緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

子育て講演会

2009年01月29日 17時46分58秒 | 子育て

平成21年1月29日(木)のち午後から

昨日に引き続き朝方は佳い空模様でしたが、天気予報の通り下り坂で

午後から雨が降り始めました。

日中の気温は3月並に上がってきて、15℃でした。

今日は、お忙しい中、多数の方がご来園くださいました。

 母の会主催の『子育て講演会』

そして『第7回オヤジ講座』

それに『第237回子育て教室』として

親育ち・子育ち『子育てセミナー』講演会開催

午前9時40分:受付開始、10時:開会 2階ホールでありました。

講演テーマは『子育て~親育て』と題して、ご自身の貴重な体験を

講師の藤井美由紀先生からお伺いしました。

(福津市在住、二男一女の母親、作家活動やヘルパーやボランティア活動他)

年齢不詳で、姫地蔵の作家として有名な福岡県下で ご活躍中の方です。

丸い顔にピンク色のほっぺ。

ニッコリほほ笑む「姫地蔵」の色紙や絵はがきが、静かな人気を集めている。

作品が展示されている福津市宮司地区の宮地嶽神社境内、

民家村の「くらしの館」を訪れた人は

http://www.miyajidake.or.jp/midokoro/minkamura/index.html

口々に「癒やされる!」と足を止める。

心の潤いを与える不思議な魅力があるようだ。

 作者は同地区に住むホームヘルパーで、

「お客さんから姫地蔵にそっくりと言われる」

という藤井美由紀さん(昭和17年生まれ)。

最も気を使う姫地蔵の長く大きな目は一筆で描き、

愛らしい笑顔のチャームポイントになっている。

 姫地蔵に添えられたユーモアあふれる言葉も味わい深い。

「シャネルよりシャボンの匂(にお)うママが好き」

「墓参り行かぬ理由に千の風」

「輪っはっは話っはっは和っはっは」

などさまざま。

中でも一番人気は

「すてきな出逢(あ)いをありがとう」。

 初めて訪れ、絵はがきを買った北九州市八幡西区の

帆足宏子さん(60)は「絵を見てつい顔がほころんだ。心が和む」。

同市若松区の塩屋支満夫さん(67)も

「言葉を見るだけで楽しい」と話す。

通信教育で独学で勉強した習字と水墨画の筆遣いを生かして、

藤井さんが2004年から描き始めた姫地蔵は、口コミで人気が広がった...

http://tosirou.asablo.jp/blog/2008/06/15/3579126

 ※ 先生の作品が、園の玄関とホールに飾ってあります。

在園児の保護者の方々や、地域の住民の方々も熱心に集中して

拝聴していただきました。

http://www.h3.dion.ne.jp/~haney/honey/honey-gallery/etegami/index.htm

お話の中味の一部を以下、ご紹介。

最初に、私が、

毎年『子育て文集』に寄せている駄文の中から

白銀も黄金も玉もなにせむに 

 まされる宝 子にしかめやも (山上憶良)

この万葉集の歌を採り上げてくださり、声高らかに朗詠。

この歌を愛していたご自身のお父様との思い出を語りつつ、

自己紹介をしてくださいました。

           

大分県豊後高田市で誕生、二男一女の母。

高校生までは、父方の祖母と両親と7人の兄弟と一緒で10人家族で

助け合って暮らしていたそうで、兄弟で家事の手伝いもしっかりと分担して

子どもたちもそれぞれにゆたかな自然の中に逞しく育っていたそうです。

そのうちに八幡製鐵に勤務することになった父とともに

北九州市八幡東区に引っ越して来たそうです。

最初は、台良町や祇園町に住んでいた。

その後24歳でお見合い。

夫君は熊本ご出身。

(同じ八幡製鐵に勤務するご縁でお見合い結婚)

ふりだしは、陣山の製鐵アパートで新婚生活。

1ヶ月150円の家賃だった。但し共同の台所・共同のトイレで、

風呂が無いので 銭湯に2年間以上通ったそうです。

その当時は、陣山は空気が汚れていたので

洗濯物は煤煙で汚れるため絶対に外には干せなかった。

当時、長男3歳、次男1歳だった。

ところが、大気汚染がひどかったので、長男が5年目に喘息に罹った。

そこで、空気の良い津屋崎へ引っ越したのです。

玄界灘に沈む雄大な夕日を見ながら

ここではスクスクとおおらかに子どもたちが成長した。

子どもは、あまりに迫力のある美しい夕日を海辺で見ながら

「コワイ!」と言ったことも…

   < ここで 『津屋崎讃歌』を謡ってくださった。>

そのとき 昭和45年に、3人目の子ども(娘さん)を授かったそうです。

夫君は新日鐵へ通勤、甲乙丙の3交代勤務になり、

日中でも睡眠をとらなくてはならない日も ちょくちょくあったので、

子どもたちをぐずらせないように、神経を使っていたそうです。

その頃は、宮地嶽神社の年中行事が楽しみになり、近隣の方々との

ふれあいで、子育てものびのび出来た。

乳飲み子と、3歳と5歳の幼児をかかえて…

度々男の子が悪戯したり、ご近所に迷惑をかけることがあったが、

まわりの方々が、あたたかく見守ってくださった。

また、近隣の方々の間では、増改築のブームになり

工務店に依頼して、どんどん工事し始めたが、手元が不如意のため

夫君が日曜大工で、ブロック塀を築き、車庫も、犬走りも、ベランダも手作り。

その当時を振り返ってみると

次第次第に 3人の子育てに疲れて

所謂 ノイローゼ気味になっていたそうです。

下関に住んでいる兄弟3人が心配して、

顔色が悪い…一体どうしたの?と様子を見に来てくれた。

とにかく

「早く!早く!」と子どもをせき立てて

そんなに慌てなくてもいいのに目を吊り上げ

「早く○○しなさい!」を連発し、

朝から険しいこわい顔。

持ち前の笑顔が全然消えていた。

「ゆっくりしなさい。」

「あわてなくていいのよ。」

「味わって食べなさい。」

と、言うべきでした…と反省。

  過ぎ行きし 時をたぐりて おさなごの 

    わらべの顔が 今に重なる。

「早く早く!」は、誰も一時期 ついつい言い勝ちな禁句ですが、

「味わって食べなさい。」

となぜ言えなくて、

「早く食べなさい!」

とばかり言ってしまったのか… とても後悔していると述懐。

そんなにあせって あわてることはなにも無かったのです。 

             

