平成22年8月22日(日)
いよいよNHKテレビの大河ドラマ「龍馬伝」が、佳境に近づいてきました。
龍馬というと一番の功績と言われるのが、中岡慎太郎と奔走し、
犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩を結びつけた「薩長同盟」です。
竜馬と慎太郎像
私が子どもの頃は「薩長連合」と言っていたのですが、
最近では「薩長密約」とか「薩長盟約」と呼ばれることが増えています。
テレビを見ていると、本当に薩長は仲が悪いようですが、
諸説があるようです。
しかし、どちらにしても、両藩がその後の倒幕の中心になっていくのは確かです。
明治政府の多くの要職を薩長で占めていたことも事実です。
薩長そして土肥、その影響力を、今でも感じます。
が、なぜ、薩摩と長州が中心になったのでしょうか。
その理由の一つは、
両藩とも先を見る力があったのでしょう。
「尊皇攘夷」を唱えながら、実は「攘夷」と言いながら、
欧米の文明の進んでいることを認め、攘夷などはできるものではなく、
それよりも早く欧米の文化・文明を学んだ方がいいと思っていたのです。
薩長は同盟を結ぶ前から、同じような考え方をし、
両藩の関わりがあったのです。
薩摩藩は、薩英戦争でイギリスと戦って、
イギリスの文明のすすんでいることを目の当たりにします。
そこで、攘夷の不可能を悟り、1865年、島津久光の意向で
イギリスに国禁を犯して15名の留学生と4名の引率者を派遣しました。
その薩摩藩派英の留学生のことを、「薩摩スチューデント」と呼びました。
このメンバーであった森金之丞(森有礼)は、外務卿、初代文部大臣になりますし、
松村淳蔵は、海軍中将、畠山丈之助(畠山義成)は、
東京開成学校(東京大学の前身)の初代校長になります。
一方、これに先立って、これより数年前に長州からも秘密裏に
イギリスへ留学のため派遣された5人がいました。
こちらは「長州ファイブ」と呼ばれ、映画にもなり話題になりました。
メンバーの5人は、それぞれ功績を残しています。
井上聞多(井上馨)は、初代外務大臣で、欧化政策を推進し、
不平等条約改正に尽力します。
遠藤勤助は、造幣事業に一生を捧げ、
「お雇い外国人」から独立し、
日本人の手による貨幣造りに成功します。
山尾庸三は、グラスゴーで造船を学び、
明治4年に工学寮(のちの東京大学工学部)を創立し、
また、聾盲唖教育の父とも呼ばれています。
伊藤博文は、もちろん初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法を発布します。
野村弥吉(井上勝)は、鉄道の父とよばれ、
新橋-横浜間に日本初の鉄道を敷き、
以後、全国の鉄道敷設工事を指揮しました。
岩崎彌太郎とともに小岩井農場を創設します。
時を同じくしてイギリスに留学していた薩長はその地で交流をしていたようです。
それにしても、イギリスに着くまでに見た諸外国の姿や、
イギリスに着いてからも驚きの連続だったのでしょうね。
そんな日本人を見たイギリス人は、
日本人はなんと野蛮で遅れている国民なのだろうと思いますが、
しばらくしてその日本人たちは、農機具などすぐにマスターし、
イギリス人たちを指導するようになります。
今度は、イギリス人たちは、
日本人はなんと優秀な国民だと思うようになります。
それは、彼ら留学生のあくなき探究心の現れですが、
もうひとつは、江戸時代の教育の成果ともいえます。
進んだ外国の文化に触れて驚く彼らですが、実は、
日本の文化も決してひけをとらない高い水準を持っていたのです。
薩摩スチューデントたちや長州ファイブのメンバーたちが
広い世界から受けたカルチャーショック、驚き、恐れ、どのくらいだったかと
想像を超えるものがあります。それにもまして彼らの好奇心の旺盛さは、
近代日本の建設に少しでも活かそうという燃える様な若い情熱を感じます。
また、このメンバーには、自分たちの国をその内側からではなく、
外側から客観的にとらえていくという共通の経験があることによって、
帰国してからのつながりができていったような気がします。
明治になってからの変化は、急激な革命的なものではなく
江戸時代が長く維持した鎖国政策の中で、外国に左右されず、
長く緩やかな日本型の合理化・近代化、じわりじわりと『明治維新』だったのです。
