金沢の観光スポット体験レポート その135(No.247)
◇金沢城公園巡り18 鶴の丸休憩所レポート
鶴の丸休憩所には金沢城の歴史や変遷資料が多く展示され
ており、金沢城の概略をつかむことができる。展示のうち
いくつかを紹介する。
■写真は鶴の丸休憩所(橋詰門方向より)
○初期の金沢城(宝永大火以前)
初期の金沢城の景観を描いた古図で、特に本丸付近の縄張
りは、寛永大火後に確定された城の姿とずいぶ様相が異な
り、このタイプの絵図は、領内ではなく領外に多く流布す
るところから、元和から寛永期に幕府に提出した金沢城修
補願絵図をもとに転写された絵図ではないかと推定される。
■写真は初期の金沢城
○金沢城の本丸?
天正7年(1602)天守が落雷で焼失した。利長は徳川家か
らあらぬ疑いをかけられぬよう、翌年三階櫓を再建し、天
守の代わりとした。以来金沢城には再建されなかった。本
図は慶長期の、当初の三階櫓かどうか確定しないが、初期
の望楼型天守の様相を残すと指摘がある。
■写真は三階櫓図
○前期金沢城図(宝永大火~宝暦大火)
幕府は諸大名を統制するため慶長・正保・元禄・天保にわ
たり国絵図の提出を命じたが、正保4年(1647)には大名
居城図も差し出させた。これを正保城絵図という。本図は
貫文8年~延宝7年(1668~79)に、正保城絵図に訂正を
加え、幕府に提出する目的で作成した城絵図で、通称「貫
文8年図」と呼ばれる巨大な絵図(369X350Cm)である。
江戸前期の金沢城の全容を彩色鮮やかに俯瞰した逸品であ
る。
■写真は前期金沢城図
○後期金沢城図(宝暦大火~明治)
金谷出丸にあった金谷御殿は、18世紀になると藩主の側
室や子女の屋敷、隠居した全藩主や世子の御殿として使わ
れた。江戸城の西の丸のような役割を持ち、主が変わるた
びに改築がなされた。この絵図絵図が描かれた1830年
頃、兼六園の竹沢御殿にあった錦羊小屋が移転された。
なお、竹沢御殿はわずか2年で役割を終え、大部分が順次
取り壊され、残った書院の一部は1863年に建設された巽御
殿(現在の成巽閣)に利用されたという。
江戸後期の金沢城は、二ノ丸御殿・金谷御殿および、それ
に付設された庭園や数寄屋などに財力が投入され、江戸前
期の櫓・長屋主体の軍事の城から、御殿や庭園を配置した
空間へと変化した。幕末の対外危機の中で再度の変化を求
められたが、対応が終わらないうちに明治を向かえた。
■写真は後期金沢城絵図