宅介護中。

回りの方々に、しっかり感謝しつつ、サポート態勢~

私を産んでくれ、この世に生を授けてくれた人。

慈しみ育てて、この上なく 無条件に愛してくれたから、

今度はお返しの時至り、決して人任せにして 放ってはおけない。

抱きかかえ さすり、語りかけ、自ら介護を…お見事敬服です

その様子は

母に歌う子守歌・・・・・わたしの介護日記』(朝日新聞社) に連載続行中です。

お話の最後にキャロル・キングYou've got a friend 』の歌を

BGMに、その訳詞を 心を込めて 暗唱くださった。

力強い。とても聴きやすい声!

流石に 昔、「レモンちゃん」として 一世を風靡したアナウンサー

 

年末に

シンガーソングライターのアンジェラ・アキさんの歌う

透明感のある声のWe are all alone』を

NHKTV「英語でしゃべらナイト」で 聴き、

勇気づけられる思いがしました。

心に響く歌でした。

が、

今回、落合先生ご紹介の

キャロル・キングYou've got a friend 』の歌を聴くともっともっと

深いな…と 感じました。

 

子どもにも、大人にも、

失敗の連続で挫折したひとにも、

不幸な涙にくれているひとにも、

失恋した人にも、

リストラにあったひとにも、

色々辛いことが多いけれど、

決して 自ら 死なないで…

諦めないで…

希望を捨てずに…

あるがままのあなたを 

まるごと受けとめ、受け入れて、愛する。

 

傷ついて、小さなことに迷う、そんな自分が居る。いいじゃない。

「世界中の人があなたを非難しても、あなたには 私が、いるよ。」

「年老いても、咲き立ての薔薇のように…」初々しさが大切ともおっしゃった。

大事なものを、少なく持って… 欲張らないで、

まだまだ、開いて行かなくちゃならない窓がある

まだまだ際限なく、書き留めたいことが 次々溢れてくる…

が、このあたりで…話題を変えましょう。

 

鏡開きの話題に移る事にしましょう。

お正月にお鏡餅を据えてお祝いをしていたが、

もう、今日は、ぜんざいを炊いて、餅を入れて、全職員でいただきました。

子どもたちにも少しずつ食べさせたい気がしましたが、暖冬で、

ノロウイルス食中毒も危惧され、なるべくセンターで調理した

安全性が保証されているものに限り、口に入れさせる方針です。

やや神経質過ぎると思われるかもしれませんが、安全第一主義です。

それぞれの、ご家庭で、どうぞ、ご家族揃って、お飾りを下ろし

アツアツのぜんざいやお汁粉を召し上がれ

子どもも大人も  皆さんFight

            

  自分の足を踏まれないように

 人の足も踏まないように

 足を踏まれている人を見たら 傍観しない

 「アンジュール」の絵本を どうぞ、一度はよんでみてください。

というよりも、言葉が書いてない…!!!

 


グリム兄弟の兄ヤーコブの業績を偲ぶ…

2007年01月05日 20時46分47秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

平成19年1月5日(木)日中は、12℃。

いつものようにS事務所へ。いよいよあと30日その後、園へ

預かり保育「楽器作り」「かるた」をして楽しみました。

 

  昨日、誕生日でご紹介したグリム兄弟について

 偉大な業績を偲びたい。

1785年1月4日生 ヤーコプ・グリム

(ドイツ『グリム童話』で有名なグリム兄弟の兄)

