かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

もどっていたハクチョウさん一家

2021-12-06 06:13:44 | 日記

4、5日定点観測をしながら広瀬橋付近を走ったり歩いたりしていたが、すくなくとも2家族10羽来ていたオオハクチョウたちの姿を確認できなかった。先週の寒冷前線通過による大雨による増水で、どこか平穏な沼にでも引っ越していったのかと心配していたが、一昨日は広瀬川近くの葭原で鳴き声を聞いたような気がした。もしかしたら草原に避難していたのだろうか。

そして昨日の午後、広瀬橋付近にスロージョグで向かうと「いた、いた!」あの4羽の幼鳥一家と1羽の幼鳥一家プラス1羽の成鳥合計10羽と、それと成鳥3羽も増えている。一家族が合流してきたのかな。

「白鳥の湖」ではないが、ハクチョウたちは流れのない沼や湖で冬を越すのが一般的で理に適っていると思うのだが、首を丸めて休もうとしても流されるのでおちおち眠ってはいられないし、大雨だと増水し、いちいち避難を余儀なくされる川をどうして選択するのだろう。広瀬橋を毎年観察していると、やってくる個体数は同程度なので、代々、同じ家族がこの場所を覚えていてやってくるものと推測するが、湖沼より河川を選択するメリットはどこにあるのだろうか。まあ、広瀬川でも白石川でもやってくるのは流れが穏やかななポイントであることは間違いないが、疑問は解消されない。調べてみよう。

いずれにしても戻っていて安心したが、確認できたのは13羽。通りすがりの観察だけでは正確ではないだろうが、少し立ち止まるだけで汗が冷えていくような季節。昨日は日中でも6℃くらいと冷え冷え。

    

 


深田日本百名山登頂の思い出      92 大山(だいせん・1729米)

2004年か5年の秋だったか、広島での会合があった機会に米子までバスで行って大山に登った。ロングトライアスロンの聖地、皆生温泉に前泊し、翌日、米子から登山口の大山寺までバスで登った。今地図で見ると登頂が許されている弥山(みせん・1709米)までの夏山登山道は、ほんの2時間少しの登りだったのか。確かブナが繁っていた急登を少し登り、ダイセンキャラボクの茂みを抜けると、ウッドデッキのような木道が現れて、そこはもう山頂だった。ガスっていたのか、山頂からの展望の記憶はない。

下りは行者谷コースを歩いたんだと思う。振り返ると、ガスの晴れ間から崩壊が進むという北壁が現れだした。しばし、足を止めて大山の膨大なマッスと荒々しさに息をのんだことを鮮明に覚えている。

熊本地震のあった2016年4月、オイラは島根の奥出雲で開催されたウルトラマラソンに参加するために、大阪から松江行の高速バスに乗ったが、米子近くの車窓から雪を頂いた大山の姿をしげしげと眺めた。あの北面の荒涼とした姿が想像できないほどの秀麗な冨士の姿だった。

     

 

 

 

    

 

 

 

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オンラインNAHAマラソンの目標は5%以内に食い込むこと

2021-12-04 05:32:37 | 日記

12月に入り、当地では初雪も観測され、朝晩の野外活動は億劫になる季節となった。働いていた頃は、それでも朝のジョギングを日課としていたが、こちとら現在は無職、日中気温の上がった時間帯に走ったり歩いたりすればよい。「日向の道を歩けば、人生はきっと輝く」の精神で行こう。

オンラインでのNAHAマラソンは、いよいよあと10日ばかりとなった。正式の記録開始日から5日ばかり乗り遅れたスタートになったが、走っても歩いても1日10kmを目安に活動してきたら、当初は走行距離累積タイプ部門約1000人中100番台前半だったものが、いつの間にか、60~70位くらいの速報値が出てきた。

このような結果に気を良くし、参加者の5%以内の50位以内と目標を定めることにした。昨日、一昨日とウォーキングだが、15キロ程度と活動距離を伸ばしたが、今日からはハーフ20k程度と伸ばしていき、フィナーレの日は歩きと走りを入れて42.195kを走ろう(歩こう)。

このオンライン大会は、距離だけで評価されて、時間は不問だが、今の体力ではNAHAマラソン完走制限6時間15分はとうてい見込めないので、キロ11分以内ペースで8時間以内完走(歩)という数字を自分に課してみよう。当地は16時30分には陽が落ちるから、スタートは8時か・・・。辛いな。

これくらいやれば5%以内に食い込めるだろう。NAHAマラソンさん、三日坊主のだらしないオイラをこんなにも「やる気」にさせてくれてありがとう。

 


2,3日前の荒れた天気による増水でせいか広瀬橋のハクチョウ家族の姿が見えないのが気になる。

きのうは船形山系の峰々がよく見えるほどのいい天気だった。トレランザックにG3Xを仕舞い、しばらく観察を続けよう。

   

    後白髭山(左)と三峰山(右)、奥に船形山は見えていないか。

   

