1.吉備高原医療リハビリテーションセンター時代(昭和62年4月~)
昭和60年3月に岡山大学医学部を卒業し、1年間大学病院で研修を行い、2年目に水島中央病院で臨床の第一線で整形外科外傷のトレーニングを受けた。年間手術件数が1000例を超えるような病院で自分が人間の修理工になったような気分だった。
年が明けて昭和62年になり、医局から次は新しくできた吉備高原医療リハビリテーションセンターへ行くようにと指示が来た。
吉備リハの初代院長は岡大医学部卒業生なら知らぬものはない泣く子も黙る武智先生である。
4月の赴任まで眠れぬ日が続いた。
昭和62年4月になり吉備リハに赴任し、病院に併設された宿舎に入った。
病院は6月がオープンでまるまる2ヶ月準備作業だけという毎日となり、それまでの外来と手術、当直、自宅待機という24時間労働体制からいきなり何もない自由な生活になってしまった。
恐れていた武智院長は意外と優しく、好きに過ごせばよいと言って下さった。
新しくできた吉備高原医療リハセンターには予算を惜しむことなくあらゆる設備が整っていた。
その中の一つがアニマ社製の床反力計測システムだったのだ。
何しろ暇でやることがないので、医局でタイプライターに向かってブラインドタッチの練習をしたり、いろいろな計測システムの使用練習をしたりしてあとは医局でコーヒーを飲みながらただだべっていた。
何事も良い面もあるわけで、このとき暇に任せて練習したタイプライターの練習が、今パソコンのキータッチに役立っている。
武智院長からせっかく設備があるのだから床反力計を使って何か研究をしなさいと言われ、とりあえずとにかく正常データを取ってみようと研究計画を立てた。
吉備リハのシステムの特徴は床反力計の上に3度、6度、9度、12度の傾斜の坂道を設置できることだった。
このようなシステムが導入されたのは、武智院長が病院の構想段階で名古屋の労災リハ工学センターの設備を視察したからではないかと想像している。
私もずっと後になって知ったのだが、労災リハ工学センターには早くから坂道の歩行路が設置されていた。
そこで、男性20人、女性20人くらいの坂道歩行のデータを取ってみようとした。
被験者は全員若い病院職員で、男性はPT,OT等の職員、女性は若い看護師に依頼した。
やる気満々で計測を始めようとしたら院長室に呼び出された。
何事かと思いおそるおそる出頭すると、無断で看護婦に被験者をやらせるとは何事だとすごい剣幕でしかられた。
その頃はまだ分かっていなかったが、労災病院の看護部は強力だった。
床反力の計測をする時には当然体重を計測するわけで、今も昔も若い女性は自分の体重を他人に知られるのは極端にいやがる。
今考えるとセクハラとかパワハラで訴えられてもしかたがなかったかもしれない。
私は研究をやるぞと高邁な理想に燃えていたのだが、被験者を依頼した若い看護婦さんは体重を計測すると分かってとたんに憂鬱になり、婦長に伝え、婦長が看護部長に伝え、看護部長が院長に怒鳴り込んできたという次第だった。
武智院長は、当初の研究計画を話すと、歩行に男女差などあるわけでないから、女性の被験者はいらないとおっしゃる。
そんなものかと、実験計画は若年健常男性だけ計測することになった。
当時の計測システムはNEC9801で、フロッピーディスクは5インチだった。
なつかしいパソコンがやっと社会に普及し始めた時代だった。
男性の計測だけに絞り込めば計測にトラブルはあるはずもなく、順調にデータは蓄積されていった。
この時の研究結果で一番特徴的だったのは、坂道歩行でも立脚期と遊脚期の比率は平地歩行と全くかわりのない6:4であるという結果だった。
これらの結果は学会発表も行い、英文で論文も書いた。
その頃、論文を書くのに使ったパソコンはやはり出たばかりのNEC9801 LS5というプラズマディスプレーを持ったラップトップで重量が10キロもあった。
それを病院と宿舎と持ち歩いて原稿を書いていたのである。
思い返すと、床反力だけで分かる情報は非常に限られており、その割にはシステムは非常に高価でコストパフォーマンスの悪い研究だったと思う。
当時は関節角度を計測するのにはジャイロセンサーを使っていたが、これもデータのキャリブレーションが難しいやっかいなシステムの割には高価であった。
時代はバブルが始まろうかという頃で、西日本で初めて公立の大きなリハセンターを作るというプロジェクトと、岡山県で長期にわたって知事を務めた長野県知事が最後の大仕事として岡山県のど真ん中に山を削って保健福祉を中心とした吉備高原都市を造るという話が一体化して吉備高原医療リハセンターが作られた。
その一環として、歩行分析システムも整備されたので予算を惜しむことがなかったのだろうと思う。