 彼の父が官吏としてその地に赴任したので、

子ども時代をシュタイナウ・アム・シュトラーセで過ごした。

彼は1798年弟ヴィルヘルムと共にカッセルのリツェウムに入学。

1802年彼はマールブルク大学に入学、優秀な成績で主席で卒業。

フリードリヒ・フォン・サヴィニーの元で法学を学んだ。

彼の法制史の研究とヴァッハラーの講義により、

彼はドイツ語と独逸文学の歴史的な発展に注目。

サヴィニーが、1804年中世ローマ法の研究のためにパリに赴いた時、

あとからグリムを呼び寄せる。

しかし、グリムはまもなく法学の研究に嫌気がさし、書簡でサヴィニーに

自分はドイツの古い文献の研究に生涯を捧げたいと打ち明ける。

1805年9月、母の居るカッセルの実家に戻り、彼は兵学校に職を得るが、

一年とたたない内に職場が解散され、職を失う。

1808年、母親が亡くなった後、家族を養う必要が生じ、

ウェストファーレンの国王ジェローム・ボナパルトのもとで図書館員の職を得る。

1809年2月には、国家顧問(Staatsrat)にも任じられた。

余暇を彼は古いドイツ語による詩歌や言語の研究に費やした。

1806年以降は、病弱な弟ヴィルヘルムと共に童話の聞き取り調査を行い、

それを清書し、編集した。

ヘッセン選帝侯国の再建と共にグリムは、

王の私的図書館員としての地位を失ったが、

なお復帰した選帝侯の外交スタッフの中に引き続き地位を与えられた。

1814/15年のウィーン会議でヘッセン選帝候国の特使秘書として彼は働き、

その後パリで奪われた芸術品のヘッセンとプロイセンへの返還交渉も短期間行う。

この時期、彼はスラヴ語の勉強も始めている。

1815年に、文学史や言語学研究に打ち込むため、外交官の職を辞任。

その一年後、彼はカッセルの図書館の次席図書館司書となる。

弟ヴィルヘルムは、1814年に既にそこの図書館司書の職についていた。

1829年主席図書館司書が死去した際、

グリム兄弟はその後任に…と期待したが、

その願いは叶わず、2人は新たなポストを探し始める。

1830年ヤーコプ・グリムは、ゲッティンゲン大学から教授での招聘を受ける。

ここで彼は1837年ゲッティンゲン7教授事件に連座し、その地位を奪われ、

追放処分になる。

1841年プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の招きでベルリンに移り、

プロイセン学士院の一員に推挙され、ベルリン大学で法学の講義を担当。

また、1848年のフランクフルト国民会議では、議員として名誉席を与えられた。

彼はその死に至るまで約20年間ベルリン大学で教鞭を採り、

そこでその弟と共にドイツ語辞典(Deutsch Woerterbuch)の編纂に携わった。

これは彼がマルチン・ルターからヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

に至るまでの著作から集めてきた近代高地ドイツ語の語彙のすべてを

網羅するものであった。

ドイツ語辞典はその膨大さから、グリムの死後100年近くたって、

冷戦時代の東西両ドイツの協力を得てまで完成した程である。

弟ヴィルヘルムと共に彼は、ゲルマンの古典文献学、ゲルマン語学、

そしてドイツ文献学の基礎を築いたといわれる。

「ドイツの職匠歌人の歌について」のような論文は、

カール・ラッハマンの研究と並んで、

中世のドイツ文学の第一級の不朽の業績と見做されている。

また、『ドイツ神話学』において、

彼は現代に至る比較神話学や民俗学の基礎をも築いた。

ヤーコプ・グリムは、自らの立場を貫徹するためには

論争や競合する場合には誹謗も辞さず、徹頭徹尾

真正面から渡り合うことを自らの学問のスタイルとした。

ドイツ語の文献学、即ち今で言う「ゲルマン学」の創成期の神話には、

フリードリヒ・ハインリヒ・フォン・デア・ハーゲンと

ヨーハン・G・G・ビュッシングに対する所謂「学問戦争」も含まれる。

グリム兄弟は、

その共同作業の産物である

グリムの子どもと家庭の童話』(全2巻、1812年-1815年)と