その頃 誘われ勧められて 

地元の活動に参加するようになって来た。

お母様は、子どもを連れてお寺参りに連れて行ってくれていた。

そして趣味は、和歌を作ることだった。

その影響を受けて、自分も… 自然に、アドレナリンが湧いて

ひとの役に立つことをしたいと

幼稚園の母親学級と地域の公民館活動へ出かけ初めて、

月に1~2回講演会や料理、和裁教室、植木園芸教室、習字教室、

それに町の郷土史編纂にも参加。

1年間学んだことを原稿用紙4枚に書き綴り、最後に学ぶ仲間を代表して

町長に謝辞を述べたのだそうです。

「ものを学ぶということは、遠ざかる謙虚な心を思い出させてくれる。」

「学級でふれあう友人や同志のきずなは、全く大きな収穫でした。」

など…感謝でいっぱいの気持ちを、そっくりそのまま、率直に述べた。

それが広報に掲載されて34歳の自分は

一躍、皆様に声をかけていただける存在になっていました。

それがご縁で、町会議員さんが2人、

きたる町長選挙の 某候補のうぐいす嬢にとの依頼にやって来た。

母方の伯父が中津で市会議員をしていた。

その時20歳で 初めてF氏のうぐいす嬢を務めた経験があったが、

全く知らない人の選挙応援をするのは最初やや躊躇した。

とにかく依頼されたからには 自分への信頼を裏切らないように、

そのU氏になりきってうぐいす嬢をしようと決心し、

「あなたの力で、あなたの清き一票で、…

 …お忙しい中、わざわざご声援ありがとうございます。」 

結局そのU候補は、3期町長職をつとめたのだそうです。

なんとその次のO氏の町長選のうぐいす嬢も依頼されてつとめた。

そして、仕出し弁当屋の販売の手伝いやパートもしたり、

いつも心の中には次の思いがあったそうです。

 わたしが幸せであることの、絶対的な条件、

それはあなたが幸せでいてくれること。

 そうこうするうちに、58歳の時に町会議員の補欠選挙があり、

周りの皆さんから是非立候補を…と推薦されて、

公示3日前に一念発起。

立候補し一週間の選挙運動。

兄弟全員が選挙事務所に駆けつけて応援し、

1574票を獲得したが、残念ながら落選。

だが、この間、応援してくださった方々全員に何としてもお礼の気持ちを届けたいと 

色々と考えた挙句に、誕生したのが、この『姫地蔵』の絵だったのだそうです。

 小学校2年生の頃から目が悪くて、メガネをかけている。

「ひんがら目」 でもあり、そのことが気になり 内気で恥ずかしがりや。

幼児期も寡黙で、いつも黙り込んでぬりえばかりしていた。

暇があると、時間つぶしにぬり絵をしていた。

カラフルで明るい色使いが好きだった。大人になったら絵描きになると決心。

母親がいつも褒めてくれていた。

ある日、コンクールに絵を出す時に、代表に選ばれた。その絵は『金賞』だった。

緑ヶ丘・第二幼稚園は、『心を育てる』情操教育に力を入れている園と

聞いていたが、一歩足を入れて、本当に他の園とは全然雰囲気が違い

情操教育が熱心に出来ていて素晴らしい成果が上がっていることが

直ぐによくわかりました。

子ども達には、よい環境が大事ですよ。

私は、油絵を習いに行きたいと思いましたが、お金が無いので

新聞配達や牛乳配達のアルバイトをして、

1本800円の油絵の具を12本買いました。

でも、経済的に続かず、結局油絵は止めました。

でも、絵描きになる夢は持ち続けていました。

そこで、お金がかからない水墨画を通信教育で独学で学びましたから、

選挙の後も直ぐに絵手紙の方法で絵が描けるようになっていました。

ある人のアドバイスで、画題を決めました。

故郷大分豊後高田市は、仏の里だから、『お地蔵さん』を描き始めました。

ある人は、1000枚描いたら、きっと売り物になる…と予言。

津屋崎の町のおまつり『よっちゃんさい』というのがあり、

その時、田中薬局さんが、当時、『津』のつく所に薬を卸しに来られ、到る所に

金の看板が何枚もあったが、そこに絵を展示してくださった。

徐々にお客さんの口コミで『姫地蔵』の絵を愛好する人が増えてきた。

宮地嶽神社は、商売の神様で、年間とおしてイベントがあり、特に

4月1日~10日の桜まつりや

6月の花菖蒲まつりは、売店に『姫地蔵』の絵を置いてもらい、喜ばれている。

あるファンの方が、以下の歌を藤井先生にお礼の印に送られたそうです。

  花菖蒲 宮地嶽(みやぢ)で出会う 姫地蔵 

             ちいさな愛の こぼれるところ

 

最後に、これだけは憶えて帰って欲しい言葉 を唱和した。

  花よりきれいな 母の愛

  咲いてしぼまぬ 母の愛

  鳥の声より 優しくて

  いつも変わらぬ 母の歌

  星のごとくに 輝いて

  行く手を照らす 母の顔

そして、参考資料として、全員にお土産の手描きの『姫地蔵』の絵と、

 『親も子も明るく伸びる12章』をくださった。

1)毎日の親を手本に子は育つ

2)育ちゆく姿を知ってよい指導

3)きまりよい暮らしがつくる 丈夫な子

4)むつまじい 家庭の中の 明るい子

5)親の愛 おぼれず かれず 子に注ぎ

6)こごとより ほめて 認めて 励まして

7)感謝する 心豊かな子に育て

8)親と子の 心を結ぶ 話し合い

9)能力に 合った期待で 子を伸ばし

10)伸びる子と 共に学ぶ 父と母

11)両親も 子ども心で仲間入り

12)子は十色 みな それぞれの色に咲き

   ~千の蔵より子は宝~

 

    今後の子育て教室の予定は…?

2月12日(木)第238回 自尊感情を高めましょう

2月23日(月)第239回 (今まで参加した方のみで)野菜中心の本格簡単中華料理教室

                韓 紅 先生

2月26日(木)第240回 一年を振り返って

                西村倭子(にしむらしずこ)先生の講演会

                『子どもと心 つないでいますか』ビデオ視聴学習

3月12日(木)第241回 (今まで参加した方のみで)茶話会

どうぞ、学びたい方は、誘い合ってご参加ください。  


年長組さん【防火豆まき大会】参加

2009年01月28日 15時15分52秒 | お知らせ

平成21年1月28日(水)

朝方はこの冬一番の冷え込みでした。北九州市も零下1.7℃、

飯塚市は、零下2.6℃、峠道はどこも凍りついていました。

しばらくは、霜が真っ白に降りていましたが、お昼からは青空が広がり

まるで春が来たようなうららかさで、ポカポカ陽気、15℃にもなりました。

おかげさまで 子どもたちものびのび外遊びが出来ました。

先週は近隣の小中学校では、インフルエンザ罹患の生徒が増えて学級閉鎖をした

という情報も入ってきて、感染が広がりはしないかと案じていましたが、

今日現在のところ、緑ヶ丘・第二幼稚園の園児は、殆ど罹患者はいません。

日頃から、換気・手洗い・うがいに充分に気をつけて、

睡眠をとり規則正しい生活リズムで、免疫力を高めておきましょう。

                               

     《 年長組【防火豆まき大会】参加の報告 》 

 1月28日水曜日午前10:40から、園の近くの的場町にある

北九州市立的場池体育館で、『八幡西幼年消防クラブ』の

【防火豆まき大会】が行われました。


 幼年消防クラブの9つの幼稚園と保育所のお友だちが大勢集まり、

なかよく防火・防災の思想普及を目的に、八幡西消防署の主催で 

合同豆まき大会をいたしました。

 (緑ヶ丘・第二幼稚園からは、年長組さんが全員参加しました。)


消防署のおねえさんも張り切って楽しく司会進行をしてくださいました。

この模様は、テレビ局などから取材が入っていました。

本日NHKテレビ

午後6時10分と、8時45分からのローカルニュースで放映予定。

KBC九州朝日放送テレビでも、ローカルニュースで放映予定。

どうぞ、ごらんください。

 

