緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

子どもたちの憧れの的 メジャーリーガー イチロー 34歳

2008年02月17日 16時54分30秒 | 健康な心身・安全対策・sports・医学

平成20年2月17日(日)朝の内時々が舞っていた。

 子ども達の夢、憧れの的の 大リーガー イチロー、

午後3時~ NHKテレビで

http://www.nhk.or.jp/professional/

プロフェッショナル 仕事の流儀 イチロー』の放送があった。

2008年1月2日にオンエアされ、好評を博した「イチロースペシャル」。

その中から放送時間の都合でカットされた珠玉の未公開トークを公開。

真剣勝負の マウンドでの引き締まった表情のイチロー

しびれるクールさです。まさに仕事人!

大記録を打ち立てた、イチローのサイン入りボールをひょんなきっかけで、

手に入れて以来、益々、ファンになってしまったのですが…

隠された多彩な才能を秘めた 大リーガーのイチロー

今年、お正月1月2日に放映された特別プログラムを見損じてしまい、

再放送を待っていました。

「一弓!」

愛犬(柴犬)を呼ぶイチロー

自宅リビングや夫人と散歩中の

寛ぎはしゃいでいるリラックスした表情。

オンとオフ、

全く異なるイチローの二つの顔

球場近くのレストランで、いつもレジの直ぐ横の席にすわるらしい。

来店者が、必ず出入りするときに通る場所。

そこに座っているのが好きらしい。

皆は、意外がる。

大リーガーの近寄りがたいクールなイメージと違い、非常に気さく。

               

「野球のユニフォームを着ると、違う自分に変身できる。」

だから、一旦ユニフォームを着ると、野球に集中する。

            

茂木さんは、

脳科学的に言うと 作り笑いは…すぐにわかる。」

と、説明し、

イチローは、茂木さんの目を鋭く観察し、すかさず、意見を述べ切り込む。

                   

イチローは、食べ物の好き嫌いが、子どもの頃から激しかったらしい。

今は、カレーとラーメンが大好きなのだそうで、

毎日、奥様手作りのカレーを食べる。

健康にこだわって バランスを考えて食べるのではなく、

そのとき食べたいと感じた好きなものを美味しく食べる主義。

練習も同じ。必要と感じた練習をとことん自分の感じたままにする。

他のやり方も一応試してみる。アドバイスも一旦受け入れてみるが、

結局 最終的には、

自分のやりたいやり方の練習方法になっている。

             

「強いものに歯向かう性質を持っている。」

                    

自分のやり方を貫くには、自己評価が誰の評価よりも厳しくあらねばならない。

自分の可能性を開くには、自分にきびしく.

自分に厳しくないと自分を貫けない。

               

「いつも弓子(夫人)と一緒だから、弓子の好きなDVDを遠征先にも持っていく。」

やはり、原動力となって支えているのは、弓子夫人。

弓子夫人が良いといったものは、信頼し安心。

保証済みの安心・感動を持参し、試合の緊張をほぐしているのでしょう。

               

イチローの道具へのこだわり。

非常に野球道具を大事にする人。

独特の細いバットには、秘密がある。

1992年、 岐阜県のバット工場での このバットとの劇的な出会いがあった。

「自分の感覚より強いものはない。」

「これ(このバット)だったら成績の悪いのは、俺のせいだ。」

と思える、身体としての手の延長の神経が通っているイメージがあるバット。 

打球ゾーンの狭い僅かなその部分まで、きっちり神経が行き届いている。

だから、他人のバットには触らない。

さわると神経が断ち切られるようないやな感覚がのこるから。

いつも誰よりも早く球場に、

午後2時にロッカールームに入って着替え、

試合開始前6時55分くらいまでいる部屋。

そして、トレーニングルームでの、ウオームアップマシーン。

これは、相当気持ちよいらしい。イチローは楽々だったが

茂木さんもチャレンジしたが、かなり難しそう。

 

普段は、絶対に進入禁止の場所の紹介。

             

それにしても、イチローの築き、残してきた素晴らしい実績の数々。

公式ホームページなどをご覧ください。(ここには紹介するスペース不足)

とにかく毎年記録だらけ… 最近では、 

2006年WBC日本優勝の貢献

2007年ランニングホームランで優勝。

           

ずば抜けた結果を出し、偉業が燦然とかがやく。

そもそも 仰木彬監督との出会い。

個性を伸ばす主義、振り子打法も否定せずに 

そのまましばらく見守り、放っておく。

ある日、負けた試合の帰り道、

バスの中で、チームは負けて、打ちひしがれたムードであった。

だけど監督は、イチローには、

「お前は二塁打打ったんだから喜べ!」

そう監督に言われ

「スゲーこのおっさん!」

とリスペクトが始まった。

この仰木監督との出会いが無かったら

イチローの今日は無いかもしれない。

 仰木監督は、福岡県中間市のご出身でした。

そして、福岡県立東筑高等学校の大先輩です。

私も、数年前の同窓会総会の折に、花束贈呈で

間近にお目にかかったことがあります。

独特のオーラが漂っていました。

それが、最初で 最後でした。

さて、

記録を塗り替えるたびに襲い来るプレッシャー。

イチローのプレッシャーの対処方法は?

