普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

あの頃 原宿

2011-07-16 00:49:55 | 東京「昔むかしの」百物語
 本当なら写真で残せていたならなと思うのだが、文字で残すのも悪くはない。
 今回は、最近歩く機会のあった原宿を描いてみよう。

 昭和50年代になって、原宿は今の原宿と大差のない賑わいの街になったけれど、それ以前は、本当に静かな明治神宮の参道だった。
 昭和20年代後半~30年代前半当時、叔母が表参道から横丁に10mほど入った、ちょうどオリエンタルバザールの裏手にあたる辺に住んでいて、歳が2才しか離れていない従兄弟がいたこともあり、それこそ毎週のように遊びに行っていた。

 オシャレでモダンな印象の街・原宿の原点は、代々木公園にある。
 元々は「代々木練兵場」と呼ばれる軍の施設だったが、敗戦に伴い連合国軍に接収され「ワシントンハイツ」というアメリカ軍の宿舎敷地となった。その影響で、表参道にスーベニアショップが誕生した。その代表格が2店舗。
 いまでも残る「オリエンタルバザール」と「キディランド」だ。いまから50年も前に、「キディランド」にはおもちゃとは思えないアメリカ製(日本製かもしれない?)のウェスタン銃が並んでいて当時の子供たちはこぞって買いに走った。ウェスタンは大流行りで、誰も彼もがコルトやS&Wなんてな銃メーカーの名前を知っていて、おもちゃの銃を一丁は持っていた。
 かく言う我が手元にも、銀色で把手が赤の銃がいまでも一挺残っている。

 当時、その2軒の店舗があるだけでもハイカラな印象の街だったが、歩行者天国実施前には、それほどの賑わいはなかった。ただ一年に二度だけ、どこからこれほどの人が湧き出るのかという日があった。

 まずは、初詣。これは今も変わらないが、押しつぶされそうな賑わいだった。原宿駅が臨時の改札を作り、天皇陛下の御召列車の発着スペースに出入りできたような記憶がある。これは記憶違いかもしれない。
 もう一日は、11月3日=文化の日だが、前夜から表参道を夜店が埋め尽くした。いま思いつくあらゆる夜店が立ち並び、半端ない人の波で溢れた。
 前夜祭とでも言うべき11月2日の夜は、時間の経つのも忘れ走り回り、大人たちも大目に見てくれた。代々木側の北参道には、当時の祭りに欠かせないジンタと共にサーカスがテントを張って人々を呼び込んでいた。一番印象に残っているのは網目状の球形の中をオートバイが天地左右を厭わず疾駆するアトラクションだった。猫娘もいた。大イタチもあった。そこはかとなくイカガワシイような、ワクワクドキドキ胸の高鳴る一夜だった。野外映画の映写会もあったような記憶がある。

 昭和36年に、東京オリンピック開催もあって米軍による接収が解除され、オリンピック選手村を経て現在の代々木公園となった。
 原宿が、お洒落な街として賑わうようになったきっかけは、同潤会青山アパートメントにクリエイティブなアーティストが居を構えて「プライベートブランド」ショップを立ち上げたことがひとつある。また歩行者天国が実施され、新宿や渋谷ほど人がおらず、広々とした道(参道!)で自由な表現ができたこともあるだろう。その一つが竹の子族などだった。
 
 いまとなっては当時のことを知る人も少なくなっているのだろうが、目をつぶると当時の光景が鮮明に思い浮かぶ。
 なにか本当にいい時代だったな。
 人が人としてきちんと生きていられたような気がする。

 竹下通り側はまた別の機会に。
 
 次回は意外な場所、外苑の絵画館前。これがまた意外な歴史があったのだよ。