『ドイツ語辞典』(1838年- 、第1巻 1854年)により

その名を知られるようになった。

グリム童話が出版された時代、ドイツでは

シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)と呼ばれる文学運動が発生、

ドイツ固有の文学の見直しが叫ばれ、民謡や童話に注目が集まっていた。

その結果、様々な民謡集や童話集が発行されたが、

その大半は編者による改作を受けており、原話とはほど遠くなっていた。

そのため、グリム兄弟は資料性を求めて独自に童話の原話の蒐集を始める。

1810年頃、ブレンターノから童話集出版の話を持ちかけられた兄弟は

草稿を貸し出すが、ブレンターノはこれを紛失し、童話集の話も流れてしまった。

(20世紀に入って、この草稿はエーレンベルク修道院で発見されたため、

『エーレンベルク稿』と呼ばれる。)

後に兄弟が自分たちの手で草稿の写しを元に

1812年(第2巻は1815年)に発行した童話集が

『グリム童話』の愛称で知られる『子どもと家庭の童話』である。

初版発行時に文章の拙さ(兄弟が無学な女性から聞き取ったためとされた)や

性的表現に対してクレームが出たため、数度改訂が行われた。

日本でグリム童話が初めて紹介されたのは1924年(大正十三年)で、

翻訳家、金田鬼一氏の手により完訳(断片、方言物を含む)。

今では計248篇ものグリム童話を手軽に読む事が出来る。

また、初版の訳本も出版されている。

フランスの『ペロー童話集』とは、同じ物語も収録されており、

しばしば比較研究の対象。

後世の研究により、グリム童話集は長い間信じられていたような

「ドイツの農家の文盲のおばあさんから聞き取りをして、

改変せずに出版されたもの」とは程遠いというのが、

今日では通説になりつつある。

グリムは版を重ねるごとに、物語を少しずつ改変(再話)している

(例えば、「白雪姫」の実母を継母へ変更)。

又、物語の採集元となった人物も少しずつ明らかになってきており、

文盲の老婆などというのは一人もいないのではないかとする意見もある。

ハインツ・レレケらの研究から例を挙げると、

「フィッチャーの鳥」「めっけどり」「三枚の羽」などの提供者

フリーデリケ・マンデルは、牧師の娘でフランス語を自由に操り、

文学的教養も非常に高い。

「一緒に暮らした猫とネズミ」「マリアの子ども」の提供者

カッセルの町の薬局の夫人ドロテア・ヴィルトとその娘は、

ヴィルト夫人の父親はスイス出身の解剖学教授であり、

母親は有名な言語学者の娘である。

又、「赤ずきん」「いばら姫」「盗賊のお婿さん」などの提供者

マリー・ハッセンプルークとその妹たちの父親は、

ヘッセン選帝侯国の高級官僚である。

このころ、ペローの童話集はすでに刊行され、

一部の作品についてはドイツの民話を採集したか疑う意見もある。

しかし、民話研究者にとっては引き続き見逃す事の出来ない

貴重な資料である事には間違いないであろう。

KHM 47 「百槇の話(びゃくしんのはなし)」のように、

マザー・グース」と共通するモチーフが見られる例もある。

また、ヤーコプ・グリムは、

1822年「第一音声推移」を書いて、

最初の発音法則を定めた。

アングロサクソンの国々では、

これはグリムの法則として知られているものである。

ドイツ語勉強に欠かせない概念、

ウムラウトや強変化・弱変化もヤーコプの造語である。

 ドイツ語辞典の「実り」(Frucht)の項を書き終えて、

ヤーコプ・グリムは、生涯独身で1863年9月20日に満78才で亡くなった。

彼は、ベルリン-シェーネベルクの旧聖マテウス墓地の名誉墓地に埋葬された。

彼の遺稿、並びに彼の書き込みのある蔵書の書籍の大部分は、

ベルリン国立図書館(SBB-PK)に収蔵された。

彼の名前にちなんで命名されたヤーコブ・グリムスクールがカッセルにある。

大人になるまで成長した兄弟としては男5人、女1人の6人兄弟であったが、

通常は後世にまで名を残した長兄ヤーコプと次兄ヴィルヘルムの二人を指す。

(今日では末弟で画家のルートヴィッヒも含むこともある)

