平成22年2月28日(日)
昨夜の雨が嘘みたいに晴れ上がり、うららかなお天気に恵まれました。
久し振りに洗濯やお掃除の後、庭や畑の草取りをしました。
雨上がりで、根元が抜けやすく、とても楽でした。
草取りをしながら、昨夜の『2010福智町音楽祭』の余韻を反芻していました。
この音楽祭の実現には、実は、卒園生永田郁代さんが大活躍していました。
2月27日(土)19時~の『2010福智町音楽祭』には、
1月に永田さんから丁寧な招待状をいただいていました。
コンサートの会場は、『福智町地域交流センター』(多目的ホール)でした。
主催者は、福智町 福智町教育委員会
出演者は、東京交響楽団コンサートマスターでviolinの大谷康子さんと、
NHK交響楽団主席チェロ奏者の木越 洋(きごし よう)さん、
それにpianoは永田郁代さんでした。
福智町は、昔の田川郡赤池町と金田町と方城町が合併して誕生。
人口約2万4600人余り。田川パイパス沿いです。
世界一長寿の114歳7ヵ月皆川ヨ子(よね)さんがいた町として有名です!
また、福智町は童謡作曲家・河村光陽(かわむらこうよう)の生誕地
としても知られています。
彼が残した数々の名曲は、半世紀以上たった今でも色あせていない。
光陽が残した大きな足跡とその精神は、ふるさと福智の地で、脈々と
受け継がれています。
童謡が口から口へ伝わっていくように、童謡や音楽の町づくりの想いが、
心から心へ伝わっていくことを願って取り組まれています。
河村光陽(直則)は、明治30年8月23日、福智町上野(当時上野村)で
産声を上げました。雄大な福智山を背景に清らかな流れをたたえる福智川、
周囲に田園風景が広がるのどかな環境で育ちます。
こんもりとした丘の上に福智下宮神社、その隣に光陽の生家がありました。
当時は、秋にお神楽が奉納され、たいへんにぎやかだったと言います。
光陽の生家は広い屋敷だったので、お神楽のメンバーが宿泊していました。
光陽はその演奏に聞き惚れ、尺八を習いました。
それが彼のメロディーやリズム感、音楽家の原点です。
地主だった父を早く亡くした光陽は、母ヒデノの希望で小倉師範学校に進学。
そこで作曲家藤井清水に出会い、野口雨情らのコンサートに参加するなど
強い影響を受けます。
卒業後の大正七年、音楽教師として隣町の金田小学校に赴任。
しかし光陽の胸には断ちがたい目標がありました。
「シベリア鉄道でモスクワへ行きロシア国民楽派の音楽を学ぼう。
できればヨーロッパにも足を延ばしたい…」。
大正9年、光陽は音楽家としての将来を託し、単身で朝鮮に渡ります。
公立師範学校に勤めた後、国境近くの学校に転勤。
そこは豆満江を隔て、対岸にロシアの灯りが見える場所でした。
しかしそのころ、幸か不幸か、日本人が陸路シベリア経由で
モスクワへ行ける情勢ではなくなりました。
光陽はモスクワ行きを断念しソウルの学校に移ります。
光陽がもし、シベリア鉄道に乗っていたら…
国民学派の音楽に刺激され、管弦楽曲への道を
まっしぐらに進んだかも知れません。
立ちはだかった時代の壁が運命の分岐点となり、
後に光陽を童謡の世界へと導いて行きます。
ソウルでは八波武治に作曲法とヴァイオリン奏法を学んでいました。
そこへ母ヒデノが「1人息子がこのまま帰らないのでは」と迎えに来ます。
光陽は、東京に出ることを母に約束し日本に戻りました。
大正13年、山田耕筰らによって日本初のシンフォニーオーケストラ
「新交響楽団」が結成され、光陽はヴァイオリン奏者に応じようと上京します。
しかし募集は終わっていました。
光陽は奏者をあきらめ、学習研究のため東京音楽学校選科(現東京芸大)に
入学します。
そこで音楽理論を学び、卒業後も2年間、中田章(和声)、榊原直(ピアノ)、
藤井清水(作曲)、大沼 哲(管弦楽法)らの自宅で 個人指導を受け、
本格的基礎を学習。