     ゴイサギ一家もまだ休んでいた。こどものホシゴイ君は少しこわいオメメ。

    

              オナガのカップルかな。

    

    青葉城のふもとのテニス場付近でイノシシの子が無心に草を食べていました。

    親がいないので、はぐれたのかもしれません。

 

 


深田日本百名山登頂の思い出  91 大峰山(おおみねさん・1915米)

 

和歌山勤務時代の1988から1989年の間に、スバルジャステイで長い林道をつたい、行者還りトンネル西口というスペースに駐車し、弥山(みせん・1895m)~最高峰八経ヶ岳(1915m)~釈迦ヶ岳(1799m)を往復している。記憶に乏しいが、今地図を見ると往路だけで7~8時間はかかりそうだから、弥山あたりにテン泊して往復してきたのだろう。釈迦ヶ岳の釈迦如来立像をいつまでも覚えているが、季節はいつだったか、オオヤマレンゲの記憶はない。

今でも日本で唯一女人禁制の山上ヶ岳(1719m)に登ったのは、別の機会だったか。当時の山と高原地図を開いたら、登山口となっている洞川(どろかわ)集落から山上川を少し遡った母公堂あたりにテント場のマークがあり鉛筆で囲っているので、そこにテントを張って山上ヶ岳と稲村ヶ岳(1726m)を周回してきたのだろう。山上ヶ岳下山中に登ってきた白装束のこどもたちに「よーまいり!」(よくお詣りしてきましたの意か)と大きな清らかな声であいさつされ、何と返事をすればいいか戸惑ったことを、今でも覚えている。

あの時から、30年以上の年月が経ち、こころに温めてきた「大峰奥駈道・おおみねおくがけみち」を踏破しようと、沖縄から帰った2019年5月の連休明けに、7泊8分の食料をつめ込んだザックを担いで吉野から歩き始めたが、縦走3日目、山上ヶ岳を下った小笹の宿のテン場から先の阿弥陀が森付近で、オイラは倒木地帯に踏み込んで道を失い、恐れをなして引き返し洞川に下って、翌日天川登山口から弥山に向かった。奥駈道の一部をワープして、弥山からせめて北部だけでも歩こうと試みたが、あいにく悪天予報が続いたので、弥山を登っただけでむなしく帰途に就いた。

クサリ場もある峻厳な奥駈道にはなにかの神力で跳ね返された思いだが、荷の軽量化をはかり、北部と南部を分割した計画で、何としても本宮の熊野大社までは辿り着きたいと思っている。体力もつけないといけない。はねつけられても、大峰山にはなにか特別の魅力がある。それは、原生の森に覆われた山岳の森羅万象と長い時間引き継がれれてきた人びとの祈りが融合している特別の場所だからかもしれない。

50年間トボトボと山を歩き続けてきた者の「集大成」として、またこの地に向かいたい。

 

     

        山上ヶ岳から大峰山北部の山を望む(2019)

 

     

      

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30年以上前の山と高原地図

2021-12-02 09:17:16 | 日記

日本百名山の思い出をたどろうとした試みも、とうとう90座目の「大台ヶ原山」まできてしまったが、近畿地方の二座「大台ヶ原山」と「大峰山」、四国の「剣山」と「石鎚山」は、オイラの和歌山勤務時代の2年間に登っている。昭和から平成へと変わる1988年ころか。

思い出してみれば、この2年間に登った山は数えるほどしかなく、上記の百名山に加えて和歌山県の最高峰「護摩壇山」ぐらいで、あとはトレッキングというにふさわしい「熊野古道・中辺路」くらいだ。

この頃は、登山の熱が冷めたというより、近所の山は植林された杉林ばっかりで、登山の意欲をそがれたこともあるかもしれないが、田辺という美しい海岸の街に住んでいたので、山よりも海へのの情熱が勝ってしまい、休日とくれば釣りに没頭していた。

年のせいかもしれないが、今から考えるともったいないことをした。紀州山地には、奥駆道の大峰山脈や高野山から熊野、熊野から那智・新宮までの長大な古道が残っているのだし、大台ヶ原からの大杉谷も歩かずじまいだった。

地図の入っている引き出しを開けたら、三冊の昭文社発行・山と高原地図が捨てられずに残されていた。1986年版「大台ヶ原・大杉谷(台高山脈)」、1987年版「山上ヶ岳・弥山(大峰山脈)」、1988年版「玉置山・瀞八丁(大峰山脈)」であり、古いためシミなどはあるが、地図はほとんど使われた形跡がないように折りたたまれている。何しろ、その地図を広げて山を歩いたのは、一度か二度ぐらいだから当たり前だが、大峰山脈南部の「玉置山・瀞八丁(大峰山脈)」などは、広げてみたらこの地図のどこも歩いた記憶はないので、買ってまったく使われないまま放置されていたことになる。

