平成24年3月4日(日)
福岡県青少年アンビシャス運動の10年目を検証する会議がありました。
そして本日午後1時~は、アクロス福岡の地下2階イベントホールで
まず、県知事小川洋さんのご挨拶があり、
特に勝れたアンビシャス運動参加団体に対して表彰式がありました。
その後、福岡教育大学名誉教授横山正幸先生のまとめの報告やアドバイス。
その後、午後2時半~4時は、パワーポイントでの様々な資料や
貴重な宇宙での写真と共に
宇宙飛行士山崎直子さんの講演をお聴きしました。
司会者の紹介で、左手から 颯爽とNASAのブルーのつなぎ姿でステージに登場!
『夢を叶える成功の秘訣』
と題して、日本人最後のスペースシャトル搭乗員として
厳しい訓練の日々を振り返り、大活躍した国際宇宙ステーションでのミッション
それを支えてきた夫の大地氏とのエピソード、
「夢はエンドレス」と、繰り返し熱く
チームワークや家族の絆や使命感について興味深いお話でした。
山崎 (旧姓角野(すみの)宇宙飛行士は、
1969年7月にアポロ11号が月面着陸した直後 1970年、千葉県松戸市で生まれました。
小学生のころに、プラネタリウムや惑星探査機(わくせいたんさき)ボイジャーが
送ってきた画像をみて、宇宙に興味を持ちはじめたのだそうです。
天体望遠鏡で、くっきりとした月のクレーターを見た時にはとても感動したそうです。
また、「宇宙戦艦ヤマト」のアニメにも影響(えいきょう)を受けたそうです。
しかし、そのころは宇宙へのあこがれはあるものの、
大きくなったら「 お花屋さん」にもあこがれていたり、また、
「学校の先生やディズニーランドのお姉さんになりたい。」
とも思う少女でした。
ある日、ラーメン屋さんで家族と食事をしている時、インド人に遭ったそうです。
物珍しくてジロジロ見てしまっていた。でも、そのインド人は全然怒らずに
「世界は広くて地球は大きいのよ。」と言ったので、外国人や海外に
興味を持つきっかけになったそうです。
それで、中学生の時には、アメリカ人と月に1度、文通していたのだそうです。
きっかけはチャレンジャー号の事故
ところが中学生のとき、スペースシャトル・チャレンジャー号の打上げを
テレビでみて、人間は宇宙に行けるんだ、私も行きたい、と強く思ったのでした。
そのチャレンジャーには、当時初めて民間人が宇宙飛行士として
ロケットの乗組員に選ばれたことでも注目されていました。
その女性は、クリスタ・マコーリーさん。中学の科学の教師だった。
マコーリーさんの娘(4歳)が 訓練のため久しく会っていない母に
テレビ中継を通して「がんばってー!」とメッセージを送るなど、何かと話題が多かった。
女性宇宙飛行士マコーリさんは学校の先生、ならば自分も行けると…
しかし、このときのチャレンジャー号は打上げ直後に爆発し、
乗っていた宇宙飛行士全員が亡くなってしまいました。
山崎さんは、この亡くなった宇宙飛行士マコーリさんの遺志を引きついで、
多くの子どもたちに宇宙のすばらしさを教えたいと思ったそうです。
でも、高校生になってからは、テニス部に所属し
まだ、どうすれば宇宙飛行士になれるのか具体的にわからなかったのでした。
そして、東大では、英語部に所属。
海外に行きたいと 両親に留学を相談し メリーランド大学に留学。
フロリダの地で、スペースシャトルの打ち上げを直接見て、
宇宙飛行士になりたいと強く決意を固めたのだそうです。
小学生の時の書道のおけいこも、テニスも、英会話も、
全てが、後日、宇宙飛行士になるためにとても役立ったのでした。
必死で、どうしたら宇宙飛行士になれるかを調べたら、
厳しい条件が書かれた応募規定があるとわかったのでした。
エンジニアとなって日本で仕事を始めたころ、
宇宙飛行士の募集があったので、
早速応募したのですが、初回はダメでした。
http://iss.jaxa.jp/astro/select2008/pdf/bosyuyoko.pdf
また、3年後に二度目の挑戦をして、654人の応募者で、
まず第一次は書類選考で200人に絞られ、第二次で50人が残り、
第三次試験で8人になり、その中には
古川さん、星出さんと一緒に、直子さんも残ったのでした。
JAXA宇宙飛行士の応募条件が示された中でも、ある項目には
『日本人の宇宙飛行士として相応しい教養等を身に着けていること』
というような項目があり、国際的に活躍する上で、
「和の心や日本人の素養」が要求され…それは、どこかでつながってくるのです。
2年半基礎訓練、次の2年半ミッションスペシャリストの訓練。
そして、米国ワイオミング州でのサバイバル野外リーダーシップ訓練。
ロシアでの、ー15℃での冬季サバイバル訓練。
次々と危機的な状況から生き延びようとする力を養う訓練の連続。
8~9割が、非常時のとっさの判断や素早い修理・正確な危機管理能力をつける訓練。
