河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

私と歩行分析 4

2008-01-25 | 私と歩行分析
3.アメリカ留学時代(平成6年4月~)

平成5年4月に岡山大学医学部附属病院に呼び戻され早朝から深夜まで働く毎日になった。
大学病院で特に良かったのは週2回行われていた筋電図外来を担当できたことで、神経伝導速度検査、針筋電図検査などある程度こなせるようになったことである。これは現在行っている動作筋電図の計測に非常に役立っている。
病棟では整形関連の腫瘍患者を受け持つことが多かったが、これも大学病院ならではの経験であった。

そんな中で、留学の許可が出たので、吉備高原医療リハセンター時代に論文を読んで知ったメイヨークリニックのDr. Chaoに手紙を書いた。結局、手紙はメイヨークリニックではなくジョンス・ホプキンス大学から返ってきた。

以下の文章は、留学中の私が岡大整形外科の同門会誌に寄稿した文章である。

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                  アメリカ留学記
                    河村顕治

「アメリカ」という国は私にとって常にあこがれの対象であったような気がします。中学生になって英語を習い始めた頃、英語を一生懸命勉強していればそのうちアメリカにも行けるかもしれないなどとぼんやり考えていました。医学生の頃も、大学を休学してアメリカに行った友人がうらやましくて仕方がなかったことがありました。ついに卒後10年目という節目にチャンスに恵まれ1年間アメリカで勉強ができるようになり、長年の夢が叶ったというわけです。
 昨年6月に、井上教授よりどこか留学できるところを探してみなさいと声をかけていただき、だめでもともととばかりにとりあえずメイヨークリニックのDr. Chao宛てに手紙を送ったのがそもそもの始まりでした。返事ももらえるかどうか判らなかったので、その後もいろいろとつてを頼って留学先を探していましたが、何と8月になってジョンスホプキンス大学(JHU)からDr. Chaoの返事が返ってきたのです。私は知りませんでしたが、Dr. ChaoはメイヨークリニックからJHUに移ったばかりだったのです。その後9月に来日したDr. Chaoと東京で面会し、留学を許可していただきました。しかし、正式の手続きの過程で、今から思うと簡単なことでしたが、知識がないため色々な行き違いがあり非常に苦労しました。年が明けてJ1ビザを取るのに必要なIAP-66が届いたときの嬉しさは何とも言えないものでした。(後になって判ったことですが、何のつてもなく受け入れが許されたのは、たまたまDr. Chaoがリハビリテーション関係の新しいプロジェクトを始めようとしていた時期にタイミングよく私の手紙が届いたためで、非常に幸運でした。メイヨークリニックなどは無給という条件にもかかわらず、世界中から50人近い留学希望者がいて、よほど強い関係がないとすぐには受け入れてもらえないと聞きました。)そのような経緯で、1994年4月1日より1年間の予定でメリーランド州ボルチモアのジョンスホプキンス大学整形外科で、Dr. Chaoの指導の下、リサーチフェローとして研究生活を送っています。
 ボルチモアはアメリカの都市の中でも最も古い町の一つで、北へ車で4時間走ればニューヨーク、南へ1時間走ればワシントンという地理的位置にあります。ここにはインナーハーバーと呼ばれる美しい港が町の中心部にありいつも観光客で賑わっています。アメリカ人ならば誰もが知っていますが国歌が誕生した町でもあります。港口にはフォート・マックヘンリーという要塞が今でも残っていますが、独立後間もない1812年アメリカはイギリス海軍の攻撃をうけ、首都ワシントンを一時的に占領されるという恥辱を受けました。勢いに乗ったイギリス軍はその後ボルチモアを攻めにかかるのですが、この時ワシントンの検事フランシス=スコット=キイは捕らえられて敵軍の船上から観戦させられるはめになります。激しい戦闘の後一夜明けて、フォート・マックヘンリーに白旗が掲げられるのではないかと恐れていた彼の目に映ったものは、城壁に依然としてひるがえる星条旗だったのです。キイがこの時の感激を一気に書き上げたのが、今のアメリカ国歌『スター=スパングルド=バナー』なのです。
 ジョンスホプキンス大学は昨年に引き続き、大学総合で全米で最も優れた医療機関として選ばれ、整形外科単独でも全米で第4位にランクされました。JHUの整形外科の初代教授はRobert Alexander Robinsonで頚椎前方固定などで有名です。現在はProf. Staufferを筆頭に人工膝関節で有名なDr. Hungerfordを始め、脊椎、ハンドなど各分野で著名な人材を有し、さらにバイオメカニクスを研究するDr. Chao とBMPなどの分野を研究するDr. Reddiの主宰する二つの大きな研究室があり基礎的研究を推進する大きな力となっています。
