太宰治「富嶽百景」に、まだこだわっている。
青空文庫縦読みテキスト「えあ草紙」のお世話になつて、叙述順に従ったエピソードや作家の本音らしき述懐、そしてこの小説のテーマではないのだろうが、天下茶屋の15歳の娘と作家(30歳前後か)との淡い心の交流について、大学ノートに抜き書きをしながら読む。デガダンで性格破産者(吉田の新田青年が「佐藤春夫の小説に書いていたとコメントしていた)の太宰には、茶屋の娘は聖女のような存在だったのではないだろうか。
どうでもいいことかもしれないが、この作品で太宰は御坂峠からの富士を「冨士三景」と記しているが、あとの「二景」はどこなのか、インターネットで検索しても出てこない。昭和初期には、世間の常識だったのだろうが、現代においては誰も関心がないようだ。今度、天下茶屋に行って店の人に聞いたら、あるいは分かるかもしれないが、分からないとモヤモヤが募る。静岡の三保の松原からの富士は、現在「新日本三景」、「日本三大松原」に選ばれているが、「冨士三景」かどうか確認できない。
「冨士には月見草がよく似合ふ」というこの小説の核となる叙述。
バスで出会ったこれも聖女のような老婆がバスが走っていく道沿いの月見草を見て、「おや、月見草」と言ったことが、太宰のこの名言を生み出し、その後、太宰が手の手のひら一ぱいの月見草の種を天下茶屋の背戸(裏口)に播いたのもこのバスの件が理由。
オイラは、今度天下茶屋に登ったら、茶屋の周りに太宰が播いた月見草(マツヨイグサ)の子孫がまだ咲いていてくれるかということに興味を抱いている。
さらに、あらためてこの月見草に関するエピソードを読み込むと、次のことか分かった。(あくまでの事実にもとづく記載だと信じてだが)
① 太宰は、御坂峠の天下茶屋に9月から11月はじめまで逗留し、出来上がった原稿などを差し出すために、麓の河口集落にある郵便局までのバスを利用していた。
② 当時は、河口湖方面(船津集落のあつた今の河口湖駅や富士吉田市内)から甲府方面までは、いまの天下茶屋の目の前から旧御坂トンネルを経由する道路をバスが行き来していた。
*現在の河口湖・甲府間は、標高1010m「三つ峠入り口バス停」から新御坂トンネルを通るため、標高1300mの天下茶屋を通らない。(旧御坂トンネルをバスが走らない。)
③ 老婆は、河口湖の郵便局から御坂峠に到る甲府行き方向のバス通りで、富士が展望できる標高にバスが登っても、ひたすら山の崖側に目をやっていた。その道は、おそらく現在の山と高原地図に「御坂みち」と標示される「三つ峠入り口」から「三つ峠登山口」までの間の道で、月見草が咲いていたのもその道の崖側(山側)ということになるのだろう。
以上のことから、「御坂みち」の山側にもしかしたら老婆と太宰に「冨士によく似合ふ」と思わせた黄色い花の子孫たちが今も元気に花開かせているのでないかと考え、オイラはこの道も歩いてみようという気になった。山と高原地図によると、三つ峠入り口から三つ峠登山口までの歩行時間は1時間、標高差にして300m程度なので、そんなに負担にもならないだろう。天下茶屋へは、登山口から25分とある。このコースなら、月見草に出会う確率はあがり、文学散歩も完璧だ!
と、もっともらしい結論に達したのはいいが、実は・・(現在のバス運行図と時刻表をしらべたら)
現在は甲府まで行くバスは御坂峠(旧御坂トンネル)までは行かず、麓の新御坂トンネル経由だ。天下茶屋行の定期バスは観光用に1日1本あるだけで、それも、ずいぶんと遅い午前10時少し前河口湖発とあり、利用しにくく、しかもそのバスはすぐの折り返しで、あと帰りの便はない。なんという不便な1日1本なんだ。
そんなことで、やはり三つ峠に登って、天下茶屋にも行くには、1日に何本もある甲府行きのバスに乗って、麓の「三つ峠入り口」というバス停から歩いていくしか手段がないのだ。午前6時まえの始発に乗れれば、太宰がドテラ姿で歩いたという三つ峠までの道も歩けて、月見草に会えるチャンスも広がるだろう。
問題は天気だが、傘がさせる程度だったら、天下茶屋までは歩けるかな。(台風11号来るなよ!)
夕方開いて朝にしぼむので月見草と図鑑にあるが、昼の花は、全開ではないのか
だれが花粉を媒介してくれるのか・・など、マツヨイグサに疑問は尽きないが
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