その近代化は、他国の影響を受けないだけに非常に自律的な形をしていました。
ですから、寺子屋への就学率も、義務教育という形ではなくても、
世界の中で非常に高い就学率を誇ることができたのでしょう。
その自律的な近代化は、現在まで続く日本型社会を形成してきました。
そして、その中でも色々な改革が何度か行われています。
その改革で、国家システムは合理化され、
国家主導のもとで、国民教育も大いに普及したと言われています。
すべての近代化が、明治維新によってはじまったというのは間違いで
規制緩和、地方分権、首都機能移転などの今日的な政治課題同様、
教育制度においても、
江戸時代に国民諸階層の教育制度が整備されており、
町や村の寺子屋など、国民的規模で整備されています。
この整備は、国家が庶民を教育の対象として捉えていたことは、
日本では、教育に対する国民の意識が非常に高かったことを示しています。
そして、この国民的規模での識字率の高さ、社会の近代化・均質化が、
明治以後活躍した人材の育成に貢献したのです。
江戸時代の教育は、非常に進んでおり、その中で、最終的には
が、
それまでには、発達段階に応じた教材として
往来物の利用をしてきました。
その様子を、外国の人からはどのように映っていたか、
いろいろな書物から知ることができます。
黒船に乗ってきたペリーは、
「ぺルリ提督日本遠征記」の中で、
本が安く大量に売られていることを驚き、
「教育は同帝国至る所に普及して居り」と、
教育の普及ぶりを評価しています。
プロイセンの画家ハイネは、
「ハイネ世界就航日本への旅」という書物の中で、
子どもたちがしっかりと男女ともに小学校に入って勉強し、
読み書きと祖国の歴史を教わっていると書いています。
同じことが、イギリス外交官の秘書ローレンス・オリファントも、
「エルギン卿遣日使節録」で、
「子供たちが男女を問わず、またすべての階層を通じて必ず初等学校に送られ、
そこで読み書きを学び、また自国の歴史に関するいくらかの知識を与えられる」
というように書いています。
また、ロシア海軍軍人ゴロウニンは、
「日本幽囚記」に、
「日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、
日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。
日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」
また、
「しかしこれらの学者は国民を作るものではない。
だから国民全体を採るならば、
日本人はヨーロッパの下層階級よりも
物事に関しすぐれた理解をもってゐるのである。」
と、非常に高い評価が記されています。
スイスの全権主任アンベールは、
「アンベール幕末日本図絵」上巻で、
「成年に達した男女とも、読み書き、数の勘定ができる」
と、驚いています。
イギリスの初代駐日公使オールコックは、
「大君の都」に、
「日本では教育はおそらくヨーロッパの大半の国々が自慢できる以上に、
よくゆきわたっている」
と述べています。
外国に行った日本人は、
いろいろな進んだ文明に驚いていますが、
日本に来た外国人たちは、実は
日本のすすんだ教育に驚いているのです。
この度、長崎市で、8月19日(木)~20日(金)
全日本私立幼稚園連合会九州地区教師研修大会が開催されました。
その折に平和祈念像にも行きましたが、如己堂も原爆資料館も5時まででした。
最後に、K先生と一緒に訪れた長崎歴史文化博物館にも、
長崎街道を通じて多数の外国人や文物の往来があり、
唯一の当時の様々な海外情報が出入りする場所としての「出島」や
龍馬や長崎奉行所に関する興味深い資料が多数展示してありました。
動く歩道で、高齢者や足の不自由な方も訪れやすくなっていました。
龍馬の足跡を尋ねる観光コースも、分かりやすく案内板が出ていましたが、
残念ながら時間の余裕が無く後ろ髪引かれる思いで帰宅しました。
テレビも、いよいよ薩長同盟~寺田屋~薩摩~大政奉還 終盤です。
江戸時代の教育の凄さを、龍馬を通しても、毎回確認させられます。
さて、自主的な創造的な意見を持った現代の救世主たる政治家は?
いのちをかけて働く人は?現れるのでしょうか?
子ども達の未来は?教育の大事さを考えさせられます。