平成21年5月2日(土)
今、年長組では、新学期に入ってから、「せっせっせぇー」という言葉で始まる
向き合って2人で遊ぶリズミカルな歌♪「なつもちかづくはちじゅうはちや…」
がよくきこえています。バスを待つ間も♪「のにもやまにもわかばがしげる…」など、
楽しそうです。
八十八夜とは雑節の一つで、立春から数えて88日目の日を言います。
今年は、本日5月2日です。4月末に、青森で雪が降ったそうですが、
八十八夜は夏に近づく半面、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」
などと言われるように、遅霜が発生する時期です。
霜のなくなる安定した気候の訪れる時期であると同時に、
まだまだ霜も降りることがあるという春から夏へ移る境目の日として
重要視されました。ですから、気をつけなさいというために入れられているのです。
また、「八十八」という字を組み合わせると「米」という字になることから、
この日は農家の人にとっては特別重要な日とされてきました。
東北や山間村落では豊作を願うため、様々な占いを行います。
現在でも禁忌が守られているところもあるようです。
八十八夜ころから「あれに見えるは 茶摘みじゃないか」
という歌の題名が「茶摘み」というように、新茶の摘み取りが行われます。
しかし、まだまだ霜が降りるときがあり、昔は藁をひき、霜を防いだようです。
が、今は、扇風機で風を送ったり、黒い網で覆ったりしています。
また、ちょうど八十八夜の日に摘んだ茶は上等なものとされ、
この日にお茶を飲むと長生きするとも言われ、珍重されてきました。
そうはいっても、日本列島北から南まで長いわけですから、
地域によって、茶摘みの時期は異なります。
さて、中国の歴史の中で、お茶が登場するのは、
「神農(しんのう、農業・漢方の祖)」の逸話からとなっています。
神農は、野草とお茶の葉を食べていたと伝えられています。
この伝説から、お茶の発見は紀元前2700年ごろ、神農時代と考えられます。
漢の時代(紀元前1世紀)の医学書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』には、
「茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目」の記述があります。
すでにこのころ、お茶はよく知られていたようです。
また、四川の王褒(おうほう)が記した、主人と奴隷との間で交される契約文
『僮約(どうやく)』の中に、「武陽で茶を買う」とあります。
これによると、当時すでに飲茶の習慣があり、
売買が行われていたことがうかがい知れます。
この『僮約』が、現段階では茶具に関する最初の文献とされています。
このころからお茶は、主に上流階級に嗜好品として愛飲されるようになります。
唐の時代(760年ころ)、陸羽(りくう)の記した『茶経』は
「茶者、南方之嘉木也(茶は南方の嘉木なり)」で始まっていることから、
初期のお茶は南方で始まったと考えるのが定説です。
漢の時代(紀元前1世紀)、お茶は単独ではなく、
みかんの皮、ねぎ、しょうがなどと混ぜて、お吸い物(あつもの)として
飲まれていたようです。
三国時代になると、議論の潤滑油として
お茶を酒にみたてて飲む習慣(以茶代酒)が始まりました。
そののち、客人をもてなすなど、次第に社交の場の飲みもの
として用いられるようになりました。
唐の時代(618~907年)になると、お茶を飲む習慣は全国に広がります。
このころのお茶は、茶葉を粉々にして固形にし、
乾燥させた緊圧茶(固形茶)が主流でした。
茶葉はすでに全国で栽培されるようになっていましたが、
消費地への運搬には固形茶が便利だったと思われます。
このころ、固形の緊圧茶を「餅茶(びんちゃ)」と呼んでいました。
世界でもっとも古いお茶の本といわれている『茶経(ちゃきょう)』は、
唐の時代に陸羽(りくう)によって記されたものです。
『茶経』は、3巻10章から成り、お茶の起源、歴史から製造具、茶道具、
いれ方、飲み方、産地、心得にまで及びます。
固形茶を焼いて削り出すという方法から、茶葉本来の風味を引き出す
固形茶を挽いて、粉末を煮出す方法が考案されました。
宋の時代になると、お茶は貴族から役人や文人など富裕な市民のものへと
変遷していき、お茶を飲みながら詩を吟じ、書をたしなみ、絵を描き、
哲学を論じたとされています。
時に遊びとして「闘茶」と称してお茶の良し悪しを鑑定し、
茶器の良否を競うこともありました。
飲み方も、緊圧茶の茶葉をすった粉末を茶碗に入れてお湯とかき混ぜるという、
日本の抹茶のような飲み方が行われていました。
このころには、日本の茶道と同じような
竹製の「茶筅(ちゃせん)」が使われています。
また「餅茶」の呼び方が変わって「団茶」と呼ばれるようになりました。
明の時代になると、お茶は大変動の時代を迎え、
貴族と富裕市民に限られていた喫茶の習慣が、一般市民へと普及していきました。
この時代、団茶はお茶本来のおいしさを損なっており、
また、製造に手間がかかるということで、
初代皇帝、洪武帝(朱元璋=しゅげんしょう)は団茶禁止令を出しています。
この後「散茶」が本格的に生産されるようになり、茶葉の主流が急変しました。
