かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

富士山卒業式の帰りに太宰治の月見草を探しに行こうか

2022-08-26 19:20:53 | 日記

もしかしたら、太宰治の作品では、あの戦争が始まる前、昭和14年に発表されたという「富嶽百景」との付き合いが長いこともあり、オイラにとっては、これが最も愛している作品と言えるのかもしれない。

たしか、高校時代の国語の教科書にも載っていたはず。おそらく全文掲載ではなかったかと思う。作品の一部分だけの切り取りか、抜粋部分の継ぎ合わせだったろう。

その教科書では、

① 太宰が先輩作家井伏鱒二さんの後を追いかけて御坂峠の富士山の展望がよい「天下茶屋」に秋のはじめから富士山頂が白く染まるころまで逗留したこと。

② 当初、太宰は、富士三景と賞されるほどだった茶屋からの富士を風呂屋のペンキ画と卑下するほど価値を認めていなかった。

③ 尊敬していた井伏さんと、ある秋のある日三つ峠山に登ったが、雲の中で富士山が見えず、不機嫌そうにタバコをふかしていた井伏さんがオナラをした様子が、抑制のきいたユーモアで描かれていたこと。その部分を抜き書きすれば、「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。いかにも、つまらなさうであつた。・・」とある。

④ 吉田から御坂峠に向かうバスのなかで、ひとりの老婆が他の遊覧客が富士山が望んでいる車窓とは反対の方向を見つめていいて、その孤高の姿に太宰が共感したこと。このくだりのおしまいの方で、その老婆が「おや、月見草」と路傍の花をゆびさしたシーンがあって、太宰は、「冨士には、月見草がよく似合ふ。」と表現したこと。

などの部分が記載されており、まるで④のところが、世間的な評判のくだりなのであり、オイラもこの作品のラストシーンだと長い間誤解していたようだ。後年、この作品を読んだら、このシーンは作品の半分を過ぎたあたりだと分かり、なんだか教科書に騙されたような気がした。。

とにかく、オイラはこの日記とも、紀行とも、フィクションとも言い難く、アイロニーやユーモアをちりばめながら、作家の苦悩というよりも、どこか生きていくことの辛さや悲しさが垣間見える太宰のこの作品が好きでたまらない。

9月の初め、富士山麓にも月見草(実際は、外来種のマツヨイグサだと思う)が咲いていてくれるだろうか。そして、「富嶽百景」には、上記④の伏線として、少し前にこんなくだりがある。


私は、どてら着て山を歩きまはつて、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとつて来て、それを茶店の背戸に播いてやつて、「いいかい、これは僕の月見草だからね。来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」娘さんは、うなづいた。


 

そうか、天下茶屋はあの時の建物がまだ残っているらしい。太宰が蒔いた月見草の子孫たちは、今も生きているのだろうか、それともフィクションにすぎなかったのか。確かめに行かねば。

何度か富士山周辺を歩いたが、天下茶屋には、まだ訪れていなかった。こんどの卒業式で河口湖に下りたら、もう一泊して、御坂峠の天下茶屋にバスで行ってみようか。天気が良かったら・・太宰がドテラ姿で登り、井伏さんが「放屁」した、あの三つ峠にも登ってみようか。大事なことを忘れていた。思い出してよかった。

 

 

        

         広瀬川河畔に咲きだしたマツヨイグサ

 

 

 

 

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