私は幸か不幸かそのようにして歩行分析に巻き込まれていったのだった。
昭和60年3月に岡山大学医学部を卒業し、1年間大学病院で研修を行い、2年目に水島中央病院で臨床の第一線で整形外科外傷のトレーニングを受けた。年間手術件数が1000例を超えるような病院で自分が人間の修理工になったような気分だった。
年が明けて昭和62年になり、医局から次は新しくできた吉備高原医療リハビリテーションセンターへ行くようにと指示が来た。
吉備リハの初代院長は岡大医学部卒業生なら知らぬものはない泣く子も黙る武智先生である。
4月の赴任まで眠れぬ日が続いた。
昭和62年4月になり吉備リハに赴任し、病院に併設された宿舎に入った。
病院は6月がオープンでまるまる2ヶ月準備作業だけという毎日となり、それまでの外来と手術、当直、自宅待機という24時間労働体制からいきなり何もない自由な生活になってしまった。
恐れていた武智院長は意外と優しく、好きに過ごせばよいと言って下さった。
新しくできた吉備高原医療リハセンターには予算を惜しむことなくあらゆる設備が整っていた。
その中の一つがアニマ社製の床反力計測システムだったのだ。
何しろ暇でやることがないので、医局でタイプライターに向かってブラインドタッチの練習をしたり、いろいろな計測システムの使用練習をしたりしてあとは医局でコーヒーを飲みながらただだべっていた。
何事も良い面もあるわけで、このとき暇に任せて練習したタイプライターの練習が、今パソコンのキータッチに役立っている。
武智院長からせっかく設備があるのだから床反力計を使って何か研究をしなさいと言われ、とりあえずとにかく正常データを取ってみようと研究計画を立てた。
吉備リハのシステムの特徴は床反力計の上に3度、6度、9度、12度の傾斜の坂道を設置できることだった。
このようなシステムが導入されたのは、武智院長が病院の構想段階で名古屋の労災リハ工学センターの設備を視察したからではないかと想像している。
私もずっと後になって知ったのだが、労災リハ工学センターには早くから坂道の歩行路が設置されていた。
そこで、男性20人、女性20人くらいの坂道歩行のデータを取ってみようとした。
被験者は全員若い病院職員で、男性はPT,OT等の職員、女性は若い看護師に依頼した。
やる気満々で計測を始めようとしたら院長室に呼び出された。
何事かと思いおそるおそる出頭すると、無断で看護婦に被験者をやらせるとは何事だとすごい剣幕でしかられた。
その頃はまだ分かっていなかったが、労災病院の看護部は強力だった。
床反力の計測をする時には当然体重を計測するわけで、今も昔も若い女性は自分の体重を他人に知られるのは極端にいやがる。
今考えるとセクハラとかパワハラで訴えられてもしかたがなかったかもしれない。
私は研究をやるぞと高邁な理想に燃えていたのだが、被験者を依頼した若い看護婦さんは体重を計測すると分かってとたんに憂鬱になり、婦長に伝え、婦長が看護部長に伝え、看護部長が院長に怒鳴り込んできたという次第だった。
武智院長は、当初の研究計画を話すと、歩行に男女差などあるわけでないから、女性の被験者はいらないとおっしゃる。
そんなものかと、実験計画は若年健常男性だけ計測することになった。
当時の計測システムはNEC9801で、フロッピーディスクは5インチだった。
なつかしいパソコンがやっと社会に普及し始めた時代だった。
男性の計測だけに絞り込めば計測にトラブルはあるはずもなく、順調にデータは蓄積されていった。
この時の研究結果で一番特徴的だったのは、坂道歩行でも立脚期と遊脚期の比率は平地歩行と全くかわりのない6:4であるという結果だった。
これらの結果は学会発表も行い、英文で論文も書いた。
その頃、論文を書くのに使ったパソコンはやはり出たばかりのNEC9801 LS5というプラズマディスプレーを持ったラップトップで重量が10キロもあった。
それを病院と宿舎と持ち歩いて原稿を書いていたのである。
思い返すと、床反力だけで分かる情報は非常に限られており、その割にはシステムは非常に高価でコストパフォーマンスの悪い研究だったと思う。
当時は関節角度を計測するのにはジャイロセンサーを使っていたが、これもデータのキャリブレーションが難しいやっかいなシステムの割には高価であった。
時代はバブルが始まろうかという頃で、西日本で初めて公立の大きなリハセンターを作るというプロジェクトと、岡山県で長期にわたって知事を務めた長野県知事が最後の大仕事として岡山県のど真ん中に山を削って保健福祉を中心とした吉備高原都市を造るという話が一体化して吉備高原医療リハセンターが作られた。
その一環として、歩行分析システムも整備されたので予算を惜しむことがなかったのだろうと思う。
私は幸か不幸かそのようにして歩行分析に巻き込まれていったのだった。