河口慧海が日本に持ち帰った経典には、サンスクリット語で記されたものが多く含まれていました。
サンスクリット語とは、お釈迦様の時代、今から約2500年前にはインドで使われていた文章語で、いろいろな文字で書き記されますが、日本では
これは法界寺で見かけた宝篋印塔(ほうきょういんという)です。
こんな感じで表されます。
ちなみに、サンスクリット語、日常語としては使われていないと思いますが、完全に死語となったわけではなく、インドの公用語のひとつとして憲法に定められています。
それはともかく、お釈迦様の時代でもサンスクリット語は文章語であって、庶民が日常使用するのはパーリ語だったようです。
そのパーリ語の経典も展示されていました。
経典が入っていたと思しき箱も展示されていたので、珍しいなと思って近づいてみたら・・・・
なんと『大隈重信』とあるではないですか!
どうやら、大隈は、一時期本当にこのパーリ語経典を所蔵していたらしく、箱書きもその時のもののようです。
箱書きによれば、最初に総理大臣になり、その年の内に辞職した翌年の1899年に入手したようです。
そして、その後、河口慧海に渡したようです。
ちなみに、お経はそれを手にして開くと功徳があると言われています。
また、供養とは、もとは尊敬する人物に供物を捧げることですから、大隈はこの貴重なパーリ語経典をお坊さんである慧海に供養したともいえます。
大隈が、その後、大正の世になって、1914年、再び宰相の座に就けたのも、そのおかげなのかもしれません。
サンスクリット語とは、お釈迦様の時代、今から約2500年前にはインドで使われていた文章語で、いろいろな文字で書き記されますが、日本では
これは法界寺で見かけた宝篋印塔(ほうきょういんという)です。
こんな感じで表されます。
ちなみに、サンスクリット語、日常語としては使われていないと思いますが、完全に死語となったわけではなく、インドの公用語のひとつとして憲法に定められています。
それはともかく、お釈迦様の時代でもサンスクリット語は文章語であって、庶民が日常使用するのはパーリ語だったようです。
そのパーリ語の経典も展示されていました。
経典が入っていたと思しき箱も展示されていたので、珍しいなと思って近づいてみたら・・・・
なんと『大隈重信』とあるではないですか!
どうやら、大隈は、一時期本当にこのパーリ語経典を所蔵していたらしく、箱書きもその時のもののようです。
箱書きによれば、最初に総理大臣になり、その年の内に辞職した翌年の1899年に入手したようです。
そして、その後、河口慧海に渡したようです。
ちなみに、お経はそれを手にして開くと功徳があると言われています。
また、供養とは、もとは尊敬する人物に供物を捧げることですから、大隈はこの貴重なパーリ語経典をお坊さんである慧海に供養したともいえます。
大隈が、その後、大正の世になって、1914年、再び宰相の座に就けたのも、そのおかげなのかもしれません。