プレッシャーは確かにものすごくかかり、強く感じるらしい。

170安打になった時、2006年までは、重圧がかかると逃げたいと思った。

重圧との孤独な戦い。だが、2007年はプレッシャーを楽しんでいる?

セーフィコフィールド

愛されれば愛されるほど圧力はかかる。

期待に応えたい。重圧を受け入れる。

           

今年度、敗北が決まったときの涙…その理由は?

三打席目でダメだったら…   悔しい 悔し涙?

以前は自分との戦いだった。自分との戦いは楽でいい。

他人との戦い。まず他人に勝つ。勝たねば、試合に出られない。

だが、自分に勝つこと。それで黙々と練習に余念が無い。

そして、その上で、敵とも神経を集中して戦う。

 

「殆どの人はゴミだめの中、だが、ごく一部の人は星をみている。」

                

彼は、次に進むために、必ず「満足」する。

「満足」すると、次の星がきっと見えてくる。

(目標設定がうまいっていうことでしょうね。)

                

引退するときには、

「50歳で4割を打って辞めたい。」

「お腹が出たら許せない。」とも言った。

 我が夫に、「腹が出たら引退…」と話すと、

 急いでお腹をひっこめて苦笑い。

 そして、トンチンカンにも、自分のことは棚に上げて、

「気になるんだったら、君も一生懸命 畑仕事に精出せば、

 もっとスリムでスマートでスッキリ体形になるよ。…」

   そして、狸寝入り…?

             

「2007年に根本のものを掴んだ。」と言う。

その「2007年もの」で、2008年は挑戦したい。

彼の野球は、より芸術的な「作品」というものに近づいた。

今年は、「不動のものを掴んだ証を示したい。」と、

力強いお言葉。 

圧倒されるようなイチローの研ぎ澄まされた感性。

一言ひとことに、深みがあり、まるで求道者。

インタビューする茂木健一郎さんも、真剣そのもの。

今日は、一段と聴き応え、見応えがありました。

一期一会の出会いでした。

        

幼稚園の先生も、園児一人ひとりとの

一期一会の真剣勝負の出会いです。

日々、新たな喜びに満ちた、幸せ気分に浸れる

ゆたかな心をはぐくみながら 大きく成長する日々に…

と、祈りをこめて見守っています。

         

園の玄関にも、

先週から、某T氏より寄贈の 昨年優勝した

中日ドラゴンズの投手のサイン入り写真を飾っています。

 彼の名は、中田賢一 (なかたけんいち)投手満25歳。

彼は、八幡西区に実家があり、ご両親が在住。

永犬丸小、沖田中、福岡県立八幡高校出身 

北九州大学卒の若手の注目の投手です。

来園時には、どうぞ、ごらんください。

ソフトバンクホークスのオーナーの当園卒園生 孫正義さん

今回は、ソフトバンクの話題ではなくて ごめんなさい。 

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千住真理子バイオリンコンサート

2008年02月16日 21時05分01秒 | 音楽関係・コンサート・LP・CD・DVD

平成20年2月16日(土)

『早春賦』の歌のとおり、「春は名のみ」の日々が続き

最低気温が0℃、最高気温5~6℃でしんしんと底冷えです。

明日も、「晴れのち曇り時々雪」の予報が出ている。

午前中は、「かがやき研究チーム」の資料整理や、

方向性の確認など、集中して捗りました。

さて、

午後3時から 響ホールの

千住真理子バイオリン・リサイタル に誘われました。

千住三兄弟の末っ子、2歳半からバイオリンを始め、

全日本学生音楽コンクール小学生の部全国1位。

NHK交響楽団と共演し、12歳でデビュー。

日本音楽コンクールに最年少15歳で優勝、レウカディア賞受賞。

パガニーニ国際コンクールに最年少で入賞。

慶応義塾大学卒業後、指揮者故ジュゼッペ・シノーポリに認められ、

1987年ロンドン、1988年ローマデビュー。

国内外での活躍はもちろん、文化大使派遣演奏会として、

ブラジル、チリ、ウルグアイ等で演奏会を行う。

また、チャリティーコンサート等、社会活動にも関心を寄せている。

1993年文化庁「芸術作品賞」、1994年度村松賞、

1995年モービル音楽賞奨励賞各賞受賞。

1999年2月、ニューヨーク・カーネギーホールのウェイル・リサイタルホールにて、

ソロ・リサイタルを開き、大成功を収める。

2000年デビュー25周年記念CDを発売。

著書『聞いて、ヴァイオリンの詩』(時事通信社)を発売。

NHK朝の連続テレビ小説『ほんまもん』の音楽を作曲家で兄千住明氏が担当。

千住真理子が、演奏し、全国で注目を浴びた。

2002年秋、ストラディヴァリウス『デュランティ』との運命的な出会いを果たし、

話題となる。

2003年8月に東芝EMIより移籍第一弾となるCD『カンタービレ』を出し、

高い評価と売れ行きを記録。

2005年は、デビュー30周年を迎え、記念アルバム『愛のコンチェルト』を発売。

2007年1月には新アルバム『ドルチェ』をリリースし、

11月にも名曲を集めたアルバムをリリース。

2008年1月には、全国でプラハ交響楽団と共演、

6月にはドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団とのツアーを予定。

  <本日のプログラム>


G線上のアリアJ.S.バッハ

カノンパッヘルベル

ラルゴヘンデル

アヴェ・マリア(バッハ~グノー

わが母の教えたまいし歌ドヴォルザーク

エストレリータ~小さき星に~ポンセ

チャルダッシュモンティ

     休憩

夜想曲第2番ショパン

愛の喜びクライスラー

愛の悲しみ(クライスラー)