  最初は、八幡西消防署長の防火についてのおはなし。

 そして、北九州市消防音楽隊の山下隊長他皆さんの吹奏楽演奏で

♪『ディズニーランドメインストリートエレクトリックマジカルパレードメドレー』から

♪『小さな世界』♪『ミッキーマウスマーチ』他

宮崎駿アニメ『となりのトトロファンタジー』から

♪『さんぽ』♪『まいご』♪『となりのトトロ』

そして、

♪『崖の上のポニョ』は、ひときわ大きい声で全員で歌いました。

それに、

和風の力強い演奏と共にカラーガード隊の複雑な美しい演技

♪『もえろみんなの北九州』…数々のおなじみの楽しい曲を

手拍子しながら聴きました。

園で練習していった歌

「♪…そうさ100%勇気~もう泣いたりなんか し~ない!…」

と声を合わせて歌ったり、カラーガード隊のお姉さんたちの

スマートでピタリと息のあった素敵な演技にうっとりと見とれ…

寒さも何のその~愉快なひとときでした。 

 次に、トラくんやパンダちゃんも一緒に 

大型紙芝居『もりの消防団』をみながら、

八幡西消防署女性隊員さんたちから火遊びをしないように

防火や防災のお話がありました。

                 
 そのうち、オヤ!変な物音?鬼?変なのが後ろの方から3匹?

『火遊び鬼』や『火事鬼』や『暴れん坊鬼』が出てきた!

みんなで力を合わせてやっつけることになりました。

体育館の中を、一緒に走り回って鬼に豆を投げて遊びました。

子どもたちは、両手に園で作ってきた新聞紙や色紙製の特大豆を持ち、

女性消防隊員が扮する赤鬼・青鬼・黒鬼、3匹の鬼めがけて、

「鬼は外!」と、しっかりねらいを定めて投げつけました。


しばらくすると体育館中を暴れていた鬼たちは

「まいった~!」とすごすごと逃げました。

 その後 子どもたちみんなで「防火宣言」をしました。


「ぼくたち わたしたちは、火遊び鬼に負けたりしません。
 お友だちにちゃんと注意出来ます。ここに宣言します。」

 なかには、鬼が登場するとすぐにこわがって泣き出してしまった人もいましたが、

先生方に

「だいじょうぶ、心配しないでいいよ。良い子は追っかけてこないんだから。」

とか、

「みんなで一緒に このまめを目にあててやっつけようね。」

と励まされたり、しがみついて隅っこに固まる子には、

「先生もいるし、園長先生が一緒にいて

『緑ヶ丘・第二幼稚園はみんないい子ばかりです』

と守っているからね!」と聞いて少しずつ慣れてきて

安心して泣きやんだり、こわごわ鬼退治に参加していました。

「鬼は全然こわくなかった。おもしろかった!」

とにこにこ笑顔で言う豪傑も多数いました。


  主催者の八幡西消防署長様から、参加した各園の子どもに

記念品として『豆』と『おめん』をいただきました。

防火豆まき大会に参加した年長組さんは、本日持ち帰っています。


 お家でも、節分には豆まきをして 心の中の邪気を払い、

家族そろって笑顔で まめに仲良くすごしましょう。

合わせて、防火や防災、防犯の話も織り交ぜて

年齢に応じてご指導下さい。                                                                                                                                                                       


      防火・防災について、消防署からのお願い…

 これから春先まで1年で一番空気が乾燥し火事が多い時期になりますが、

各ご家庭でも話題にして、たばこの不始末や天ぷら油や

ストーブからの火事・また家の周りの可燃物への放火・

マッチやライターの火遊びからの火事等を出さないように。

またコンセントショートによる火災も最近増加しているそうです。

火事を起こさないように 話し合ってみてください。

  また、『天災は忘れた頃にやってくる!』と、よくいわれます。


 子どもたちにも 万一の地震等のために、常日頃から 

うちの家族は 誰が 何を準備して、何を持ち出し、どこへ避難するのか、

どう連絡をとり合うのか、などよく話し合って決めておくのも大事なことですね。                            

備えあれば 憂いなし』ともいいますので、

日頃から、

ご近所どうしでも声を掛け合い、防火・防災・防犯には

お互いに充分に気をつけたいものです。

   

    もう一つ お知らせ があります。

親育ち・子育ち

母の会子育て講座

第7回オヤジ講座

第237回子育て教室

『子育てセミナー』講演会

 明日

平成21年1月29日(木)、午前9時40分:受付開始、10時:開会

講演会会場:緑ヶ丘・第二幼稚園 2階ホール

講演テーマ:子育て~親育て

講師:藤井美由紀先生(福津市在住、二男一女の母親、作家活動他)

    姫地蔵の作家として有名な方です。

    ※ 先生の作品が、玄関とホールに飾ってあります。

ご多忙中でしょうが、誘い合ってどうぞお越し下さい。

在園児の保護者でなくても、地域の住民の方々や関心のある方は

どなたでもご遠慮なくお聞きになってください。講演会は無料です。

車で来園の方は、駐車場にお入れください。

小さいお子様連れの方も遠慮なくお越し下さい。

玩具類やベビーシッター用意がしてあります。

前もって申し込みをしていなかった方も、当日受付出来ます。

どうぞご参加ください。お待ちしています。

              


 


リンカーン

2009年01月20日 20時20分27秒 | 近頃思うこと・政治・経済・時事問題

平成21年1月20日(火)

今日は、深夜まで起きている人が多いかもしれない。

歴史的な出来事をテレビの衛星放送ライブで視聴したいと、オバマ氏の

大統領就任式を「どんな演説なのか?」期待を持って待ちわびている。

大統領になる時間は、首都ワシントンの現地時間の正午です。

その直後に就任演説が予定されていますが、現地は厳寒の零下5~10℃。 

でも、続々とひと目初の黒人大統領 オバマ氏を見たいと集まっているのです。

オバマ氏の尊敬する人物の中でも一番は、リンカーンです。

リンカーンといえば、演説が有名です。

実は、私も、大学時代にESSに入部して、すぐに暗誦コンテストに挑戦

する時に この演説が課題の一つでしたから、いくつかの詩文と一緒に

憶えました。懐かしい思い出です。

さて、リンカーンについて今日は少し復習してみたいと思っています。

エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)