その間長女順子、次女陽子が生まれますが、就職はせず
学習専念の4年間を過ごしました。
「別テーブルで読書をしながらの食事でした」と妻 都根美さんは語っています。
3女博子が誕生した昭和4年、光陽は東京の竹早小学校に教師として復職。
すでに昭和3年から自宅でヴァイオリンと歌を教えはじめていた光陽は、
NHK出演やコロンビアレコードの吹き込みなどで多忙になります。
光陽の童謡作曲が始まったのはそのころでした。
光陽は子どもの実生活をうたった武内俊子やサトウハチローらと出会い、
美しい詩を日本旋律にのせていきます。
光陽が童謡を作曲するうえで最も大切にしていたのが、
子どもたちの息づかいや遊びのリズムでした。彼は著書にこう記しています。
「子どもの世界を知らぬ人には本当の童謡は作り得ない」と…。
河村光陽の作品は、幼稚園でもこの時期日本全国で歌われている
『うれしいひなまつり』をはじめ、『グッドバイ』、『かもめの水兵さん』、
『赤い帽子白い帽子』、『仲よし小道』、『りんごのひとりごと』など千余曲を作曲。
日本童謡史に一時代を築く。昭和21年12月24日、胃潰瘍発作で急逝、享年49。
郁代さんもこのところ数年がかりで「美術館コンサート」や「添田町オークホール」
にも出掛けて…田川関係の芸術文化振興にも一役かっているらしく、
今回もクラッシックには全然縁がなかった人も沢山足を運んでいました!
金曜日に中学校でスクールコンサートを実施したばかり。
高齢者と中学生(吹奏楽部員?)が同時に沢山来ているコンサートは珍しい!
大谷康子さんは、熱烈歓迎に感激のあまり大粒の涙!
大ホールでのフルオーケストラの時とは違うあたたかいアットホームな雰囲気…
3人の解説も分かり易く面白く、初めてクラッシック生演奏を聴いた人にも
親しみやすい、充実した演奏会でした!以下プログラムから↓
モーツァルト『ピアノトリオケーゲルシュタット』に始まり、メンデルスゾーン、
クライスラー『愛の喜び』『レスタティーボとスケルツォ』2曲、
サンサーンス『白鳥』、バッハの『無伴奏チェロ組曲第1番プレリード』…深い哲学的なチェロの音色!
1810年3月1日生まれといわれている生誕200年のショパンを中心の話題に
『ノクターン』『子犬のワルツ』『チェロソナタ』3曲とも素敵でした!
カサド『親愛なる言葉』、アラール『乾杯の歌』、サラサーテ『ツィゴイネルワイゼン』生ならではの琴線に触れる音…Wonderful!
次の『千の風になって』は、小さく口ずさんでいた!
最後のピアソラのトリオ版『リベルタンゴ』は情熱的にリズムを刻んでノリノリ!
そしてアンコールは『チャルダッシュ』で、大谷さんは客席の後方から登場し、間近に通路を巡り、まるでviolinで流しの大サービス!
アンコール2曲目は、ブラームス『ハンガリー舞曲第5番』…これも力が入り、会場全体が盛り上がり手拍子と拍手の渦に!
木越 洋(きごし よう)さんのチェロを聴いて、朗々としてまろやかであたたかい音色に…自殺を思いとどまった人がいると言われていますがナルホド納得でした!
生きる希望を与える音楽!
大谷康子さんも、最近は『題名のない音楽会』出演だけでなく、コンサートの合間を縫って病院でのボランティア演奏やCD制作にも勤しんでいるらしく、愛器1708年製ピエトロ・グリネリの音色は心に染み通る癒やしの音色!名器は302歳!
そういえば、今朝『題名のない音楽会』で、ショパンコンクールの覇者ブーニンのpianoでショパンの『マズルカ』を聴きました!
ジャズピアニスト山下洋輔さんのお家芸『肘打ち』を仲良しの彼がブーニンに伝授?
彼らしいエレガントな『肘打ち』を実演!
そして、ピアノ協奏曲第1番…ブーニンはこの曲に恋しているそうです!
愛情をタップリ込めた繊細で心地良い演奏を楽しみました!
音楽って、人をchangeし、即、元気にする力があります
そして私は、「幼児教育に恋してる人」と言われたりします。