夜想曲第20番 遺作 (ショパン)

タイスの瞑想曲マスネ

風林火山~大河流々 大河ドラマ「風林火山」紀行テーマ曲(千住明

チゴイネルワイゼンサラサーテ

  *アンコール*

愛の挨拶(エルガー)

月の光(ドビュッシー)

ピアニストは、山洞智さんでした。

4歳からピアノを14歳から作曲を学んだ。

1993年東京藝術大学大学院修了。1990年大学より安宅賞受賞。

1991年第60回日本音楽コンクール作曲部門首位、併せて安田賞受賞。

その後、フランス政府給費学生として渡仏。1997年8月に帰国。

1998年8月には、国際交流基金派遣で、

南米ブラジル、アルゼンチンの各地まで演奏旅行に出かける。

現在、東京芸大、国立音大、東京音大講師。

 

ヴァイオリンストラディヴァリウスでした。

300年前に北イタリアの小都市クレモナで制作されました。

工芸品のような趣を持ち、貴重な名器とも呼ばれ、

数少ない現存するストラディヴァリウスの一つ、『デュランティ』と名づけられ

特別な存在です。

音楽は、最近、『音楽療法』とも言われて、心の浄化や、和み、癒しにも

役立てられていて、身体全体を

目には見えない音の振動や反響が、包み込み

リラックスし、心の安定や平安を得られるのです。

彼女のPureな魂にふれました。

いつも思うが、人柄のよさが、そのまま顕れてくる。、

それで、

園のランチルーム給食の時にも、

クラッシックの名曲をBGMで 流しています。

さて、次は、何組? 楽しみです。

 

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「建国記念の日」に芦屋へ

2008年02月11日 20時00分40秒 | 近頃思うこと・政治・経済・時事問題

平成20年2月11日(火)

久しぶりに、明るい朝。

本日は、「建国記念の日」です。

建国記念の日は、

 昭和41年4月6日の法86によって追加された国民の祝日です。

 当時、これは戦前の「紀元節」を復活させようとしているのではないか

との 社会党の強烈な反対により

国会でこの祝日の日付を決めることができませんでした。

  昔は確かに「紀元節」と呼ばれ、記紀によると

紀元前660年(初代天皇)神武天皇が、

即位したとされる日です。

年間15回ある国民の祝日は、

建国記念の日以外は 祝日法に日付を定めている。

建国記念の日だけは政令で日付を定めて

「建国記念の日は政令で定める日とし、建国をしのび、国を愛する心を養う」

となっている。

又、「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」としたのは

建国された日と関係なく、単に建国されたということを記念する日である

という考えによる。

 昔は、もれなくどの家の門先にも、日の丸の旗を掲げていた国民の祝日。

今日は、晴天にも関わらず、

国旗を掲揚している家は 近隣でも街中でも殆ど見かけなかった。

さて、私は、日本で生まれ育ち、

日本国民の一人として、自分の祖国

日本が形成された日を祝うのは、素直に 良いことだと考える。

                                  

月曜日の朝、にも関わらず、車の交通量が少なくて、

目的地の芦屋船頭町某所には、意外に早くたどり着いた。

同級生が6人 待っていた。

打ち合わせや様々な話し合いが済んで、帰り道には、『芦屋釜の里』へ!

芦屋釜は、

鎌倉時代末頃から制作が始まり、室町時代には、

茶の湯釜の名器として一世を風靡した。

その歴史は、江戸時代初期に終わったと言われていますが、

芸術性、技術力に対する評価は今なお高く、

国の重要文化財に指定されている茶の湯釜9個の内に8個までを

芦屋釜が占めています。

 

              

 福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿1558-3

(TEL093-223-5881)

芦屋釜の里』は、公園風の素晴らしい憩いの場所。

 http://www.ashiyamachi-fko.ed.jp/kama_sato/kamanosato.html

                          

3月28日(金)・29日(土)は、ここで『春の宵 さくらコンサート』があります。

尺八:山崎箜山(やまさき こうざん)

音楽的領域:尺八で平成18年度北九州市市民文化賞を受賞。.

昭和 35 年 3 月 7 日生まれ(46歳) 島根県出身 小倉南区在住.

 都山流尺八を父である二世山崎北山、二世池田静山に師事。

 古典本曲を磯玄定(博. 多一朝軒)に師事。

 津軽三味線の吉田兄弟の尺八を担当し全国ツアーや海外公演をする。

文部科学大臣賞など多数受賞。 都山流大師範。  

ハープ:荒木真子(あらき しんこ)

福岡女学院高校音楽科、 国立音楽大学卒業後、1983年九州交響楽団入団。

オーケストラハープ奏者のかたわら,ソロ,室内楽での演奏活動,

また北九州市立響ホール主催のハープ研究会などで後進の指導にもあたっている.

