全然無関係なのだが、カテゴリー→ジャンルを探していたが、「歴史」というジャンルがない。びっくりだね。
昭和33年の冬、それまで住んでいた上板橋のハモニカ長屋から、荻窪の公団住宅に引っ越した。これは画期的な出来事だった。
当時僕は小学校三年生で、板橋から文京区立窪町小学校に越境入学していた。越境入学の理由は、今は筑波大学となっているが、当時の東京教育大学附属小学校の入学試験に落ち、しゃくにさわって隣にあった窪町小学校に通うことにした、ということになっていた。本当のところは不明。
確か季節は冬。ニ学期の終業式当日だったような……。
上板橋から窪町小学校に出向き、帰りは荻窪に帰った。よく考えれば、10歳の小学校3年生にはかなり無謀な行程だったような気がする。なにしろ荻窪なんぞは、行ったことも聞いたこともなかったから。
当日の朝、帰りは荻窪まで来るようにと言われ、心細いなんてものではなくて、当時の学友に先生(中村先生!)に促されてサヨナラの挨拶をし帰路についたが、心此処にあらず的な浮き足立った感覚を覚えている。
営団地下鉄丸の内線の茗荷谷が学校への下車駅だった。いまの感覚で行けば、それなら茗荷谷から荻窪まで一本じゃないか、と言いたいところだろうが、丸の内線、当時はまだ荻窪まで開通していなかった。池袋から霞が関までしか開業していなかったと思う。
どんな行程で茗荷谷から荻窪まで行ったのか定かではないが、その夜にはきちんと荻窪で食事をした記憶があるから、ちゃんと行けているわけだ。
いろいろな方法があった思うが、おそらく、茗荷谷から池袋(2駅)へ出て、省線(と昔は言ったのだよ)に乗って新宿へ出て、当時は高尾ではなく浅川行きといった中央線に乗って行ったのか、あるいは、新宿で降りて淀橋方面に向かって大ガードを抜けて歩き、都電に乗っていったか、いずれかだろうが、そこのところの記憶は曖昧だ。
どちらかと言えば、都電で行った公算が大きい。というのも、4歳年上の姉が、当時まだあった淀橋浄水場近くの精華女学園中等部に通っていて、記憶にはないのだが、彼女と待ち合わせて帰ったと考えるのが最も妥当だ。そうなれば都電で帰るのが最も自然だ。
当時、都電は東京を縦横に走り回っていた。ボクがやはり最も馴染んでいたのは杉並線で、新宿の大ガードを超えたすぐの所に、熊の胃の宣伝だったか何か(ジンギスカン料理屋!?)で大きな熊の絵だったか彫刻だったかがあって、その前辺りに停車場があった。それに乗れば、終点の荻窪駅近くまで連れていってくれた。
都電荻窪駅は、新宿から向かえば荻窪陸橋を越えた北口側にあった。
ただ、営団の丸の内線が荻窪まで乗り入れた昭和37年の翌38年には廃線になった。だからボクが乗ったのも、約4年間程度だったという計算になる。
そういえば、当時の東京の交通事情を、次回は書き残そう。なんだかカオスだったのだよ。面白かったというべきか。
昭和33年の冬、それまで住んでいた上板橋のハモニカ長屋から、荻窪の公団住宅に引っ越した。これは画期的な出来事だった。
当時僕は小学校三年生で、板橋から文京区立窪町小学校に越境入学していた。越境入学の理由は、今は筑波大学となっているが、当時の東京教育大学附属小学校の入学試験に落ち、しゃくにさわって隣にあった窪町小学校に通うことにした、ということになっていた。本当のところは不明。
確か季節は冬。ニ学期の終業式当日だったような……。
上板橋から窪町小学校に出向き、帰りは荻窪に帰った。よく考えれば、10歳の小学校3年生にはかなり無謀な行程だったような気がする。なにしろ荻窪なんぞは、行ったことも聞いたこともなかったから。
当日の朝、帰りは荻窪まで来るようにと言われ、心細いなんてものではなくて、当時の学友に先生(中村先生!)に促されてサヨナラの挨拶をし帰路についたが、心此処にあらず的な浮き足立った感覚を覚えている。
営団地下鉄丸の内線の茗荷谷が学校への下車駅だった。いまの感覚で行けば、それなら茗荷谷から荻窪まで一本じゃないか、と言いたいところだろうが、丸の内線、当時はまだ荻窪まで開通していなかった。池袋から霞が関までしか開業していなかったと思う。
どんな行程で茗荷谷から荻窪まで行ったのか定かではないが、その夜にはきちんと荻窪で食事をした記憶があるから、ちゃんと行けているわけだ。
いろいろな方法があった思うが、おそらく、茗荷谷から池袋(2駅)へ出て、省線(と昔は言ったのだよ)に乗って新宿へ出て、当時は高尾ではなく浅川行きといった中央線に乗って行ったのか、あるいは、新宿で降りて淀橋方面に向かって大ガードを抜けて歩き、都電に乗っていったか、いずれかだろうが、そこのところの記憶は曖昧だ。
どちらかと言えば、都電で行った公算が大きい。というのも、4歳年上の姉が、当時まだあった淀橋浄水場近くの精華女学園中等部に通っていて、記憶にはないのだが、彼女と待ち合わせて帰ったと考えるのが最も妥当だ。そうなれば都電で帰るのが最も自然だ。
当時、都電は東京を縦横に走り回っていた。ボクがやはり最も馴染んでいたのは杉並線で、新宿の大ガードを超えたすぐの所に、熊の胃の宣伝だったか何か(ジンギスカン料理屋!?)で大きな熊の絵だったか彫刻だったかがあって、その前辺りに停車場があった。それに乗れば、終点の荻窪駅近くまで連れていってくれた。
都電荻窪駅は、新宿から向かえば荻窪陸橋を越えた北口側にあった。
ただ、営団の丸の内線が荻窪まで乗り入れた昭和37年の翌38年には廃線になった。だからボクが乗ったのも、約4年間程度だったという計算になる。
そういえば、当時の東京の交通事情を、次回は書き残そう。なんだかカオスだったのだよ。面白かったというべきか。