 JHUでは今年度ちょうど百年祭が行われています。つまり1893年10月に設立されたのですが、これは主にJohns Hopkinsという個人の貢献によるものです。彼はタバコ農家の次男としてメリーランドに生まれ、17歳の時にHopkins Brothers商会を設立します。その後商才を顕し一生の間に財を貯え、結婚もしなかったためこれをすべて自分の夢であった大学設立のために投じました。彼は知識と人間性を愛していたので、ボルチモアにその中心となる大学と病院を作りたかったのです。こうして、1867年に700万ドルを基金としてJHU設立委員会が発足しますが、このような莫大な基金でも医学部設立にはまだ不十分でJohns Hopkinsは自身で夢を果たすことなく1873年に志半ばで亡くなってしまいます。しかし彼の理想は今日に至るまで生き続けているのです。
 さて、アメリカの生活は英語を喋る以外は基本的に日本と何ら変わるところがなく、1カ月も経ったころにはすっかり慣れてしまいましたが、研究室の生活はなかなか大変です。Dr. Chaoは仕事となると非常に厳しい人で、毎週月曜日のリサーチミーティングで、一人一人研究の進行状況を報告させられています。また、毎週金曜日にはスタッフミーティングがありDr. Chaoから1週間分の伝達事項やいろいろなお話があるのですが、先日のミーティングでは、Prof. StaufferとDr. Chaoの目標として、"To become the best ACADEMIC
Orthopaedic Surgery Department in the world within ten years."ということが強調されていました。また、論文の書き方とか、人生論・哲学のようなことにまで話が及びます。ミーティングにこれほど時間をかけるのは、今この研究室が成し遂げようとしていることに対する共通認識を形成することと、お互いが仲間であり助け合いながら仕事をしていくのだと言うことを徹底させるのが目的のようです。Dr. Chaoのお話は多分に教訓的で、日本人には理解できますが、アメリカ人スタッフにはなぜそこまで細かなことを言うのか理解できないようです。私自身アメリカのフランクな雰囲気を期待していただけに、日本以上に厳しい環境に戸惑っています。研究は全て個人のスタンドプレーで行うのではなく、グループで行うのが基本です。バイオメカニクスという研究の性質上、コンピュータープログラミングのようなテクニカルな問題は主に工学部卒のPh.D.が受け持ち、クリニカルな問題はM.D.が受け持つというのが一般的です。毎日そここでディスカッションしている風景が見られます。
 アメリカではDr. Chaoのようなビッグネームでもグラントが取れないと研究室の存続すらできず、またそれだけでは不十分で企業の研究を請け負ったり、大学や病院から補助を受けたり、とにかく研究に割く努力よりも、経済的援助をどのようにまかなうかが第一のように見えます。資金がないことには研究そのものができないのでやむをえません。現在アメリカでは研究費は縮小の傾向にあり、どこの研究室も危機的な状況にあるように聞いています。そのような状況の中でも、Dr. Chaoは3カ所もの研究室を運営しているのですからただ者ではありません。JHUの大学内とグッドサマリタン病院および小児病院内にあるベネットインスティチュートにそれぞれ岡山大学医学部整形外科の医局の広さ程の研究室を持っています。特にベネットなどはまるで体育館のようで、ここでは動作解析の研究を行っています。野球をする人にはうらやましがられるかもしれませんが、大リーガーのピッチャーの投球動作の分析等も行っています。といいますのも、ボルチモアにはオリオールズという古い球団があるのです。
 ところで、肝心の私の仕事の内容ですが、動作解析、リハビリテーションに関するプロジェクトが担当です。例えば膝のリハビリテーションのプロジェクトについて説明しますと、Dr. Chaoの研究室ではこれまでにかなりの年月をかけて開発を続けてきたワークステーション上で動く膝関節の3次元シュミレーションモデルがあり、これにいろいろな膝関節のリハビリテーションのデータを入力して、ACLや関節面にかかる力を求めようというものです。そうした研究の目標はコンピューターを用いて、膝関節の理想的なリハビリテーションを開発しようということです。このように書くとなんとも簡単に聞こえますが、とんでもない大変な仕事です。
 3次元シミュレーションモデルを作るノウハウは秘密だから漏らしてはいけないと言われていますが、こっそり報告致します。まず、冷凍した cadaver(屍体)を2~3mm毎にハムのように薄切りにして行き、1枚1枚その切片の映像をコンピューターに取り込んでいきます。10日程かけて1体で400枚位のスライスを作ります。このスライス全てについてシリコングラフィックスという映像に強いコンピューター上で特殊なソフトを用いて骨や筋肉をトレースすると、3次元の立体モデルが構成されるわけです。これはまだ下準備で、このモデルに靭帯や軟骨の設定を加えてやらなければならず、完成までにはまだまだかかりそうです。このモデルの上で数種類のリハビリテーションのデータを入力するわけですが、そのデータは実際に被験者にその動きをさせて、膝関節トルクや筋電波形を計測しなければなりません。
 Dr. Chao の研究室の主要なテーマは3次元 Rigid Body Spring Model(RBSM:剛体バネモデル)によるforce analysis及びpreope. planningであり、手関節、股関節、足関節、さらに脊椎に関するリサーチも行われております。これらの研究は OASISの延長線上にあるものだと私は理解しています。0ASISというのは Osteotomy Analysis Simulation Softwareの略で、Dr. Chaoがメイヨークリニックで完成させたシステムです。HTOや膝関節の上下のDouble Osteotomyについての2次元シミュレーションシステムで現在では既に市販されています。2次元での研究は既に数多く発表されていますが、3次元での研究はまだまだこれからで、現在激しい競争が行われています。