第一部18:30~19:10 第2部20:00~20:40

曲目:『さくらさくら』『アヴェマリア』『朧月夜』『ハロー・グッドバイ』他

開園:17:30~21:00

会場:芦屋釜の里 大茶室

受付開始:2月20日(水)より 

定員:各80名 定員になり次第締め切り

対象:小学生以上

同時開催:歴史の里企画展9:00~21:00

       温故知新ーなつかしい芦屋の風景ー

予約問い合わせ:TEL093-223-5881

             

芦屋釜の里に訪れて、改めて日本の良さをしみじみと感じ、

日本人として生まれたことを嬉しく思い、お抹茶を味わいながら幸せでした。

概して、日本には

建国に関しては、諸外国のような行事や、祝祭の習慣があまりなくて

低調な気がする。

これで良いのでしょうか?

子ども達が、日本人であることに誇りを持てなくて、

自尊感情の欠如が顕著に見られ、学習意欲や向上心も

諸外国とは比べ物にならないほど低下し、問題視されています。

それに、良い意味での郷土愛やお国自慢、平和な時代の

愛国心」も、いまや風前の灯になってきていないか と、

危惧せざるを得ないような場面に時々直面するのです。

               

「憲法」や「教育基本法」の中味を変えようという動きがある。

もしかしたら、

「家庭教育基本法」も必要な時代になりつつあるのかもしれない。
 

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福岡県幼児画展表彰式

2008年02月10日 21時11分55秒 | 美術・絵画・陶芸・芸術

平成20年2月10日(日)

三連休の中日ですが、お元気にお過ごしでしょうか?

八幡西区の近隣小中学校では、インフルエンザ罹患者が先月から

増えていたのだそうですが、この連休で治まると良いですね。

幼稚園では、殆どお休みしている子がいません。

インフルエンザは、皆無。

子どもは、風の子!

外遊びも、盛んです。

寒さに負けずに、張り切ってボールを追い走り回っている子、

縄跳びをしている子、鬼ごっこや、円形ドッチボール、

活発に遊びが展開している日々でした。

さて、朗報です。

先日、西日本新聞紙上で報道されましたが、

『福岡県幼児画展』で、素晴らしい審査の結果が出ました。

本日、午後、『あじびホール』で特別賞の授賞式が有りました。

『あじびホール』は、福岡アジア美術館の中にあります。

福岡市の地下鉄「中州川端駅」の上に『福岡アジア美術館』があります。

エレベーターで7階の美術館まで、上がれます。

今回の表彰式の会場は、『あじびホール』なので、

『あじびホール』のある8階へは、

エスカレーターでもう一階上がり、一番奥の部屋なのです。

その手前には、右手にガラス張りの展示ホールがあります。

ここに、入選以上の受賞作品の展示があっていました。

           

朝早く娘の運転する車で家を出発したので渋滞もなく、

福岡市西新で用件を済ませてから、地下鉄で「中洲川端」へ!

寒い中、『福岡アジア美術館』へ向かっている親子連れの方々

と、一緒になりました。

作品の展示会場には9時半少し前に到着しましたが、

大勢の親子が、作品を一枚一枚熱心に鑑賞したり、

その絵の前で写真を撮ったり、

落ち着いた雰囲気の中で喜びに溢れていました。

「入選」の場合は、「授賞式」がありませんので、

受付で、係の方々から賞状を受けとっている子もいました。

照れくさそうに受けとる子、胸を張って受けとる子…

付き添いの保護者や祖父母も笑顔で嬉しそう。

  本日 特別賞18人受賞のうち

 本園からの特別賞は、以下の4人も受賞でした。

福岡県教育委員会賞 

  さくら5組 篠崎 真哉(しのざき まや)

西日本新聞社賞    

  れんげ3組 岡村 亜弥(おかむら あや)

西日本新聞社賞    

  さくら5組 空閑 竜斗(くが りゅうと)

松本文化芸術振興財団賞 

  ばら1組 入山 諒(いりやま りょう)

授賞式の間中、緊張した表情で姿勢良く背中をピンと伸ばしてきちんと座り、

名前を呼ばれたら元気に「ハイ!」とお返事して、壇上へ進みました。

表彰を受けてからも、全員、式が終わる最後まで

良い態度で頑張り、他の人が賞状を貰うときには

沢山褒めて 拍手を送っていました。

特に、年少組のりょうくんは、よくがんばりました。

他に、

特選 吉田祥悟 福田航太 古市将汰 水口瑠奈 廣田渚 

    有尾悠希 徳間将汰 桑原良輔 是枝孝洋 新家星音 

    柴村真佑 鳥羽将吾 中野真緒 中島優介 入山優

    中嶋亮芽

 

入選 濱田征治 穴井京香 浜辺博仁 

    内田龍成 水野菜月 赤司ひかる

 

審査員の先生方のお話では「特選」も「入選」も大きな差はないそうです。

             

これからも、絵を描くことがもっともっと好きになって、

のびのびと楽しく 色々な機会をとらえて絵画表現して、

色々なものや人を描いてください。

よく見て、感じたままに、色使いも美しく 

思いっきり描くと 心の中もスッキリしてきて

きっと、もっともっと素敵な絵が誕生します。

そして、「集中力」も、「考える力」も、

勿論 「感性」も高まります。

夢のある表現、ユニークな個性的な作品が

たくさん誕生するよう期待しています。

          