(1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、第16代アメリカ合衆国大統領。

初の共和党所属大統領。エイブ(abe)の愛称で呼ばれ、

オネスト・エイブ(Honest Abe)、レール・スプリッター(the Rail Splitter)、

偉大な解放者(the Great Emancipator)、また奴隷解放の父とも呼ばれました。

身長193 cmと歴代の合衆国大統領の中でもっとも背が高い。

あの髭は大統領になった後に生やしたのだそうです。

任期中に暗殺された初めての大統領でもありました。

 エイブラハム・リンカーンは1809年2月12日、ケンタッキー州ハーディン郡で

トーマス・リンカーンとナンシー・ハンクス夫妻の息子として生まれました。

1831年には、ニュー・セーレムからニュー・オーリンズまで、ミシシッピ川を下り

品物を運搬する仕事をしていました。

1832年に起こった、イリノイ州とネイティヴ・アメリカンのソーク族との間の戦い、

ブラックホークの戦いに義勇兵として参加します。

1834年、ホィッグ・民主党の連立候補としてイリノイ州下院議員に初当選し、

1850年代中頃まで、イリノイ州で弁護士として活躍します。

(2007年2月に民主党のバラク・オバマ氏は、尊敬するリンカーンにあやかってここで立候補宣言をしました。州の車のナンバープレートには「LAND OF LINCOLON」(リンカーンの地)の文字が入っています。リンカーンの生誕の地はケンタッキー州ですが、その生涯のうち25年をここイリノイ州で過ごし、住んでいた家、働いていた法律事務所、大統領当選後ワシントンDCへ旅立っていった鉄道駅舎、更には彼のお墓もあります。リンカーンの家はリンカーン歴史地区のほぼ中央にあり、家の中は当時のままでありくまなく見ることが出来るそうです。この家は、リンカーンが結婚後に買い、子どもが増える度に平屋から二階建てに増改築され、内部は質素で部屋数が多く廊下や階段などは狭い家です。夫妻は4人の息子がいましたが、3人は次々亡くなり成人したのは、長男のロバートだけでした。その後、子孫は途絶えてしまっています。周りは、歴史的景観保存地区で、現在もリンカーンが住んでいた当時の街並みがそのまま保存されています。但し、『リンカーン大統領博物館』は、中にホワイトハウスを再現しリンカーンの偉業を学べる最新技術を駆使し豪華なもの…と福山忠彦氏はシカゴから南へ200マイルの「スプリングフィールド」紀行文に書いてくださり、私にメールしてくださった。)

1860年の大統領選挙で当選し、11月6日に第16代アメリカ合衆国大統領に

選出されます。

1860年12月に、サウスカロライナ州が連邦からの脱退を宣言し、

1861年2月までにミシシッピ州フロリダ州アラバマ州ジョージア州

               ルイジアナ州テキサス州も連邦からの脱退を宣言します。

1861年2月4日には7州で参加したアメリカ連合国を設立。

ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名されます。

1961年3月4日にリンカーンが大統領に就任し、

    4月12日に南軍が連邦のサムター要塞を砲撃して南北戦争開始。

1961年5月までにバージニア州アーカンソー州テネシー州ノースカロライナ州

連合国に合流。

ただし奴隷州のデラウェア州ケンタッキー州メリーランド州ミズーリ州

それにバージニア州の西部(後のウェストバージニア州)は合衆国に残った。

1862年9月、エイブラハム・リンカーンは

南部連合が支配する地域の奴隷たちの解放を命じた宣言

「奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)」を出す。

それは、奴隷制の廃止と連邦での市民権の確立に関する

アメリカ合衆国憲法第13条および14条の修正条項制定の推進力となった。

1863年11月19日、ペンシルバニア州ゲティスバーグにある

国立戦没者墓地の奉献式で、リンカーンが行った演説は、

ゲティスバーグ演説として有名です。

THE GETTYSBURG ADDRESS

Fourscore and seven years ago our fathers brought forth on this continent a new nation, conceived in liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.
 Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation, or any nation so conceived and so dedicated, can long endure.
We are met on a great battlefield of that war.
We have come to dedicate a portion of that field as a final resting-place for those who here gave their lives that this nation might live.
It is altogether fitting and proper that we should do this.
 But, in a larger sense, we cannot dedicate…we cannot consecrate…we cannot hallow…this ground.
The brave men, living and dead, who struggled here, have consecrated it far above our poor power to add or detract.
The world will little note nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here.
It is for us, the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced.
It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us…that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion; that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain; that this nation, under God, shall have a new birth of freedom; and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
November 19, 1863

ゲティスバーグ演説

80と7年前、私たちの父祖は、この大陸に新たなる国家を打ち立てました。自由を原点として懐胎され、人はみな平等であるとの命題に捧げられた国家です。
今私たちは、たいへんな内戦の渦中にあります。その国家が、あるいはそのような原点をもって懐胎され、そのような命題に捧げられた国家一般が、長らえることができるかどうかが試されているのです。
私たちはその戦争の激戦地に集っています。その国家が生き長らえるためにこの地で命をなげうった人々の最後の安息の地として、その戦場の一角を捧げるために集まりました。それは私たちにとって、全くもってふさわしく、また理にかなった行ないであります。
しかし、より大きな意味では、私たちがこの土地を捧げることはできません。この土地を聖別したり、神に捧げたりすることはできません。この地で奮闘した勇敢な人々こそが、生きている方々も戦死した方々も含め、すでにこの地を聖別しているのです。
それに付け加えたり、差し引いたりすることは私たちの貧弱な力の及ぶところではないのです。私たちがここで話すことは世界の耳目を引くこともなく、やがて忘れ去られることでしょう。しかし、彼らがこの地でなしたことは、永遠に世界の記憶に留められるのです。この地で戦った人々がこれまで気高くも進めてきた未完の仕事を完遂するために、私たち生きている者は、むしろ自らの身を捧げるべきなのです。
私たちの前には大いなる責務が残されています。名誉ある戦死者たちが最後まで完全に身を捧げた大義のために、私たちも一層の献身をもってあたること。これらの戦死者たちの死を無駄にしないと高らかに決意すること。神の導きのもと、この国に自由の新たなる誕生をもたらすこと。そして、人民の、人民による、人民のための政府をこの地上から絶やさないことこそが、私たちが身を捧げるべき大いなる責務なのです。1863年11月19日  

 (友清理士 訳)

(短く、とても凝縮されていますが、パワフルな演説で、声に出して読んでみると、韻を踏んでいるところがとても気分が良いです。この上なくシャイで赤面恐怖症気味だった大学1年生の私が、初めての暗誦大会に出て、恥ずかしがり屋の私ではなくなってきはじめたそのきっかけの演説文でした。その時代背景を考えると、画期的な短くてインパクトのある言葉の力に改めて感心させられます。)

1864年3月、ユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses Simpson Grant)、

後の第18代アメリカ合衆国大統領が北軍総司令官に就任。

戦争が長期化し、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が

優勢になり、1864年9月にはアトランタが陥落。

1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落。

9日には南部連合の軍司令官、

ロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee)12日)が降伏し、

南北戦争は事実上終了します。

1865年4月14日フォード劇場で、妻のメアリー・トッド他と

「われらのアメリカのいとこ(Our American Cousin)」の観劇中、

北軍のメリーランド州出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブース((John Wilkes Booth)に