衣食住に関して、さまざまな視点から改善を試みて、
四畳半二階建ての狭い空間でしたが、
現在のような8分40秒で宇宙空間に…
野口さんは、6か月間も国際宇宙ステーションに滞在しさまざまな実験をしている。
限られた空間で、資源も限られていて、食事もゴミが出ないように工夫。
ゴミは大気圏突入時に燃えてしまうようにして処理しているのでした。
水も節水。風呂はないから、汗も拭きとるだけ。シャンプーも拭き取るタイプ。
なんと、自分の尿を、日本製の浄水機で漉して飲むのだそうです。
歯磨きした後の口を漱いだ水も、全部飲みこむのだそうですよ。
慣れたらなんともなくなるそうですが、最初はかなりいやだったみたい。
宇宙飛行士になってから
山崎さんは、東京大学や東大の大学院で航空や宇宙、 ロボットのことを勉強して、
宇宙開発事業(現在は宇宙航空研究開発機構)に就職(しゅうしょく)し、
国際宇宙ステーション開発の仕事をしました。
そして1999年2月に、古川聡さん、星出彰彦さんとともに
あこがれの宇宙飛行士候補者に選ばれました。
宇宙飛行士になるためのいろいろな訓練を受け、
2001年9月に正式な宇宙飛行士となりました。
それからは宇宙へ行く日に向けて、4088日かかり
毎日いろいろな過酷な訓練がありました。
趣味(しゅみ)は、琴(こと)、書道、スキューバダイビング、テニス、ジャズダンス
宇宙飛行士の方々↓
毛利衛 向井千秋 土井隆雄 若田光一 野口聡一 古川聡 星出彰彦
山崎直子
http://iss.jaxa.jp/astro/yamazaki/
山崎さんは、近著『何とかなるさ!』(サンマーク出版)で
「一度だけ挫折を感じたことがある」と告白。
「それは、夫が環境適応障害になったとき。」と述べている。
妻の訓練を支えるため、会社を辞めて
『主夫』を引き受け渡米した大地さんが一時、心の病に。
家庭崩壊の危機も訪れた。
子育てしながら飛行士を続けることの難しさ。
米航空宇宙局(NASA)の先輩女性飛行士に
「それは不可能ではなく、挑戦に値すること」
と励まされ、前を向き続けた。
大地さんは、シャトルに乗り込む妻に、宇宙へ持っていってほしいと
オメガの腕時計を託した。アポロ月面着陸の際、宇宙飛行士が着用していたモデル。
大地さんが貯金と初任給で買った宝物だ。
山崎さんは感謝の思いを込め、夫の願いを快諾した。
二人にはもうひとつ、帰還後に温めている計画があった。
宇宙飛行の夢を優先し、先延ばしにしてきた結婚式。
「滑走路でできたら最高ですね。」夫婦の共通の願いだった。
実父は陸上自衛官(防大3期)で第1空挺団の幹部自衛官
(元陸上自衛隊需品学校副校長・最終階級1等陸佐)であった。
宇宙飛行士を志したのは落下傘降下する父親の姿の影響を
受けたのでは…とする説もあるようです。
山崎さん(40)は、JAXA(=宇宙航空研究開発機構)を2011年8月31日付で退職した。
山崎さんは、会見で「しばらく育児に専念し、その後は宇宙を身近にしていく活動をしたい」
と話した。
「10月後半、第2子を出産予定。しばらくは一人の人間として、
家族と向き合っていきたい。」
山崎さんは01年9月に宇宙飛行士となり、その後、娘を出産し、
母親として宇宙を目指した。去年4月、スペースシャトル「ディスカバリー」に搭乗し、
国際宇宙ステーション(=ISS)に長期滞在。
宇宙飛行士・野口聡一さんと、史上初めて日本人同士で共同作業を行った。
「もともと学校の先生に憧れていたので、今後は
宇宙と教育を軸にした活動ができればと思っています。」
山崎さんは退職後、しばらくは育児に専念し、その後、フリーの立場で、
宇宙を身近にしていく活動をしていきたいと抱負を語っていた。
最近、ある日、娘さんから 聞かれたそうです。
娘「私は大きくなったら…になりたいけど、ママは大きくなったら何になるの?」
母「すでに、もう宇宙飛行士になっているよ。」と答えかかったが、そうではない。
母「夢をつなぐ人になるンだ!『夢はエンドレス』だから。」
アンビシャスな大きな夢を持つ人になって…という強力なメッセージが
会場に来ていた子どもたちにもきっと伝わったことでしょう。
子どもたちにもワクワクするとても分かりやすいお話で、
あっという間に時間が経ってしまいました。 宇宙空間に浮かぶ月や地球の写真も
スペースシャトルから見た富士山の写真も素敵でした。
もっともっと、詳しくお話をお聴きしたかった。
「目に見えないところが、一番大事。」と、最後におっしゃった。
山崎さんは、スラリとして清楚で、ハキハキ話し、
聡明さに輝き、明るい魅力的な女性でした。
園の子どもたちも、志高く、アンビシャスな大きな夢を持ち、
その夢の実現の為に地道にコツコツ努力する人になって
地球規模、いや宇宙規模の大活躍をしてもらいたいものです。