 コンピューターシミュレーションがどうして医学的研究の対象になるのか判らないという方も多いと思いますが、確かにコンピューターの上で理屈をこね回すだけでは研究とは言えず、それを証明(validation)しなくてはなりません。しかしまさか生体で確かめるわけにも行きませんので、cadaver(屍体)等を用いる訳です。アメリカでこのような研究が盛んに行われているのはcadaverがふんだんに手に入るということと無関係ではありません。余談ですが、運転免許を取りに行ったときdonorになるか否かというチェック項目があったのですが、もしYESにチェックを入れると免許証にその旨記載され、万が一の場合いやおうなく病院に運び込まれて貴重な実験材料の一体となるそうです。この話は他の研究室で実際にcadaverを用いて脊椎のバイオメカの研究をしている先生から直接伺ったので、信憑性は高いと思います。ちなみに私はよく判らなかったせいもあり家内と相談した上とりあえずdonorの欄は空白にしておきました。後でほっと胸をなで下ろした次第です。何故と言って、たとえ死んでも異国の地でハムのようにスライスされるのはごめんですから。
 研究だけでなく、臨床の勉強をするチャンスも無数にあり、毎週木曜日と土曜日には早朝からJHUの整形外科全体でクリニカルカンファレンスがあり、最先端の情報に触れることができます。また、各施設毎にレクチャーが行われています。例えば月曜日にはグッドサマリタン病院でDr.Hungerfordの講義があります。これは早朝の6時半からわずか4~5人のレジデント対象にHungerford自らが講義をしてくれるというものです。6時半と言ってもサマータイムですから実際には5時半です。こちらでは大学のあるポスト以上の人は教育をきちんと行うことが義務になっているようですが、それにしてもレジデントにとっては恵まれた環境です。大体3カ月単位で脊椎、ハンド、スポーツ医学などの特徴のある病院をローテイトして教育を受けるようです。
 また、JHUでは色々な学会が催されるので、それに無料で参加できるのも魅力です。たとえば、6月上旬には Bone Morphogenetic Protein のInternational Conferenceが行われました。これはDr. Hari Reddiが主催したもので、日本からもたくさんの参加者がありました。特に名古屋大学からは岩田教授が学会運営委員会のメンバーであったことから大勢の参加があり、学会前夜に家内共々岩田教授と教室員の先生方をメリーランド名物のかにを食べさせるレストランにご案内したところとても喜ばれました。このレストランはスパイスで味付けしたかにを新聞紙の上にぶちまけて木槌でたたき割りながら食べるという当地では有名な店です。肝心の学会は私には少々難解でしたが、BMPの発見者である Dr.  Marshall R. Uristの記念講演を聞くことが出来たのは幸いでした。最終日の夜のパーティーはちょうどDr. Uristの80数回目の誕生日でもあり、みんなで起立してHappy Birthday to Youを歌いました。まるでDr. Uristをたたえるための学会であるかのようで、心温まるすばらしい一夜でした。
 最後に日本人フェローが必ず直面する問題、すなわち英語について触れたいと思います。結論から言うとどうも短期間に本物の英語力をつける虫のいい方法はなさそうだということです。私自身の経験ですが、最初Dr. Chaoの研究室のミーティングに出席した時、みんなの喋っていることがほとんど聞き取れず、これで本当に1年間仕事になるのだろうかと呆然としました。しかし、1カ月、2カ月と経つうちにいろいろなバックグランドの情報が蓄積され、急速に話の内容が判るようになっていきました。アメリカ人は普通に喋るとスピードが速いことに加えて、イディオムや略語を多用するので、日本でいわゆる英会話をいくら勉強しても限界があります。スーパーで買い物をしてレジで支払いをしようとすると必ず『Paper or plastic?』と聞かれます。一瞬plastic moneyなどという言葉が脳裏をかすめキャッシュ(紙)かカードかどちらで支払うのか聞いているのかなと思いますがさにあらず。これは紙袋とビニール袋(plastic bag)のどちらに物を詰めますかと聞いているのです。『ASAP.』と言われて何のことか判るでしょうか。これは『As soon as possible.』のくだけた言い回しです。一時が万事この調子です。
 とにかくこの研究室はまだまだ研究が軌道に乗ったわけでなく、初期の不安定さのためDr. Chaoは非常に苦労しているように見受けられます。もちろんその下で仕事をしている我々も同様です。仲間同士で教え合いながらなんとかやっている現状です。しかしながら、できるだけ見聞を広め、何らかの成果をあげるべく努力したいと思っています。
 末筆ながら、このような機会を与えて下さった井上教授をはじめ、お世話になりました諸先生方に厚く御礼申し上げます。 
                        (昭和60年入局)

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