残った団茶を飲む方法として、ジャスミン花の香りなどを着香させた
「花茶」が登場するのもこの時代です。
この時期、浙江省の西湖龍井茶(ろんじんちゃ)や安徽(あんき)省の
黄山毛峰(こうざんもうほう)などの緑茶が知られるようになりました。
また明代の末期には、福建省の武夷茶が上流階級に珍重され、
この稀少価値の高い優良茶を商人が大金をもって求めました。
なお、?南烏龍などの「?(びん)」とは、福建省の略称です。
清の時代になると、中国茶葉や茶具はほぼ完成し、茶文化は最盛期を迎えます。
福建省では青茶(烏龍茶)が開発され、「花茶」とともに愛飲されるようになりました。
また、青茶ならではのすばらしい香りを追求する過程で、
工夫茶(くんふうちゃ)の手法が開発され、工夫茶とは、時間と手間をかけて
ゆっくりと丁寧にいれるお茶を意味します。
お茶の魅力を引き出す茶器を使っていれ、
まず聞香杯(もんこうはい)で「香り」を楽しみ、次に茶杯で「味」を楽しみます。
中国茶が香りを大切にし、「花茶」が大いに普及しているのは、
このころからの習慣といえるでしょう。
清が崩壊すると、中国は列国の侵略を受けますが、
茶壷製作や茶葉の栽培はより発展しました。
中華人民共和国の建国(1951年)後、中国茶は順調に発展を続けていましたが、
毛沢東の文化大革命(1966~1976年)により、お茶は贅沢の象徴として弾圧され、
栽培は制限されました。
代わって台湾や香港で茶芸とお茶の栽培がより発展し、
現在では台湾茶は世界的に有名になりました。
日本では、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、
最澄(さいちょう)、空海(くうかい)、永忠(えいちゅう)などの留学僧が、
唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが、わが国のお茶の始まりとされています。
平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が
近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。
これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。
このころのお茶は非常に貴重で、
僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。
鎌倉初期(1191年)に栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する際、
日本にお茶を持ち帰りました。
栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した
『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。
これは、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれています。
栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に本書を献上したと
『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記してあります。
お茶の栽培
もともと日本の山間部の奥地に自生していた「山茶(さんちゃ)」を
日本人は飲んでいたという説もあるようですが、
お茶の栽培は栄西が、中国より持ち帰った種子を
佐賀県脊振山(せぶりさん)に植えたのが始まりだといわれています。
その後、京都の明恵上人(みょうえじょうにん)が栄西より種子を譲り受け、
京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、
全国に広めていきました。
当時のお茶は、蒸した茶葉を揉まずに乾燥させたもの(碾茶=てんちゃ)で、
社交の道具として武士階級にも普及しました。
南北朝時代の『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』
(虎関師錬=こかんしれん 著)には、
当時の名茶産地が記されています。
京都各地および大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵では、
寺院、寺領の茶園を中心に茶栽培が行われるようになりました。
さらに、お茶栽培の北限といわれる茨城の奥久慈のお茶も
14世紀に始まったといわれています。
茶道の完成
栄西の『喫茶養生記』は、わが国の喫茶文化普及に多大な影響を及ぼしました。
鎌倉時代の末期には南宋の「闘茶」が武士階級に浸透、茶寄合いなどが
盛んになり、茶歌舞伎などの抹茶法(茶の湯)が急速に広まりました。
そして、15世紀後半から16世紀後半には、
村田珠光(むらたしゅこう)、武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休らによって
新しいお茶の礼式がつくられ「侘茶(わびちゃ)」として大成、武士階級に流行し、