本日は、殆ど全員の教師も参加し、講評をお聞きし、

福岡県下の幼稚園・保育園の力作が、6000点近く集まったなかで、

子どもの「描きたい」気持ちが溢れている意欲的な、

そして、心の表現がストレートに出てくるような、好ましい作品を

直接見ながら、今後のために学ばせて頂きました。

            

「厚化粧の作品にならないように!」と、

表彰式の後のセミナーで

選者の先生からご注意がありました。

              

「幼児画は、先生と子どもの合作」と、

審査員の青木先生や宮崎先生もおっしゃいます。

指導者の在り方次第で、子どもの取り組んでいる

絵が、イキイキ生きてきたり 死んでしまったりします。

先生の助言が行き過ぎると「厚化粧の作品」

になってしまうのです。

だから、あくまでも、子どもが主体で、のびのび楽しみながら

子どもの気持ちが解放される作品を目指して、

助言し、より好ましい心の成長に繋がるように励ますことが

大事なことだと再認でした。

 潜在エネルギーの顕在化のプロセスが大変重要です。

結果よりも、過程を問題にしながら、

日頃から、きめ細かく言葉を掛けて、

子どもと指導者が「心のキャッチボール」

コミュニケーションを密にしていると、

自然に思わぬような感動的な表現が出てきています。

それぞれの子どもたちの工夫した表現も、しっかり努力のあとを

評価して、次に意欲を繋げていくのも、大事なことです。

年長組のみなさんは、もうすぐ卒園の時期を迎えて、

今、「えんちょうせんせい」をテーマに絵を描いています。

              

多分、来週は、「担任の先生」や「バスの先生」…

をテーマに感謝の念を込めて丁寧に描くことでしょう。

どんな作品が生まれ、それによって

子どもたちの心がどう成長していくのか?

またまたとっても楽しみです。

                          

最後になりましたが、

昨年は、お元気に審査委員をお勤めだった

青柳先生が、ご他界なさったとの訃報に接し

衷心からお悔やみ申し上げ、この場をお借りして、

心からご冥福をお祈り申し上げます。

青柳先生、どうも有り難うございました。

享年89才だそうで、永年 お疲れさまでした。

                      

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フランス料理の現役最年少三ツ星シェフ岸田周三の挑戦

2008年02月06日 20時14分09秒 | 料理・食育・食材・ガーデニング

平成20年2月6日 (水)

節分 の日、東京は、たくさん雪が降ったそうです。

「立春」を迎えたのに、毎日、九州でも 雪が降りそうな寒さです。

この時期フランスには、

「Chandeleur(シャンドゥルー)」という(ろうそく祝別の日、2月2日)

カトリックのお祭りがあっ て、クレープを食べます。

                

ただ、クレープを食べるだけではなくて、片手にコインを 握ったまま、

フライパンのクレープをうまくひっくり返すことができたら、

その年を 無事に過ごせるのだとか。

             
さて、現役最年少の三ツ星シェフ岸田周三さんが、NHKテレビ

プロフェッショナル『仕事の流儀』に登場。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/02/post_011b.html

フランス料理の最前線の料理人、注目のシェフ。

腸詰とリンゴの出会い!そして、フォアグラ!

司会役の脳科学者茂木さんも納得の美味さ~うなる

研ぎ澄まされたピュアな味の絶品?!

 夢は本場パリでの修業だった。

26歳の時にパリへ。

最初は、お金が無いので切り詰めながら、働き口を探した。

小さなレストランを振り出しに、4つの店で学んだ。

三ツ星のパスカル・バルボの店で働き始め、2ヶ月目

初めて魚料理を任されたが、「こんなの客に出せない」と捨てられた。

師匠バルボが、焼くと 魚が美味しい!

「料理人はロボットではない。」

「素材と対話しろ!」

「昨日より今日。今日よりも明日。」

師バルボに言われて、岸田周三の挑戦の日々が…

今も続く。

自分にしか表現出来ないものを…

フレンチでは禁断の食材…本まぐろに挑戦中。

繊細な酸味と鉄分が特徴で、どう料理しても刺身には敵わない。

まぐろの旨みは…どうすれば引き出せるか?

タマネギと組み合わせてもダメ!

焼いてもダメ!

発酵食品のアンチョビとの組み合わせも味が濁りダメ!

師匠がパリから来日した。

師匠に タルト・ブダン・ノワールを試食して貰った。

孤独な戦いの34歳の若きシェフ岸田には、何よりの励ましになった。

カツオに似た白トリュフの味とまぐろの組み合わせにも挑戦。

それと京都の九条ネギとの組み合わせを試みた。

三つの初めての出会い!

味は良い。

が、これも、刺身よりも美味しいのか?

というとそれほどの納得はいかない。

だが、挫折はしない。

果敢に挑戦に次ぐ挑戦!

自分ならではのオリジナルを創る!

その目的に向かって、感動感激を求めて、燃えている!