1.2mの至近距離からデリンジャー拳銃で後頭部左耳後5cmを1発撃たれ、

致命傷を負った大統領は通りの向かいの、ウィリアム・ピーターソン

(William Petersen)宅に運ばれ、1865年4月15日午前7時21分に亡くなりました。

さて、朝日新聞『天声人語』の最初に西洋の賢人が、手紙の書き出しに

書いた以下の文章が紹介されています。

「今日は急いでいるので長い手紙になってすみません」

また、米国の28代大統領ウィルソンが言った言葉は、

「1時間の話なら今すぐ始められるが、10分の話は準備に1週間かかる」です。

それで有名なのが、同じ『天声人語』に紹介された上記のリンカーンの

ゲティズバーグでの演説です。

わずか10の文で構成された272語・3分間の

「人民の、人民による、人民の為の政治

=The Government of the people, by the people, for the people」です。

この文は、リンカーンが考えたものではなく、

1380年にイギリスで出版された旧約聖書にジョン・ウィクリフが

序文として書き込んだ文章であり、牧師のセオドア・パーカーが

著書で紹介したのを引用したものですが、演説全体は、

まさに自分が目指すべき政治を、簡潔に、言葉をこまかく吟味したであろう

ことに疑いはありません。

一人一人が献身すべきことと、その高き理念が明確に述べられています。

しかし、当時は、あまり評判は良くなかったようです。

リンカーンの演説の前に エドワード・エベットは1時間20分にわたる

大演説をし、並みいる将兵に深い感銘を与えました。

そのあと、リンカーンが立ち上がって 祈りをこめるような調子で

3分ほど演説をしましたが、それは沈痛で、重々しく、聞きとりにくいものでした。

エベレット自身も、後日、リンカーンヘの手紙のなかで、

「あの場における小生の2時間の演説が、閣下の2分間の演説の

要諦に迫るものであったと自負できるなら、まことに光栄です」

と、謙虚につづっています。

エベレットは、アメリカ随一の雄弁家であったが故に、素直に、

リンカーンのスピーチのすばらしさを認めたのでしょう。

そのほかにも、彼は様々な名言を残しています。

人の話す言葉には、その人の人格が込められ、その人の思想が伺えます。

それを人にいかに簡潔にわかりやすく伝えることができるのか、また、

人からそれをいかに正しく受け止め学んで理解を深めていくかが、課題です。

リンカーンが残した言葉を以下にご紹介します。特に有名なのは

「40歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」

というものがあります。

「顔」は、ある程度の年齢までは、生まれつきです。

しかし、人は、年齢を重ねるに連れて、

喜怒哀楽を次第にその人の顔に刻み、暗い表情や明朗快活な表情、

そこから醸し出される雰囲気、人格、心を皺(しわ)に刻みます。

特に40歳を過ぎるころから経験の重みや、受容する気持ちや、

自分に対する確信などが顔に現われてくるのです。

そして、ただ顔にそういうことが現れてくるということだけでなく、

それに「責任」を持つべきだということも言っています。

特に子どもは、その人の心持ちを、直感的に感じとるようです。

もっとも、最近はお隣の韓国では「整形手術をする」人が増えて

女優男優をはじめとして、政治家も大統領も一般人も…ということだそうです。

「身体髪膚これを父母に受く・・・敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」と昔の人は

叩き込まれていました。隔世の感がありますね。


さて、次のリンカーンの言葉は

「木を切り倒すのに6時間もらえるなら、

私は最初の4時間を斧を研ぐことに費やしたい。」

これは、斧を丹念に研ぐと、切れ味が良くなり、切り口がきれいになり、

時間短縮にもなるということです。

目前だけの目的を見て、早くそれを達成しようとするのではなく、

本来の目的を達成するためには、どんな準備が必要であるか、

どんな仕上がりを求めているのか…と見通しを立てることが重要と示唆しています。


生き方についてもいくつか示唆を含んだ言葉があります。

「あなたが転んだ事に興味はない。あなたが立ち上がる事に興味がある。」

「大抵の人は自分が幸福になろうと決心した程度だけ幸福である。」(幸福の度合いは自分がどれだけ幸福になりたいかで決まるのだ)

「今日できることを 明日に残すな」

リンカーンの人生は、何度も転んだことでしょう。大きな夢ももったことでしょう。

自分に課せられた使命を全うしようと努力を重ねたに違いありません。

それは、ある人がリンカーンに向けて

「あれが大統領か。実に平凡な風采だな。」

といった言葉に対して返した言葉に現われています。

「その通りだよ、君。神さまは平凡な人が好きなのだ。

だから平凡な人を、たくさん、つくられたのだ」

 これは、自分の使命を確信している人の答えですね。
 

さて、朝日出版社から出版されたCD付き「オバマ演説集」は、

昨年11月20日の発売初日に初版2万部が完売し、

現在 早くも18版になり、40万部発行です。

新大統領就任後もオバマ氏は、数々の名言を残すかもしれない。

「難しいことを難しく言うのは簡単だが、難しいことをやさしく言うのは難しい。」

大学の先生のお話は往々にしてこう感じさせられますね。

幼稚園児にもよくわかるやさしい言葉づかい、若い保育者にもわかりやすいシンプルな短い言葉で、しかも的確に確信を突いた表現をしなくては…と、改めて痛切に思わせていただきました。

子どもたちの心を育てる任務を帯びた仕事で「人の生き方、人の考え方を問う内容」を、いかにやさしく短い言葉で語るかは、特に幼稚園の先生にとっては、研究課題だと思っています。

