真夏の異常な暑さの中、久しぶりに我が家に家族全員が集まりました。
74歳を迎えた旦那さまと、16歳になった長女家の長男R君ののお誕生日のお祝いが目的です。
夫の誕生日は昭和16年7月20日。
日本軍がハワイ奇襲攻撃をして太平洋戦争が始まる数か月前のこと。
私の誕生日は、昭和19年4月3日。
原爆が投下される前年に、広島で生まれました
私は爆心地から三キロの地点で被爆しています。
今年は戦後70年の節目を迎えました。
改めて、私達夫婦誕生の数年間、日本がいかに激動の時代であったかを思わないではいられません。
そのような苦境の中、私達を育ててくれた両親の苦労も。
その激動期を乗り越え、70年の時が刻まれました。
残り少ない余生。
今の平和に感謝しながら、精いっぱい日々を愛おしんで、過ごしたいものですね。
義父は医師で、満州のハルピンに大きな病院を構え、非常に豊かな暮らしを送ったようでした。
しかし敗戦後、大変な苦労の末、帰国。
その後、人生を建て直し、私どもの郷里の目抜き通りから数分のところに開業し、78歳までの人生を全うしました。
広島の医師会の会長を務めるなど、行動力がある一方、実に教養豊かな人でもあった義父。
文学への造詣は相当なものでした。
無口な夫と違い、話術も実に巧み。
ユーモアに富み、柔和な人柄と風貌で、医師の仲間たちの中でも、いつも中心的存在だったようです。
意外ですが、夫も会社では、遊び心のあるユーモア人で通っていたようです。
そしてお父さまと同様に、大変な読書家、文筆家でした。
会社の会報に度々載った夫の文章を、友人は「さすがだ」と、よく褒めていました。
地方局のお昼のテレビドラマの登場人物のモデルにもなった事もある義父。
そのドラマのストーリーは、ある医師の奥様のがん闘病記といった実話でした。
その医師が義父ととても親しくて、常日頃相談相手にになっていたようです。
嫁ぎ先の~家は、生真面目タイプの私の実家とは漂う雰囲気が異なり、私の目には大層新鮮に映ったものです。
結婚後しばらく、~家のセンスあるジョークに慣れるのに、相当な努力を要をしましたけれどね。
お見合いをした時、一目ぼれに近いほど、印象が良かったYさんながら、あまりに寡黙な人でしたから、その点が気になって仕方なかった私です。
けれど私同様、Yさんをすっかり気に入った母は、
「子供は親に似るものよ。必ずそのうち、お父さまそっくりになるから」
といって、私の迷いを取り除こうと努めていました。
けれど、その寡黙さは、婚約中も、結婚後今日に至るまで変わりなく、母の押しの一手に騙された感じがしないでもありませんが。
まぁ~いいでしょう。(笑)
大学時代の私と社会人二年目のYさん。
大学卒業まで二年半近く待ってもらい、結婚しました。
この写真を見ると初心に帰れそう。(笑)
家のこと、子供の教育、一切合財任されて、私は自分の好きなように結婚生活を送らせてもらえました。
旦那さまは小うるさいことを言って、私を縛るようなことは全くありませんでした。
或る意味、自由な身だった私は、好き放題に人生を楽しんで、遊びほうけることも可能だったかもしれません。
しかし残念ながら、私の性格は生真面目で、貞淑そのもの?(笑)
家族のためにつくすことだけが生甲斐でしたから、その方向に流れることは全くなくて・・・・・・。
浮気一つでもして、もっと人生を謳歌すればよかったかしら。(笑)
結局は、経済力のある旦那さまに支えられ、その点の心配は全くしないで、私なりに人生を精一杯生きさせてもらえたと思っています。
妻として母として、後悔することはいろいろあるけれど、今更気にして悔やんでもどうしようもありません。
その後悔も心の糧にして、残り少ない余生を旦那さまのために心を尽くしたいものです。
恩返しのつもりで・・・・・・。
少々きれいごとを言い過ぎですね~
建前通りには、なかなか暮らせませんが。(笑)
思いがけない前置きで始まってしまった今日の記事。
これからが本題ですが、その内容は明日に回すことに致します。
ご覧下さいまして有難うございました。
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花のように泉のように