ヤーコプは弟ヴィルヘルム夫妻と同居し、兄弟コンビとして活躍したが、

グリム童話集ではルートヴィヒも挿し絵を手がけている。

  かえるの王様

  狼と七匹の子山羊

  ラプンツェル

 ヘンゼルとグレーテル

 灰かぶり(シンデレラ)

  赤ずきん

  ブレーメンの音楽隊

  白雪姫(雪しろ姫)

 などは代表的で、

誰もがくり返し親しみ

わくわくドキドキとイメージをふくらませ

その世界が広がった~思い出の童話

子どもたちにもくり返し読み聞かせを 


『千の風になって』

2006年12月29日 22時05分02秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

12月29日(金)昨日の荒れ模様のお天気から、少しは風も治まってきたが

ショックな訃報が連続。

高校時代のクラスメートの息子さんが、昨夕、突然の心臓麻痺で、

わずか19才の人生を閉じた。

あまりに呆気なくて、母親である友人に 掛ける言葉もない。

Mさんは、まだ全然信じられない出来事といった様子。

お気の毒…親に先立つなんて、順序が違う

お通夜の法要の前後には、彼が、大好きだった

「ゆず」が歌った曲、オリンピックのテーマソング

『栄光への架け橋』?が、かかっていた。

同級生が、ゾロゾロ…若者がゾロゾロ…

300人を超える参列者だった…

 

 おまけに、自宅近隣の元小学校の校長先生のお宅でも、

理想の家族を絵に描いたような幸せの絶頂にあった

佐賀県在住のご長男一家(間もなく同居する予定だった)を、

突然、不幸が襲った~   と 耳にした。

53才の夫や、まだ、学生の身の上のお二人の息子さんを残して、

美人で、この上もなく頼りになる 素直な 気だてのよいお嫁さん

(51才・元アナウンサー)のご他界。

これも、何の前触れもなく… 心筋梗塞だったのだそうです。

私は、欠礼状を頂くまで、全くそんなこととは つゆ知らずに 

ご無礼していました。

午後から、さっそく、お悔やみへ…

元校長先生ご夫妻は、悲嘆にくれていた。

ついつい、長居をして、20年以上も昔の懐かしい記憶をたぐって

たわいもないような思い出話や成功談・苦労談をしている内に、

やっと少しずつ笑顔が戻った。

…帰宅後、気を取り直し、

夕刻には 友人と遠賀郡岡垣町へ

Mさん宅の息子さんのお通夜に…

悲しく晴れ渡る空、吹く風にも 心なし 無常観が漂う一日。

 

そういえば、先週、NHKラジオの放送でオンエアしていた。

2001年9月11日、同時多発テロの当日

世界貿易センタービルの高層階のレストランでシェフをしていた

クラークさん(39才)は、崩壊したビルと共に命を落とした。

彼が、最後に目撃されたのは、ビルの88階で、

車椅子の女性を必死に助けようとしている姿でした。

翌、2002年9月11日、グランド・ゼロで行われた1年目の追悼式で、

クラークさんの娘、ブリッターニさん(11才)は、この

千の風になって』と言うアメリカの古い詩を、朗読した。

ニューヨークのこの9・11テロ追悼式で

「まるでこの詩は、父が耳元でささやいてくれているような気がしてなりません」

と、少女が前置きして、朗読して以来、世界中の人が再度注目しました。

私の記憶している中では、1987年、マリリン・モンローの25回忌の時に

ワシントンで行われた追悼式でこの詩が朗読されました。

それから、電車事故で犠牲になった方々の追悼式の場面でも…

                   

 日本では、多方面で活躍中の新井満さんの訳詞 作曲で、

歌になり…CDやDVDにもなって、その歌『千のかぜになって』が

ラジオから流れてきたのです。

明後日、大晦日の「紅白歌合戦」で

初出場の男性オペラ歌手秋川雅史さんが歌う予定と紹介されていた。

何気なく、聴き入っているうちに、涙が溢れてきてしまった。

                  

私は、この詩とは、随分前に出会っていた。

     I am a thousand winds.