                 

そう言えば、

娘が一昨年パリで知り合ったフランス人シェフが、

パリから昨年秋、東京にやって来て、

表参道ヒルズの斜め向かいのビル内4階に

10月にレストランをオープンした。

そのレストランの名前は、「ル・プレヴェール」。

ル・プレヴェールでも

日本でいうちょうど七草の時期にある、公現祭(Epiphanie)の 日

に食べるお菓子 「Galette de roi (ガレットデ ロワ)」

を出していたそうです。

「Chandeleur(シャンドゥルー)」のクレープも

どちらも季節の節目のお祭りを祝い

春を待つ気持ちは、万国共通ですね。

http://lepreverretokyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/galette_des_roi_283d.html

季節感を大事にして、緑ヶ丘・第二幼稚園でも、

早速、節分明けに、

玄関ホール右手のコーナーにお雛様を出して飾りました。

どうぞ、ご覧ください。

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中江藤樹を師とした大野了佐・熊沢了介(蕃山)

2008年02月05日 14時22分34秒 | 教育

平成20年2月5日(火) 

中江藤樹を師としたそのなかで大野了佐のエピソードは強烈に記憶に残る。

了佐は大洲藩時代の同僚の次男。

だが、知能がきわめて低かった。

父親はとうてい武士としてはやっていけないと見切りをつけ、

何か身に職をつけさせようと考えた。

了佐は武士の家に生まれながらも武士になれない自分を恥ずかしく思い、

せめて医者になって人の役に立ちたいと願い、

藤樹を訪ねてその門弟に加わった。

藤樹も了佐の熱意に応えて なんとか医者にしてあげたいと

了佐の医学への志を助けようと努力する。 

しかし知的能力の低かった了佐に 医学を教えることは至難の業だった。

文章が読めないし、読んでもすぐに忘れてしまう。

同じことを何百回と繰り返し教え、

精も根もつきはてるばかりであったという。

 しかし、それでも了佐はあきらめなかった。

その了佐の熱意に動かされ、

藤樹は、自ら了佐ひとりのために筆を執って

捷径医筌」という教科書をつくる。

「捷径」は近道、「医筌」とは医学の手引きを意味する。

これを何度も繰り返し、読み、覚え、質問をし、

とにかく身に付くまで徹底して教えた。

「捷径医筌」は6巻もの大部。

了佐一人に教えるために、自らも医学を学び、

それをいかにして了佐に理解させるか、

精根尽き果てるような努力の積み重ねであった。

それが実り、了佐も医者になることができ、

藤樹自らも医学を学ぶことができた。

 藤樹は、後でふり返って次のように述べている。

「わたしがいくら一生懸命に教えても、

了佐に学ぶ意欲がなかったら、

とうていできなかったことである。

彼は非常に愚鈍であったけれども、

医術を身につけようとする熱意たるや並大抵のものではなかった。」

自分は、了佐の熱意に応えただけのことである というわけである。

 藤樹にとって大切なことは、よく生きることに全力を尽くすことであった。

彼は才能の有無も、貧富も、身分の違いも問題にはしなかった。

了佐が全力を尽くそうとしている限り、自分も全力を尽くさなければならない

と考えたのである。

 このような藤樹の生き方は弟子たちだけでなく、小川村の人びとを動かした。

藤樹の弟子になった中で最も有名なのが熊沢蕃山です。

蕃山が学問の志を持ちながらよき師を求めて旅をしていたとき、

京都の宿で同宿人から藤樹のうわさを聞き、

自分の師となるべき人物はこの人だと心に決めた。


蕃山1 

その藤樹のうわさとはこういう話しであった。

 その同宿人は加賀の飛脚であった。

彼は大名の公金200両をあずかって

京都に運ぶ役を仰せつかっていたのだが、

宿に着いたときにその大金を紛失していることに気づく。

その飛脚は色を失い、悲嘆にくれていた。

そこへその飛脚を乗せた馬方がたずねてきて、馬の鞍に忘れてあった包みに

大金が入っていたのであわてて届けにきたという。

飛脚は喜びのあまり、苦境を救われたお礼に15両をとりだして渡そうとしたところ、

その馬方はびっくりしてその礼を受け取ろうとしない。

それでは自分の気が済まないと言ってなんとかうけとってもらいたいと懇願した

ところ、やっと200文だけいただきますと言って受け取った。

それを受け取ると馬方は、その金で酒を買い、宿の人たちと一緒に飲み、

よい機嫌になって帰ろうとした。

 飛脚はつくづく感心して、馬方に一体どこのどなたなのですかと尋ねると、

馬方は自分は取るに足りない馬方で学問もありませんが、

わたしの近くの小川村で中江藤樹という先生の講話をよく聞いております。

その藤樹先生が言われるとおりのことをしたまでですと応えたというのである。

 蕃山はこの飛脚の話を聞いて、この人こそわたしが求めていたまことの学者

であると、翌日直ちに小川村の藤樹を訪ねたのである。蕃山23歳のことである。

しかし、藤樹はこの蕃山の申し出をことわる。

蕃山はあきらめずに、門前で座り込み、二夜を過ごす。

その熱意に動かされた母のすすめで、ともかく会うことだけはしてもらえるが、

それでも弟子となることは許されなかった。