現在の「茶道」として完成されていきます。
お茶の製法と流通の改革
各地にさまざまなお茶の製法がありましたが、蒸製のてん茶を作っていた京都では、
宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)が1738年に宇治の煎茶の優品を
つくり、伸煎茶の祖といわれています。
また、山本嘉兵衛が1835年に玉露の製法を発明し、
「宇治製法」の優れた技術が日本各地に広まりました。
近世になると流通機構がより発達し、茶町と呼ばれる流通の拠点で、
茶株仲間(江戸の消費地問屋)や、茶仲間(地方都市の産地問屋、荷主)
と呼ばれる人々が許可制でお茶の取引を行うようになりました。
お茶の輸出
オランダの東インド会社が、1610年に長崎の平戸からヨーロッパへ向けて
日本茶(嬉野などの釜炒り茶)を輸出したのが、わが国で最初のお茶の輸出です。
江戸幕府は、1858年にアメリカと日米修好通商条約を結び、
次いでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました。
1859年に長崎・横浜・函館の開港を機に生糸と並ぶ重要な輸出品として、
お茶181トンが輸出されました。
また同年には、長崎の大浦慶(おおうらけい)という女性の貿易商によって
6トンがイギリスに輸出され、その利益が坂本龍馬や大隈重信の活動資金になった
と言われていています。
1868年の明治維新後も、お茶の輸出量は政府の援助により
アメリカを中心に増加し、それに伴い、人気のあった「宇治製法」を活かした
蒸し茶製法が全国に広まっていきました。
近代のお茶産業の成立
江戸末期までは、お茶は山間部などで生産されていましたが、
明治初期の士族授産事業などを契機に、牧之原台地などの平坦な土地に
集団茶園が形成されるようになります。
しかし、茶園開拓をした士族たちは次第に離散していき、代わりに
農民が茶園を継承し始めます。これは、お茶の輸出価格の下落や、
茶園造成に莫大な費用がかかったことが原因だったようです。
集団茶園の形成は、単に茶園の形成だけにとどまらず、
流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの育成、各種機械の発明など、
茶業を中心とした関連産業の成立に影響を与えました。
高林謙三による茶葉揉葉機の発明をはじめ、機械化が急速に進んでいくのも
この時期であり、省力化とともに品質の安定化に寄与しました。
さらに近年では、センサーとコンピューター制御により、
未熟錬者でもお茶がつくれる時代になってきています。
現在では、手揉みは文化保存・観光用が主となっています。
現代のお茶
現代の日本人の生活は大きく変わりました。
一般の家庭生活の中にある「緑茶だけでは不満足」という感覚を補完しようと、
油っこい食事に最適で、しかも何杯でも飲めるお茶として、烏龍茶が
注目され始めます。1979年には、伊藤園が中国の烏龍茶を日本人向けに
アレンジして製品化し、烏龍茶の大ブームを起こしました。
そして、現代のスピード感ある生活に適合するよう、
従来では考えられなかったお茶飲料を開発し、1981年に缶入り烏龍茶が、
1985年に缶入り緑茶と缶入り紅茶が発売されました。
その後、ペットボトルや紙容器入りも製品化し、一大ヒットとなります。
今では、飲料業界すべてがこれに追随し、お茶飲料という
巨大なマーケットが形成されるほどになりました。
時代にあったお茶、時代にあった飲料方法はいつの時代にも必要なことです。
さらに、お茶の有効成分の活用によるカテキン染色技術、茶配合ボード、
さらにサプリメント製品など、飲料に限定しないお茶の利用が行われています。
最初にお茶の種を植えた脊振山のある佐賀県では、「嬉野茶」として有名で、
550年の歴史があります。お茶は、美容と健康に効果があるといわれ、
茶葉が一枚一枚丸いため、玉緑茶(グリ茶)と呼ばれています。
また、お茶の渋みは、ポリフェノールの一種であるカテキンが主成分。
このカテキンの驚くべき健康性が近年クローズアップされています。
カテキンは、昔からタンニンと呼ばれてきたのです。
カテキンの語源は、インド産のアカシア・カテキュー
(マメ科アカシア属の低木)の樹液から採れる“カテキュー”に由来しています。
お茶のカテキンは、1929年、理化学研究所の辻村博士らによって初めて存在が
確認されました。茶葉中に形の違う4種類のカテキンが存在しています。
カテキンは非常に酸化されやすい物質です。ですが緑茶は、荒茶製造工程中で酸化酵素の働きが抑えられるため、ほとんど酸化しません。
しかし、烏龍茶や紅茶では、酸化酵素の作用で酸化重合物が作られます。すると、本来は水溶液中では無色のカテキンが、オレンジから赤色となります。烏龍茶や紅茶が赤っぽい色をしているのは、このためです。
カテキンは、一番茶で約12~14%、二番茶で約14~15%と増加します。
また、成熟した葉(3~4枚目)よりも若い芽(1~2枚目)に多く含まれています。
玉露のように光が当たらないよう被覆栽培されるものは、カテキンの生成が抑えられ、煎茶よりも少なくなります。
風邪やインフルエンザの予防にもお茶をどうぞ!
虫歯や、癌の予防にもお茶が大変有効だそうです。