         (Author Unknoun)

    Do not stand at my grave and weep,
    I am not there, I do not sleep.

    I am a thousand winds that blow,
    I am the diamond glints on snow,
    I am the sunlight on ripened grain,
    I am the gentle autumn's rain.

    When you awake in the morning hush,
    I am the swift uplifting rush
    of quiet in circled flight.
    I am the soft star that shines at night.

    Do not stand at my grave and cry.
    I am not there, I did not die.


                  

この詩は、英語で書かれた、わずか、12行の詩です。

誰が、書いたのかは分かりません、タイトルもありませんが、

多分ネイティブアメリカン(ナバホ族?)作 と、

新井さんは想定しています。

が、スコットランドの古い詩という説もあります。

いきなり、「私のお墓」という言葉で始まる詩なので、ビックリしますが…

私が、感じている風と、同じ風を、昔々のアメリカ人も感じて

こんな素晴らしい詩を語り継いで、しかも、歌になっていたとは…

ある人は、以下のようにこの詩に出会った後、全世界の人に知らせています。 

あなたは
悲嘆にうちひしがれる人にかける
言葉を持っていますか?

「A thousand winds」は
大切なひとを亡くした悲しみと喪失感を和らげる言葉として
人から人に語り継がれてきた
作者不詳の詩です。

コラムニストのアン・ランダースが紹介。
私は、文芸春秋掲載の河合隼雄さんのコラムで知りました。
     すでに、刊行されている詩集を取り寄せてみると直訳風なので、                                          
NY留学中の友人の協力を得て
サイトや受け止められ方を調べ、

1997年5月28日、訳したものです。
ネイティブ並と言われる英語達者にも聞きながら                                                    繰り返し、繰り返し、言葉選びを重ねました。

   それほど難しくない英語なので,
知り合いに声をかけあって、                                             千人にそのひとなりの訳をして貰い
千通りの「千の風」を集めたかったのですが                                                         人は、そうした状況にならないと、駄目なようです。
祖母が他界し、そうだな、母親の時は、これを朗読してやろうと眠らせておきました。

数年前、カミさんの友人が若くして癌に倒れ、
そのダンナの悲嘆にくれる様子に直面。
果たして僕は、僕のカミさんが逝った時 こんな風になれるだろうかと、自省するほどで
何もすることが出来ず、迷いつつ、この詩を差し出しました。


暫くして、「時々、千の風を取り出して、読んでいます」という話を聞きました。

「千の風」は、こんな風に、ひっそりと慎ましやかに、

静かな波紋のように伝わっていくことが
ふさわしい、と思います。

ひとから、ひとに語り継がれる「千の風」は、
商業主義とは馴染まないと思うのです。

僕は、中国語を少しだけ勉強しています。
僕の先生に頼んで、中国語訳も載せることが出来ました。

本の中に、僕の名前を記さなかったのは
作者不詳でよい、と思ったからです。
補足的に、サイトの方には、記してあります。

ぜひ、手にとって吹き渡る「千の風」に触れてください。

以上は、ある匿名の男性のブログの記事からの引用です。

 

 そして、2004年4月に『絵本』の形で、私は再び出会った。

  富山県出身のイラストレーター佐竹美保さんの絵でした。

「子育て教室」に、参加くださった方々には、もう、数回ご紹介した

2004年3月初版の理論社の絵本です。

もし、お暇がありましたら、どうぞ一度手にとって『千の風になって』を

お読みください。

今年、ご他界の全ての有縁無縁の方々のご冥福を

心からお祈りいたします。 合掌