しかし、蕃山はいくら断られても屈しなかった。

これはきっと、母親を一人国元に残していることが藤樹先生にとって

気に入らないにちがいないと推測し、いったん国に帰り、

今度は母親とともに小川村に移り住んだ後にあらためて藤樹を訪ね、

ついに入門を認められたという。

蕃山が藤樹から学ぶことができたのは、わずかに八か月であった。

しかしこの八ヵ月の間に、藤樹と蕃山は師弟の関係を越え、

「性命の友」「輔仁・莫逆の間柄」となった。

互いに教えあい、学びあう対等な関係になったというわけである。

吉田松陰は、この藤樹と蕃山の関係を 次のように述べている。

「みだりに人の師になってはいけない。またみだりに人を師としてはいけない。

必ず真に教えるべきことがあってこそ師となり、真に学ぶべきことがあってこそ

師とすべきである。

熊沢了介(蕃山)が中江藤樹を師とした例は、

師弟ともにそれぞれの道理を得ているということができる。」

実にうらやましい師弟関係である。

蕃山については、また次の機会に続きを書くことにしよう。

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節分に考える…中江藤樹の「明徳」とは?

2008年02月03日 21時46分53秒 | 映画・演劇・DVD・ビデオ・TV類

平成20年2月3日(日)節分昨夜は霙(みぞれ)が降り、寒かった。

今朝も、雨が降り、相変わらず 最高5℃最低0℃で寒い一日でした。

 先日、滋賀県高島市から、DVDが届きました。

『近江聖人 中江藤樹 ~人はだれでも美しい心を持っています~ 』

モラルハザードの今の状況下に、この人の思想を改めて思い出す必要が

あります。そのグローバルな視点と、『致良知』の実践を貫いた人間

中江藤樹の生涯を112分のDVDにまとめてあります。

今日は、午後からも雨で 予定していた畑仕事などが出来ないので、

そのDVDを見ました。

中江藤樹(1608年~48年)については、社会科で勉強した記憶があります。

内村鑑三が『代表的日本人ー中江藤樹』(英文)という著書で紹介しています。

ご著書「鑑草」(かがみぐさ)は日本で最初の女子教育を扱った本です。

また、有名な子育て書「翁問答」を書いた中江藤樹は、近江国出身で、

江戸時代初期の陽明学者です。

出身地から、「近江聖人」と称えられています。

9歳で米子藩主の家臣であった祖父中江吉長の養子にもらわれ、

14歳の時に、臨済僧から書や漢詩(かんし)や聯句(れんく)を学び、

15歳で元服、祖父吉長死去によりあとをつぎ、

伊予大洲藩の藩士として禄100石を受け移り住みます。

17歳で独学で『四書大全』を熟読玩味し、朱子学に傾倒。

『四書大全』は儒教の経典である四書(論語、孟子、大学、中庸)の解釈書。

明代に永楽帝の命によって胡広らが編纂したもので、全36巻からなり、1415年に刊行された。宋代におこった儒教の一派、朱子学は、儒教の教典である四書五経のうち四書に重点をおいていた。

しかし、27歳の時、母への孝養と身体の健康を理由に辞職を願い出た。

許可が得られないので、仕方なく脱藩し、郷里小川村へ帰ります。

浪人の身になった藤樹は、武士や近郷の人々を相手に酒屋を営みながら

居宅を私塾として亡くなるまでの14年間「心の学問」を教え広め

数多くの門人を育てました。

名は原、字は惟命、通称は与右衛門といいますが、

居宅に藤の老樹があったことから、「藤樹先生」と呼ばれ

その居宅は『藤樹書院』として有名でした。

慶安元年1648年小川村にて喘息の発作で41歳で他界するまで、

多くの村人や門人が彼を慕い教えを仰ぎました。

その代表的な門人は、熊沢蕃山・淵岡山・中川謙叔・泉仲愛らがいました。

また

大野了佐には、大部の『捷径医筌』を著わし、http://blogs.dion.ne.jp/mrgoodnews/archives/cat_178712.html

それをテキストにして医書を教え、立派な一人前の医者に育て上げた。

覚えが悪いからと決して見捨てず、諦めず、とことん一人の門下生として、

そのために心を砕き、心血を注ぎ指導して育て上げる有様は、

他の門人からは大野了佐にばかり…と、ねたまれ羨ましがられたのですが、…

DVDでも、このエピソードは感動的に取り上げてありました。

                

特にその考えは、孟子の 性善説から一段と深めて、

明代の思想家王陽明の『致良知説』と融合発展していった。

その当時の日本の中世、戦国時代の末期頃、儒学を知っていたのは

せいぜい京都五山の禅僧や公卿、あるいは戦国武将などほんの一握りの人たち

だけでした。彼らは、あくまでも個人の教養もしくは、精神的なより所として

四書五経や『孝経』などの経典を読んでいたわけで、それを積極的に生かして

それを実生活に応用して広めていくという意識は殆どなかったらしい。

一方、民衆の中には、他力の仏教信仰が生活の中に深く入って浸透してきていた。

おそらく、藤樹が日本で初めて上下尊卑の身分観念にこだわることなく、

全ての人間の本心は善だと強く主張したのでしたから、

当時としては、センセーショナルな人間宣言でした。


 彼は、様々な書物を著わし、色々と有名な言葉を残しています。

それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす」(翁問答)