様々な場面で突然スピーチを求められますが、リンカーンやオバマに学んで、

合わせて、今後の 新大統領のご活躍を 心から念じたいと思います。 


成人の日「手塩にかけて育てる」

2009年01月12日 21時01分38秒 | 子育て

平成21年1月12日(月)成人の日

 成人の日といえば、昔は、「1月15日」でしたが、最近は三連休に

なったので、固定的では ありません。

1月11日は「塩の日」でした。そこで、「塩」について考えています。

塩を一般生活の風習として使う場合は「きよめ」の意味合いが強く

不祝儀の帰りに自宅に入る前に塩を身体に振りかけたり、

地域によってはいまでも掃除のあとに「きよめ」に塩をまくところがあるそうです。

料亭の店先に置かれる「盛り塩」も悪い客を追い払った時にも使われる。

客が帰ったあとに「塩を撒いておきな!」と店の女将さんが言うせりふです。

店の周りを掃除し夏なら打ち水をして「きよめ」たあとに、玄関に「盛り塩」をおく。

入ってくる客に多く踏まれるほど大入り満員ということになる。

しかし『塩と日本人』の著者 民俗学者田村勇は「きよめ」でなく、

盛り砂や注連縄(しめなわ)などと同じように盛り塩は

「結界(けっかい)」の意味合いが強いという。

大相撲でも盛大に塩を撒いて取り組みが始まりますが、

塩を撒きたいような とんでもないぶち壊しのマナー違反の成人式のニュースに

接して、又今年も「二十歳の幼さ」に心が痛みます。

さて、私は今、その三倍の還暦が間近かになり、減塩食をいただいています。

塩気のない食事になってから、改めて『塩』の大切さを考えています。

http://www.shio-navi.com/blog/archives/2005/04/post_8.php 

『塩』よりも、今では、世界中で『ソルト』と呼ぶ方が広まっていますが、

そもそも『ソルト』は古代ローマのラテン語「サール(sal)」から由来しています。

ローマでは兵士の給料が塩で支払われたこともあったことから、

サラリー(salary)の語源になっていることで知られていますが、

それ以外にも、「塩をかける」を意味するサラダや、

兵士ソルジャー(solrier)の語源にもなっています。

同じユーラシア大陸に位置するヨーロッパ諸国は、

ほとんどがこの「サール」から派生した言葉ばかりです。

エジプトやイラクなどアラブ諸国のアラビア語は使用範囲が広いため、

国・地域によって違ってきますが、

標準アラビア語では塩をミルフ(milhun)と言います。

同じイスラム教圏でも、イランのペルシア語ではナマック。

近隣国でも随分違っています。

オーストリアの首都 モーツァルトと音楽祭の街ザルツブルクは、

もともと「ザルツ」という言葉、つまり「ソルト」という言葉

「塩」から由来している地名で「岩塩」で栄えた町なのです。

日本にも塩に縁のある地名が多いのですが、特に、長野に

塩のつく地名が多いことは、臥竜塾のブログでも以前

藤森先生が書かれていました。

その時に「敵に塩を送る」という逸話にも言及されていました。

この逸話は、ちょうど今年、NHK大河ドラマで放送が始まった

『天地人』に出てくる上杉謙信武田信玄の話です。

信玄が三国(甲斐・相模・駿河)同盟を破って

駿河へ侵攻すると、今川氏真は、相模の北条氏康とはかり、

その報復措置として、信玄の領国へ塩を送ることを前面的に禁止しました。

これは、今でいう経済封鎖政策です。

 塩がないというのは生活にとても困ります。

このことを知った上杉謙信は、

「塩を絶つとは卑劣で武士の恥であり、

相手の国の力を弱めようとする行為自体が、

相手に対し恐れをもっている証拠だ」

と言い、敵国である武田家に塩を以前同様に

通常の価格で売るように家来に命じたそうです。

もしも高い値段で塩を売りつける者がいるのなら

連絡せよ とも言ったとか。

このため武田の領民は、

「蘇生の思いをなし、深く謙信の高義を感じ、その厚志を徳とした」

といいます。

謙信が「義」を重んじた態度に感謝した信玄は、

そのお礼に太刀一振りを贈ったといわれています。

その太刀のことを「塩留めの太刀」といい、

現在、東京国立博物館に所蔵されているそうです。


これを、江戸時代の陽明学者頼山陽が讃えて

「所争在弓箭不在米塩」

(争うところは、弓箭(=いくさのこと)にある。米や塩ではない)と言い、

「敵が苦しんでいる時に、かえってその苦境を救う」ことを

「敵に塩を送る」と言うようになったのです。

このとき、塩が当時の武田領の松本市に到着した日が

1569年1月11日で、甲府には1月14日に到着しました。

ですから、昨日1月11日は「塩の日」と決められています。

そして、

松本市に到着した1月11日に、

ここのえびす様を祭っていた

宮村天神(深志神社)の神主が

塩を売るのが恒例となり

「塩市」が始まったとされています。

しかし、江戸時代前期に、

飴を売る露天が本町に軒を連ねたため、

今は「飴市」と呼ばれています。

 また、松本には、本庁の街角に

「牛つなぎ石」という石がありますが、

これは、その昔、上杉謙信が牛の背に塩を乗せて

松本の地まで運んできたおりに、牛をつないでおいた石だとされています。

 

塩は、よく高血圧の敵 のように言われますが、

実は体にとってはとても重要な役目があります。

まず、「塩」のナトリウム分には

神経・筋肉の働きを調節するという役割があり、

ナトリウムが不足すると筋肉の収縮、弛緩がうまく行かなくなります。

ですから、塩は筋肉運動に重要な役割を果たしているのです。

また、

体温が上がりすぎると

発熱体である塩分を体外に出し体温を下げようとします。

これがいわゆる汗で、舐めるとしょっぱいのはそのせいです。

脱水症状というのは

この活動が過ぎた時に起きる、塩分不足状態です。

このように、塩は体温をコントロールしているのです。

また、塩は

導電物質で、人間の体内では塩分濃度が不足すると

電流がよく流れなくなるため、

情報伝達がうまくいかず、体調不良をきたします。

また、塩のナトリウムイオンが不足すると新陳代謝は衰えてしまいます。

他にも、ナトリウムイオンは腎臓の働きも助けています。

そして、血液が酸性になるのを防いだり、消化の働きにも

塩化ナトリウムが必要なのです。

 

 http://www.siojoho.com/index.html

日本の塩の自給率は、現在15パーセントです。

 

人間は、砂糖がなくても生きられますが、

塩を絶たれると生命に関わり困るわけです。

でも、塩は、いくら体に良いからといっても、

それだけ食べるものではありません。

ただ、激しい肉体労働をする人は、

汗で大量の塩分を失いますので、

塩をなめながら仕事をするのです。

製鉄所の溶鉱炉で働く人は、その典型的な例としてよく知られています。

特に日本では、日本酒が好きな人はお塩を酒の肴にします。

米飯にお塩を一振り。おかずがなくてもご飯をいただけ、

りんごにさっとお塩を振るとりんごの甘酸っぱさとお塩のしょっぱさが混じり合い

何ともいえない味わいあるりんごを 変色することなく食することができます。 

小豆から餡を拵える時もお砂糖を多く使用しますが、甘味を引き出すために

お塩を一振り。ひときわ甘味が引き立ち美味しい餡子(あんこ)ができます。

ぜんざいにもおしるこにも隠し味として塩が使われています。

塩は、いろいろなものに利用されています。

日本の伝統食である味噌、醤油、漬物、梅干等に使い、食を豊かにしたり、

保存食を作る時にとても重要な役割を果たしています。

 

世界一と言われる日本人の寿命を支えているのは

この伝統食世代であり、この人たちが長生きするようになったことが

長寿世界一の一番の要因と考えると、

塩こそ その陰の立役者的な存在といえるかもしれません。

 

徳川家康はある日、側に仕える阿茶の局に、

「この世で一番うまいものは何か?」

と尋ねた答えに、

「それは塩です。山海の珍味も塩の味付け次第。

また、一番まずいものも塩です。

どんなにうまいものでも塩味が過ぎると

食べられなくなります。」

と答えたと言われています。

塩は

さじ加減ひとつで、他のものの味を引き出します。

指導者もまた、同じように、家臣の心を巧みにとらえ

能力を引き出すことが肝心ということを、

暗にほのめかした局の答えに、

家康は深く感銘し、以後教訓としたといわれています。

 

それは、教育にも言えます。

親や教師が強すぎず、家庭でも園でも、親や教師という「人的な環境」が

子どもの持っている力をぐんぐん引き出し個性を輝かせるのです。

また、それが 「いい塩梅(あんばい)」というのが肝心なのでしょう。

 

人間の体は塩を必要としていますが、

塩の過剰摂取は、高血圧、脳卒中、さらには胃ガンなどを引き起こす恐れもあり、

体にとって良くないということは一般的によくいわれます。

 

人が一日に体外に排出する塩分は1.3gと言われていますので、

健康体であれば、最低でもそのくらいの塩分が必要になります。

ではその適量とはいったいどれくらいなのでしょうか?

