先日の日曜日のこと。
次女に誘われ、東大の五月祭に二人で出かけてきました。
何故か、娘達が在学中には、一度も出かけた覚えが私にはありません。
次女の話しでは、積極的に学園祭に参加した記憶がないとの事。
夫を見舞っている頃、赤門と正門までの赤レンガの塀沿いのこの道は私のお気に入りの場所でした。
誘われた時、Mちゃんが掛けてくれた言葉は次のようなものでした。
「私たちだけでなく、パパも青春時代を過ごし、最後は東大病院のお世話にもなり、
ママにとっては、感慨深い場所でしょ。
私と一緒に出掛けて、大学の校内をもう一度散策すれば?
病院にも行けるから」と。
その誘いにすぐ乗り、一緒に出かける事となりました。
夫が入院中は、我が家からですと、大手町で乗り換え、一時間半くらいかかったと思います。。
ほとんど毎日通い、認知症にならないようにと、赤門をくぐりました。
そして、東大の医学部の由緒ある重厚な建物の横の道を通り抜けて、病院に向かったものです。
東大病院
日が暮れる前に病院を後にした時は、キャンパスを至るところ散策して帰途に就くのが、私のその頃の習わしにもなっていました。
その当時、安田講堂は改修のため工事中で、建物はすべて養生のシートで覆われていて見ることが出来ませんでしたけれど、今回はしっかりと目にすることが出来ました。
一方、私が毎日のように通り抜けた赤門が、この度は工事中でした。
高校時代の制服から私服に替わったK君。
いつもセンスがいい装いのお洒落なK君です。
この大学のキャンパスで、当時私が一番心惹かれたのは、正門から安田講堂までの銀杏並木です。
秋、黄金色に色づいた銀杏並木の景観は、両側の重厚な法学部の建物と共に、私を圧倒し、感動に浸るのみでした。
この度、入学した次女家の孫息子、K君も、法学部の建物とこの景観に心から惹かれ、本郷のキャンパスで授業を受けるのが、今から楽しみ、と言っているようです。
娘達は、駒場の教室で授業を受ける事が多かったようですが、クラブ活動では本郷に二人共よく通っていたとのこと。
当時、娘達の専攻は、長女は国際法論学科。次女な比較日本文化論学科でした
こみ上げる懐かしさが抑えられないように感激する次女
この場所もお気に入りだったようです。
アメフトの練習場に行く前、ここで昼食をよく食べたとの事。
マネージャーを務めていたアメフトのグランドに案内してくれた時の、娘の感無量の表情がとても印象的でした。
入部した時、四年生だった先輩にも会え、その当時はちょっと怖い先輩だったと言って、想い出に浸っていました。
肩に下げているのは私のバッグです。
娘達がこの大学に入学した頃の私は、まだ未熟なところもあり、無我夢中で過ごしていたような気がします。
思いがけない大学へ娘達が入学を果し、夢心地でいたのかもしれません。
高2の夏、長女が駿台の模試を始めて受け、信じられないような好成績だったのを見て・・・。
その時、初めて、東大が目に浮かんだ母親に過ぎません。
娘に高望みなど全くしていませんでした。
最近、80歳になったばかりの私が、孫息子の合格のお蔭で、この大学を再度訪れることが出来ました。
お蔭で、当時の喜びと幸せにまた浸ることが出来た私です。
Mちゃんが、一言、噛みしめるように言いました。
「ママを連れてきて、大きなミッションを果したような気持ち」と・
どんなミッションだったのでしょう?
私には良く分かりませんが・・・
Mちゃん、声をかけてくれて本当にありがとう。
孫息子たちは、やはり私の永遠の恋人です。
K君に会えたのは一瞬の事でしたが、制服姿だった高校時代とは違い、私服を装い、颯爽と私の前に現れた時には、またまた私は感動。
すでに、頼もしい大学生になっていました。
これからの四年間も、中高校時代と同様に、K君には忘れることが出来ない充実した年月になるに違いありません
勉学、クラブ、そして、良き友人達とも切磋琢磨しながら、充実した学生活を送り、青春を益々謳歌してください。
80歳になったばかりの私の全身像を記念に。(笑)
お昼食は校外の通りのお店で摂り、私は娘に見送られ、電車に乗りました。
娘はK君の中高時代のお母様達と一緒に、学園祭を再度楽しむようです。
最近は割と体調も良く思った程の疲労感も感じないで家路に就くことが出来ました。
優秀な学生さん達の洗礼を受け、呆けかけていた頭が多少でも、元に戻っていたら嬉しいのですが・・・。
今日は、お昼食をこしらえ、私が敬愛してやまない友をお招きすることになっています。
準備が間に合うか、とても気がかり。
推敲が思うに出来ていませんが、今から超多忙になるので、このままで投稿します。