 そもそも学問というのは、心のなかのけがれを清めることと、

日々のおこないを正しくすることが、本来のありようなのです

学問は、

知識を得ることが目的ではなく、人格を高めることであると言っています。

しかし、知識つめこみのために、あるいはよい職につくために

「高満の心」にふかく染まっている人が多い。その点を危惧しています。

また、

父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」(翁問答 上巻之本)

と、親孝行を説いています。

人間に生まれて徳を知り道をおこなわざれば、人面獣心とて、

かたちは人間なれども心はけだものと同じこと。」(同上)

このような人面獣心人間が増えてくると、恐ろしい世の中になります。

                   


子の不幸は、かならず親の不是なる所を見るよりおこれり」(鑑草

 というのは、親がわが子のために、ふかい憂いや悲しみにおちいるのは、

子どものせいではなく、親の常日頃のまちがった 心がけや おこないを、

子どもが見ていることから起こると言っています。

親は、誰と接するときでも、

自分と他人の区別なく、常に人をいつくしむ心と、

うやうやしい態度にあることが大切になるということで、

すべての人間はひとつの根から分れた兄弟であると説いています。

また、

「鑑草(かがみぐさ)」も、関西外語大教員養成研究会が現代語に訳し

昭和61年3月3日現代語訳の初版発行により、やっと、

多くの人たちにもわかり易くなりました。

            

胎教の心持ちは慈悲正直を本とし、かりそめにも邪なる念を発すべからず。

食物をもよくつつしみ、居ずまい身のはたらきをも正しくつつしみ、

目にむざとしたる色を見ず、耳に邪なる声をきかず、

いにしえの賢人君子の行迹、孝悌忠信の故事を記せる草紙を読み、

或は物語をきくべし。これ胎教の大概なり。」(鑑草)

すでにこのように丁寧に胎教の大切さを説いていたのです。

             

みどり子を愛せざる母は人にあらず。

みどり子を愛する心は無欲の慈悲なり。

無欲の慈悲j心を仁と名づく。

この仁は人人固有のものなれば、

もとむる志しだにあれば、得がたき道にあらず。」(鑑草)

子どもを道連れに自殺したり、平気で虐待し、手に掛けたりする事件が

多発している現在の社会状況には、このような母親へのメッセージが

重要な時でもあります。

 

以上の言葉は、『中江藤樹入門』2002年10月1日第一刷発行、

編集;近江聖人中江藤樹記念館

発行:〒520-1224滋賀県高島市安曇川町上小川69番地

    ℡0740-32-0330

また、『 現代語新訳 鑑草 中江藤樹原著 』からも

参考に引用させていただきました。

                

また、人と接するときの心得を「五事を正す」といいます。


「貌」(顔かたち)

愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接しましょう


「言」(言葉づかい)

相手に気持ちよく受け入れられるような思いやりのある言葉で話しかけをしましょう


「視」(まなざし)

澄んだ目で、愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにしましょう


「聴」(よく聞く)

耳を傾け、話す人の立場に立って、相手の話を聞くようにしましょう


「思」(思いやり)

まごころを込めて相手を理解し思いやりの心をかけましょう


このような考え方から、

人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし。(翁問答)

私たちは、姿かたちや社会的地位、財産の多さなどから、その人を評価

してしまうことがよくあります。

しかし、すべての人間は、

明徳という、金銀珠玉よりも、もっとすぐれている

最高のたからを身につけて、この世に生をうけたのです

ですから、そのように人間を見つめると、すべて善人で、悪人はいない

ことになるのです。

その「明徳」とは、どんなものでしょうか?

それを和歌に詠んでいます。


いかで我がこころの月を あらはして やみにまどへる 人をてらさむ」(和歌)

すべての人間は、「明徳」という、孔子や孟子とおなじ心を

天から与えられているのですが、だれもそのことを知らない。

その与えられた輝かしい心をくもらさないようにすることが、

よき社会を築きあげる根本だと説いています。

輝かしい心、すなわち「明徳」を「こころの月」と表現しています。

「こころの月」とは、『良知』であり、『心学』を意味します。

「やみ」とは、私利私欲によって『良知』をくもらした心をいいます

要するに、藤樹は、世間一般にいるような、博覧強記を誉れとした知識のみに

埋没した学者ではなかったのです。

清貧の中で孝養を尽くし、私塾を開き、多くの人に人としての道を示し共に歩んだ。

だから、『正直馬子』のようなエピソードが50以上も今に伝わっているのです。

子ども達にも正直者がバカを見るような世の中であってはならないと

しっかり藤樹先生の逸話を語り継がねばなりません。

さて、皆様、

今晩の豆まきで、

心の中に潜んでいた鬼たちを しっかり追い出し、

福の神を呼び込みましたか?

      園児は、金曜日に豆まきしました。

エ~ッ!

「我が家は、元々から福の神でいっぱいで、鬼の入る余地が無い!」

と、大学の恩師から「鬼は外!」メールの返信がまいりました。

 I先生、やはりお宅はそうだったんですね!

同じく英語の恩師の洋子先生からは、「福は内!」「鬼も内!」の

寛大な広い心の楽しいユーモアメールをいただきました。

恩師って有難いですね。

毎朝、三時に起床なさっている I先生の習慣の真似は、なかなか出来ませんが

早ね早起き、朝ごはん を まずは大事にいたしましょう。

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