 

人が一般的に美味しいと感じる塩分濃度は0.8%だといわれています。

これは人間の細胞外液の塩分濃度の数値に一致します。

 つまり適塩を守る=体液濃度を維持すること

そのために守るべき摂取量は10g、すなわち小さじ2杯分です。

 

ナメクジに塩をかけると縮んで死んでしまいます。

それは、ナメクジの体の殆どは水分で構成されているため、

塩をかけると浸透圧の関係で水分を失ってしまうからです。

ですから、すっかり元気がなくなることのたとえとして、

また、苦手なものの前に出て萎縮してしまうことのたとえとして

「ナメクジに塩」と言いますし、

同じように塩をかけると縮んで死んでしまう「ひる」にたとえて、

「ひるに塩」といって、忌み嫌う苦手なものに直面して

縮こまることのたとえとしてや、

弱って足腰が立たなくなることのたとえとして使います。

同様に、

青菜に塩をかけると、

葉や茎に含まれた水分が外に吸い出され、しおれてしまいます。

そこから、急に元気をなくしてしょげるさまを、「青菜に塩」と言います。

 

体に良いものも、その使い方次第では

体に悪いものになってしまうことが多いのです。

薬も適量を過ぎると、毒になることがあります。

 

「塩たらず」という言葉は、

「塩は、ほどよい量を使わないと

食べ物の持ち味を引き出せない。

塩が足りないと間のぬけた味になってしまう」

ということから、人がのろのろしていること、能力が低いことを表します。

 

ヨーロッパには、

「塩の豊かな人」という言葉があり、

すぐれた人、教養のある人を表現するときに用いるようです。

 

そして、子どもは、「手塩にかけて」育てないといけないのです。

自分の手で塩をふり、時間をかけて漬け込む漬物や、

手のひらいっぱいに塩をつけて握りしめるおむすびのように、

昔から手に塩をつけて丹念にものを作る行為には、

愛情が込められています。

 

「子どもは、手塩にかけて育てなさい。」

と、我が父も、私が子育てをし始めた新米ママになりたての頃に

よく申しておりました。

今日は、成人の日に、『塩』にまつわる、あれこれを思い巡らせながら

子育てについて考えています。

老婆心ながら、最近の子育ては、手抜きが目立ちます。

まずは、心を込めて

「子どもは、手塩にかけて育てなさい。」を実践したい。

この子達が『成人の日』を迎える頃には、

日本は、世界は、どんな世の中になっているのでしょうか? 


県知事賞 おめでとう!

2009年01月11日 16時45分14秒 | 教育

平成21年1月11日(日)風が強く、時々雪が舞う寒い日です。

皆様、お元気でしょうか?

1月8日(木)三学期がスタートしました。

今年も佳い成果が得られますように、気を引き締めて

教職員一同、一丸となって、一人ひとりの個性の良いところに着目して

今年も、『心の成長がある保育』に取り組んでまいります。

本日は、福岡アジア美術館8階交流ギャラリーで、

福岡県幼児造形教育研究会・西日本新聞社主催で催された

『第14回 福岡県幼児画展』

の審査の結果、特別賞受賞者へ

賞状や副賞を渡す表彰式が午後からありました。

この作品展は、

福岡県下の「幼児の絵画表現」に対する関心を高め、

表現力を育て、美しい心と豊かな情操を養い、

幼児教育に役立てることを目的とし、

平成7年より開始された事業です。


例年、1月下旬に審査会を行い、

特別賞(18点)・特選(132点)・入選(300点)

の合計450点を選出、展示、表彰しています。

第1回~昨年 の様子は↓

 http://www.kodomo-museum.or.jp/flameyouji1.htm

おめでとうございます!

とても嬉しいお知らせです。

最高賞 

福岡県知事賞

年長組 有尾 悠希 くん

 

  西日本新聞社賞

年長組 志賀 叶梨ちゃん

 

二人とも 集中し よくがんばりました!

とてものびのびと美しく表現できて

楽しいイキイキした作品でした。

 

他に 姉妹園 緑ヶ丘第三幼稚園(中間市)の年長組女児が、

松本文化芸術振興財団賞を受賞しました。

また、

特選

守口 瑛

東 美来

小池 竜司

有川 空留美

杉埜 蓮

宗岡 咲希

安西 真矢

村上 大貴

歌野 聖真

白土 陽菜

山口 廉

廣田 渚

以上12名 

それに

入選

許斐 一輝

村上 天汰

藤木 虎春

藤村 浩之介

芳賀 明日風

西崎 由芽

長谷 萌々子

吉永 彩花

古市 将汰

黒仁田 唯衣

大海 葵

以上11名

 

なお、受賞した作品は、園ヘは戻って来ません。

後援者 松本文化芸術振興財団が保管して、

のホームページで いずれ

世界の人に公開されます。

 

インターネットこども美術館ふくおか↓ 

  http://www.kodomo-museum.or.jp/

どうぞ、ご覧ください。

 


世界天文年2009と「おうし座」、「プレアデス星団」

2009年01月03日 16時15分20秒 | 宇宙・天体・地学・科学技術・理科関係

平成21年1月3日(土)

今年は、丑年。そして、世界天文年です。

2008年12月27日の毎日新聞『余禄』に以下のような記事がありました。

「なぜ十二支に猫がない」

「そういえば星座も猫座がない(やまねこ座はあるが)」

とご不満の猫好きもいよう。

だが、ならばと「猫座」を作った天文学者がいた。

フランスのジョセフ=ジェローム・ルフランセ・ド・ラランド

という猫好きで、その天文学の著作は江戸時代の日本にも伝わっている

▲ラランドは他に「軽気球座」なども作ったが、

「猫座」ともども現在の88星座には残っていない。

その一つに天体の高度を観測する四分儀になぞらえた

「壁面四分儀座」というのもあった。

これも星座としては消えたが、星座名の方は今も役立っている。

▲「しぶんぎ座流星群」は毎年1月4日ごろに見られる流星群だ。

現在の「りゅう座」と「うしかい座」の境界付近を放射点とし、

かつての星座の所在を今に伝える。

流星の出現数は多いが時間が短く、

年によって日本で見える数は大きく違うという

▲来年(09年)はこの年明け

流星群が日本時間3日夜から4日未明に極大になると予想される。

観測しやすい未明に月明りはなく、条件はいいという。

ご興味ある方には国立天文台ホームページに1月2日から5日までの

観察キャンペーンの呼びかけがある

▲09年はガリレオが

自作望遠鏡で天体観測を始めて400年を記念する

「世界天文年」という。

「しぶんぎ座流星群観察キャンペーン」は、その開幕イベントになる。

引き続き4日には全国各地の天文台などで多彩なイベントが予定されている

▲「みんなで星を見よう」がイベントの標語だが、

来年最大の天文ショーは

7月22日にトカラ列島などで観測できる皆既日食だ。

http://www.nao.ac.jp/phenomena/20090722/index.html

目の前の深刻な現実に心が奪われる今こそ、

実は何より遠くを見る力が必要な時かもしれない。

年明けの夜空の流星は何を教えてくれるだろう。

              

この記事↑を読んで、私も、今晩は

「しぶんぎ座流星群」を探して 

冬空を眺めてみたい と思っています。 

世界天文年2009→ http://www.astronomy2009.jp/ 

            http://210.172.57.121/index.html

 枕草子の235段には、
「星は 昂星。牽牛。明星。長庚(ゆうづつ)。

流星(よばい星)をだになからましかば、まして」
(星はすばる、ひこぼし、明けの明星、宵の明星が良い。

流れ星も少し趣がある。尾を引かなければもっとよいのだけれど。)

昂星は「すばる」のことで、牽牛とは「彦星」(ひこぼし)です。

明星は、

「暁の明星」のことで、夜明けに東天に見える金星のことです。

それに対して、夕暮れに西天に現れる金星の「宵の明星」は、

夕方に見えるということで「ゆうづつ」といいましたが、

これは見える時刻によって名前を変えたというよりも、

同じ金星と思わず、違う星と思っていたのかもしれません。

「よばい星」とは、流れ星のことをいいます。

そもそも「よばい=婚ひ」は

女性に求婚する意味と思う人が多いと思いますが、

源氏物語の時代の夜中に男性が女性のもとへ…

流れていくさまが女性のところに通っていくように見えた?

