おととい紹介した『原敬日記』※。
※原敬は「はらたかし」と読みますが、原敬記念館は「はらけいきねんかん」、原敬日記は「はらけいにっき」と読みます。
明治8年(1875)から書き起こされ、、大正10年(1921)年10月25日まで書き続けられています。
原敬が東京駅でテロリストの襲撃を受けた絶命したのは、同年の11月4日。
死の直前10月22日に撮影したもの
つまり、日記は死の直前まで書き綴られていたことになります。
筆忠実な原は、ことあるごとにメモをし、それをもとに1週間から10日分ごとに清書して日記としていたようです。
ですので、テロリストの襲撃を受ける直前までそのメモが残されていて、最後のものは東京駅出発直前のもので、『出発』というものです。
死の直前まで残された日記とメモは貴重で、例えば世界最大の日本史辞書、『国史大事典』では、
内容は、明治二十年代までは比較的簡単であるが、政党政治家時代のもの、
とりわけ立憲政友会総裁や内閣総理大臣時代のものは彼自身の日々の言動は
もとより、公私の面談者との談話の内容や閣議その他の会議の様子など政界の
最高機密にわたってきわめて克明に記されている。明治後期から大正期に
かけての政情を解明するのみならず、当時の政治家の思想や行動様式を理解する
上でも第一級の貴重な史料といえよう。
と評価されています。
政治家としては評価が分かれる原敬ですが、彼が残した遺産は間違いなく一級品です。
それも筆忠実ならばこそ。
見習いたいと思います。
今のところ盛岡市指定文化財ですが、将来的には国指定の文化財として、国民共有の財産として保護が図られてほしいとかねうりきちじは願っています。
※原敬は「はらたかし」と読みますが、原敬記念館は「はらけいきねんかん」、原敬日記は「はらけいにっき」と読みます。
明治8年(1875)から書き起こされ、、大正10年(1921)年10月25日まで書き続けられています。
原敬が東京駅でテロリストの襲撃を受けた絶命したのは、同年の11月4日。

つまり、日記は死の直前まで書き綴られていたことになります。
筆忠実な原は、ことあるごとにメモをし、それをもとに1週間から10日分ごとに清書して日記としていたようです。
ですので、テロリストの襲撃を受ける直前までそのメモが残されていて、最後のものは東京駅出発直前のもので、『出発』というものです。
死の直前まで残された日記とメモは貴重で、例えば世界最大の日本史辞書、『国史大事典』では、
内容は、明治二十年代までは比較的簡単であるが、政党政治家時代のもの、
とりわけ立憲政友会総裁や内閣総理大臣時代のものは彼自身の日々の言動は
もとより、公私の面談者との談話の内容や閣議その他の会議の様子など政界の
最高機密にわたってきわめて克明に記されている。明治後期から大正期に
かけての政情を解明するのみならず、当時の政治家の思想や行動様式を理解する
上でも第一級の貴重な史料といえよう。
と評価されています。
政治家としては評価が分かれる原敬ですが、彼が残した遺産は間違いなく一級品です。
それも筆忠実ならばこそ。
見習いたいと思います。
今のところ盛岡市指定文化財ですが、将来的には国指定の文化財として、国民共有の財産として保護が図られてほしいとかねうりきちじは願っています。