普通な生活 普通な人々

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生かすための、自死。

2011-07-27 19:32:25 | まあまあ社会<的>な
 自死を考える。
 自殺ではない、自死。
 自殺は自分を殺すと書く。そこには自分自身への否定がある。
 特段に何かが違うわけではないのかもしれない。自分の意思で死のうと、他人に殺されようと、自分に殺されようと結局は死ぬ。

 どんな言い方をしたところで自死は自死なのだが、むしろ積極的な意志として、誰かの役に立つのであれば喜んで死ぬ、という人は少なくなかろう。
 ボクの奥さんの父親(義父です)は、既に病気で亡くなって10年が経つが、敗戦直前に入隊した特攻隊員だった。彼は死の直前まで特攻隊員として共に過ごした仲間と飲みに行くなど、同じ時を過ごすのを楽しみにしていた。死を共通のテーゼとして抱えていた、死を眼前にしたことのある者たちは、常人にははかり知ることのできない絆で結ばれていたに違いない。
 特攻隊員は、何のために積極的な自死へと赴いたのだろうと考える。
 「お国のため」といいながら実は「お母さ~ん!」と叫びながら死んでいったとも言われるが、残された者を守るために、彼等が自ら死んでいったという事実は否定できない。薬の力で無理矢理送り出されたなどという輩もいるが、それは、たとえ恐怖にさいなまれた状態だったとしても実際に散った特攻隊員への冒涜的発言と言ってもいい。
 彼等は等しく使命に散ったと考えるのが妥当だろう。でなければ彼等の死は「犬死」になってしまう。

 積極的な自死というものは、これからも積極的に考えていかざるを得ないテーマであり、最も身近な命題ということになろうか。
 死を、自分のエキゾティックな生の「刺身のツマ」扱いしてはならない。
 いまという時の中での、自死を考える。