実はそうではなく、

「よばい」とは、

「よばう」=「こえをかけ呼び続ける」が語源なのだそうです。

大辞林 第二版 (三省堂)より

よばう よばふ 【呼ばふ/喚ばふ/婚ふ】(動ハ四)

〔動詞「よぶ」の未然形に継続の助動詞「ふ」が付いたものから〕

(1)何度も呼ぶ。呼びつづける。
「なくなく―・ひ給ふ事千度ばかり申し給ふ/竹取」

(2)男が女に言いよる。求婚する。
「右大将は、常陸の守のむすめをなむ―・ふなる/源氏(東屋)」

つまりは(1)の竹取物語の方です。=「何度も呼ぶ。呼びつづける。」

   「純粋に想いを寄せ思い遣って声をかけ呼ぶ」という意味です。

誤解の無いように! 

さて、流れ星は尾を引きますが、

清少納言は、「尾などないほうがもっといいわ」

というのは、本当にどうしてでしょう?不吉なイメージ?

藤森先生も「尾を引くからいいと思う」と仰っていますが。

どの星が「いとおかし」なのかは、私も

清少納言の意見を興味深く思いますが、

賛同でないところもあります。

ただし真っ先に挙げている「昴(すばる)」はわかる気がします。

この「」は、まさに今の季節を代表する星で、

その光は、古今東西のやんごとなき方も庶民も

隔てなく魅了してきたことでしょう。

今では、富士重工のマークとなって

車の名前としても知られています。


この昴は、「プレアデス星団」といわれるように、

生まれたばかりの青白い星が百個以上も集まり、

星々を青白いガスが取り巻き、たいへん美しい姿に見えます。

そのようにいくつもの星の集まりということで、

「すばる」という和語は

「統一されている」「ひきいられている」という意味で、

一つの星の名前ではなく、星団をひとくくりとしての名前です。

万葉集で「須売流玉(すまるのたま)」、

日本紀竟宴和歌で「儒波窶玉(すばるのたま)」

などといわれるように、玉飾を糸でひとくくりとしたものを

「すまる・すばる」と呼びました。


 肉眼でも5~7個の星に分かれて見えることから、

ギリシャ神話では、「プレアデス星団」の話の中でのプレアデスは、

狩人「オリオン」に追われて星になった7人姉妹だとされています。

このため、「プレアデス星団」には、

7人の姉妹と、父「アトラス」、母「プレイオネ」の名前が残っています。

 プレイアデスは女神アルテミスに仕えていました。

この「プレアデス星団」は、おうし座の背中に輝いています。

http://www.ne.jp/asahi/stellar/scenes/seiza/tau.html

また、同じくおうし座にあるヒアデス星団のヒアデスの7姉妹は、

父「アトラス」と母「アエトラ」の娘たちであり、

プレイアデス姉妹とは異母姉妹の関係です。

           

 「人に何かを教えることは出来ない。

ただその人が自分自身で気が付くように助けることが出来るだけだ」

天文学の父といわれたイタリアの物理学者、天文学者、哲学者

ガリレオ・ガリレイの言葉です。

彼は、17世紀にコペルニクス地動説を支持し、

バチカンから「異端」として宗教裁判にかけられて有罪となり、

「それでも地球は回っている」

といったことで知られています。

ですから、どうしても科学者的なイメージがあるのですが、

哲学者であるフランシス・ベーコンと共に哲学に

科学的手法を用いたその開拓者としても知られています。


ガリレオは、冒頭の言葉以外にも、含蓄のある言葉をいくつか残しています。

「何も学ぶべきもののない人に会ったことはない」
「学者はしきりに「それゆえ」という言葉を使うが、なんで「それゆえ」なのか、俗人にはさっぱりわからない。なんだか、偉そうな言葉でごまかしているようだ」
「君は、報告を信じるだけで、自分で確めないのか」
「見えないと始まらない。見ようとしないと始まらない」

 先日12月21日、

ローマ法王ベネディクト16世は、バチカンでの礼拝で、

17世紀の天文学者ガリレオ・ガリレイの地動説について

「自然の法則は神の業に対する理解を促した」と述べ、

同法王としては初めてガリレオの研究を公式に認めたようです。

前法王ヨハネ・パウロ2世は

1992年、教会側の非を認め、公式に謝罪したのですが、

現法王は枢機卿時代に

「ガリレオ裁判は正当だった」と発言したことで知られていました。

それが、今回正式にガリレオを認めた形になったのですが、

同時に、礼拝で、

「ガリレオの望遠鏡による初の天体観測から400年になる」

とも述べ、研究をたたえました。

ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人です。

そして、木星の衛星を3つ発見、その後もう一つ見つけ、

これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれています。

また、月面にクレーターや山、そして黒い部分があり、これを海と名づけました。

さらに、望遠鏡での観測で太陽黒点を観測した最初の西洋人でした。

しかし、望遠鏡で太陽を直接見たために、

晩年に失明してしまったと考えられています。

ローマ法王が言ったとおり、

ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で天体観測を始めてから、

2009年で丁度400周年となります。

この節目の年を「世界天文年」とする決議が、国際連合総会で採択されています。

そして、世界中の天文学者やアマチュア観測者、教育者などが連携し、

一般の人々を巻き込んでさまざまなイベントが行われる予定だそうです。

これを機会に、世界中の人々がそれぞれに夜空を見上げ、

宇宙の中での地球や人間という存在に思いを馳せつつ、

自分なりの発見をしていこうと呼びかけてはどうかというアイデアが、

国際天文学連合 (IAU)の中から生まれてきました。

世界の中でも日本は、昔から月や星を絵画や歌や俳句で愛でてきた国であり、

現在では世界をリードする天文学・宇宙科学の先進国となっています。

また、今夏には、日本付近で条件のよい皆既日食も起こります。

公式名称は

「世界天文年2009(The International Year of Astronomy 2009)」で、

略称は「IYA2009」です。

公式スローガン(標語)は

「The Universe, Yours to Discover」(宇宙…解き明かすのはあなた)です。


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子どもたちは、本来 自然への興味と科学への関心を持っています。

ぜひ、その心を育てていきたいですね。

親子で、今年も しっかり声をかけてふれあい、大きな夢を育ててください。 


謹賀新年

2009年01月01日 06時13分29秒 | Weblog

平成21年1月1日(木)時々

 

あけましておめでとうございます

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

昨年よりも、少しでも進歩があり、より良い一年になりますように!

教職員一同、一丸となって、邁進したいと存じます。

子どももおとなも、健康第一で、

楽しく充実した毎日になりますよう!

心を込めて  成長をお祈りしています。

 

三学期は、1月8日(木)からスタートします。

元気いっぱい、笑顔でお会いしましょう!

                  

預かり保育は、1月5日(月)から始まります。

   

入園や、転入園などの手続きは、

1月7日(水)以降に来園ください。