今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

不条理な出来事 祈り

2016-06-06 07:12:14 | 人生

夫が逝き、その数か月後に、また信じられないような大地震が九州の中部を襲い、多くの人が亡くなりました。

この数か月の出来事は、私の記憶に深く刻まれ、改めて生きることの意味を問い直してくるかのようです。

病に蝕まれ、74歳で亡くなった夫は、おそらく無念であったに違いありません。

もう少し生きて、孫たちの成長を見届けたかったことでしょう。

けれど、東日本大震災や、このたびの地震で命を落とした方々の無念さと悔しさは、それ以上だったのではないでしょうか。

 

わたし達は、この世に生を受け、思春期の頃あたりからでしょうか。

限られた人生であることを、強く認識し始めるのは。

ゆえに、かけがえのない一日一日を悔いなく大切に過ごしたい、と願うのかもしれません。

私のブログのタイトル「今日が一番素敵」にも、そんな思いを込めました。

 

 

今は平均寿命は、男女とも伸びて、80歳を超えています。

けれど、この年数とは裏腹に、想定外の出来事や逆境が、私達の暮らしに突然襲いかかる危惧は、ますます増してきたかのように感じられる昨今。

このたびの地震も、敢えて言わせていただくなら、夫の思いがけない眼の難病やがんの罹患、死も、それに当たるように思います。

抗い難い、不条理な出来事が時に起きるのも人生。

特に天災は、老若男女、貧しい人、富める人、如何なる立場の人も、平等に対峙しなければならないこと。

時に非情になる自然は、人を差別などしません。

 

私の大好きな言葉、「諦めと覚悟」が、また胸に浮かんできます。

このブログ記事では、数年前から2~3度触れてきました。

常に覚悟をし、時には潔く諦め、前を向いて生きようとする気持ちを失わない限り、きっと私たちは元気に人生を歩めるのではないでしょうか。

 

そのような人たちの姿を、災害が起きるたびに、映像を通してですが私は見てきました。

その姿は、時に神々しくさえ私の目には映り、ただただ頭が下がる思いがします。

私も如何なる不幸に見舞われても、それを受容し、立ち直れる人でありたいと、強く願っていますが・・・・・・。

こればかりは、実際に遭遇してみないと、分りません。

 

 

夫が逝ってしまった後、数か月は、思い出しては涙、涙の日々でしたが、時の流れに癒されて、私は、次第に元気になっていきました。

私の場合、旦那さまの余命は数年と知らされ、心の隅で覚悟はある程度できていました。

ですから、受容は当然の事かもしれませんが・・・・・・。

でもやはり辛かったです。

自然災害や、交通事故、その他の突発的な出来事による身内の死は、受け入れる覚悟ができていないだけに、もっと辛いことでしょう。

 

私達は、いつ襲ってくるかもしれない不幸や非情な出来事を思い、常に覚悟と諦めの心構えが必要なのかもしれません。

諦めの言葉には、何か虚しい響きがありますが、私が初めてこの言葉を、覚悟と共に目にした時の意味合いは、とても前向きなものであったと思います。

ですから好きになりました。

 

最近も、同様の言葉を、朝日新聞のコラム「異論のススメ」で目にしました。

京都大名誉教授の佐伯啓思の言葉です。

私が楽しみに読んでいる、新聞記事の一つです。

そこに載っている文章を引用し、終わりにさせて頂きますね

 

 

だが本当の「あきらめ」は、思考停止でもなければ敗北主義でもない。本当に「あきらめる」には覚悟が必要であり、それは容易なことではない。その覚悟とは、人知を超えた巨大な自然の前にあっては、人間の生命など実にもろくもはかない、という自覚を持つことである。それは生への過度の執着を断ち切り、幸福を物的な富の増大に委ねることの虚しさを知り、そして人の生も自然の手に委ねられた偶然の賜物であり、われわれの生命はたえず危機にさらされると知ることでもあろう。

かって哲学者の和辻哲郎は、日本人の精神的傾向として、「戦闘的な恬淡(恬淡)」と言い、また『きれいなあきらめ』ともいい、それを極めて荒々しい日本の自然風土と結びつけた。確かに日本人の「あきらめ」は、こうした人智を超えた「自然」への畏怖と不可分であった。それはまた、今日のわれわれを支配する「近代的」生活や価値観を見直すことでもある。これは相当に「覚悟」のいる「あきらめ」なのである。

 

追記

このたびのオバマ大統領の広島訪問と慰霊碑の参拝、被爆者との対話は、被爆者の身の私にとって、本当に嬉しい事でした。

零歳の乳児の時に、爆心地から三キロの地点で被爆した私です。

その後、私の人生の晩年になり、やっと実現した、アメリカ大統領の広島訪問。

その間の長い歳月を思わないではいられません。

 

戦争は、太平洋戦争に限らず、過去の幾多の戦争、今も続く紛争や内乱も含め、人間の醜い面が露わになった現象そのものです。

謝罪すべきか否かでなくて、人類総懺悔で臨まないといけないことのように思う私です。

もちろん、市井の人たちや子供たちには罪はありませんが・・・・・・。

 

戦争だけは覚悟して諦めるのは、あまりに悲しい。

人類の良心を信じ、いつか核廃絶が実現し、地球上から、戦争も貧困もなくなることを、祈って止まない私です。

 

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