今後、この地図のエリアに行く機会があっても、これらの地図は古い情報なので持ち歩かないが、捨てるに忍びない。「断捨離、最終章までとっとこう」と思いながら、それぞれの地図を広げたら「大峰奥駈行場案内」など今の地図にはない貴重な図絵なども書かれており、なかなか面白い。それと、この地図の調査執筆者は、仲西政一郎とあり、「あれどこかで出てきた人だな」と思ったら、なんと先ほど読んでいた深田さんの「わが愛する山々」所収の「大台ヶ原」で、深田さんの初大台ヶ原山行のガイド役を務めた関西山岳界の大御所的存在の方だったのではないか。

この地図の付録としてついている小さなガイドの冊子、この頃の冊子は白黒写真で字も小さいためほどんど読むこともなかったが、深田さんつながりの大御所の執筆となれば、ありがたく読ませてもらい紀州の山を学習させていただこう。

一昨年、大峰山脈の奥駈道撤退のリベンジと高野山から熊野までの小辺路トレッキングという宿題はまだ残っている。30年以上も前の「山と高原地図」だが、貴重な資料となってほしい。

       


深田日本百名山登頂の思い出   90 大台ヶ原山(おおだいがはらやま・1695米)

和歌山県田辺市在住の1988年か9年に、紀伊半島の複雑な道路網を数時間、当時の愛車スバルジャスティ1000cを走らせて、やっとたどり着いた大台ヶ原のふもとから、最高峰日出ヶ岳と牛石ヶ原や大蛇嵓などを日帰りで周遊している。山頂からの展望として大峰などの山並みより、東方向に目をやった時に光り輝いていた太平洋の大海原と尾鷲の入り組んだ海岸線がいつまでも脳裏に浮かんでいる。笹原の遊歩道でシカさんたちにも出会ったと記憶している。評判通りの美しく気持ちのいい山上だった思い出がある。

深田さんの紀行や年譜を読むと、深田さんが仲西政一郎さんの案内で大台ヶ原に初めて登ったのは、昭和35年(1960年)57歳の2月29日からの3日間だったが、その年の11月に大杉谷から三之公谷を歩いているし、翌年の7月子供たちと大台ヶ原から大杉谷を下りている。

だが日本百名山の「大台ヶ原」のおしまいの数行の記載が気になっている。

(1960年3月の初登頂から)「それから数年後、再び大台ヶ原山を訪れた時には、山上まで有料自動車道路が通じていた。往きはそれを利用したが、帰りは大杉谷に下った。・・」と記している。

翌年には大杉谷を下っているのに、何年も経ったから歩いたという記載がどうも気にかかっている。あまりにもあちこちの山を歩いている方なので記憶違いだったのはなかろうか。

   

 

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ハクチョウさん、もうひと家族合流

2021-12-01 04:20:10 | 日記

きのうも気になっていたハクチョウ家族の様子を見に行ったら、「おお、増えている。」「ひーふみー・・」

なんと灰色のこども4羽を引き連れた6人家族ときのうの3羽の家族、それと1羽離れたところに成鳥1羽、合計10羽になっていた。離れたところの一羽は3羽の家族と一緒に飛んできたものか。でも3羽とは別行動をとっているので、もしかしたら旅先で落ち会ってついてきた「お一人様」なのかもしれない。

それでも、飛来する鳥たちが増えることは、その水辺の安心度の目安にもなることなのでうれしいことだ。昨冬みたいに30羽程度に増えるかどうか、観察を続けよう。

この場所は、必ずと言っていいほど「エサやりおばさん」や子供連れの親などがやってきて何やらばらまいている。それをあてにして親鳥が毎年この場所にやってくるとしたら複雑な心境ではある。願わくは、そのエサが塩分や油分や合成添加物にまみれていないことを祈りたい。

この安心な水辺で冬を過ごし、元気にまたふるさとシベリアに戻れますように。

    


深田日本百名山登頂の思い出   89 矢吹山(いぶきやま・1377米)

伊吹山には、2007年10月6日、深田百名山98座目の山として登った。今の時刻表を検索したら、おそらくJR鉄道記念日キップを利用して前日豊橋あたりまで行って、安いビジネスホテルを宿にとり、翌日の始発の新快速で大垣まで行って乗り継ぎをし、登山口となる東海道線「近江長岡駅」で朝8時前に降りたのだろう。

駅から三之宮神社伊吹山登山口までは、歩いても1時間の距離だから歩いたかもしれないが、今時刻表を検索すると30分も待てばバスが出るので、バスだったかもしれない。

コースはスキー場から登っていて、展望はいいが、草っ原を行く樹木のない山という印象のコースだった。昔から薬草が育てられていたということで、伐採されたのかもしれない。深田さんの百名山には、暑熱をさけるため昔は夜登って頂上で日の出を拝んだとある。夜に登っても、ほとんど危険を感じないようなジグザグ道が、ただただ上へ伸びているようなコースだったか。花の季節だったら、もっと癒されたかもしれない。

眺めはよく琵琶湖や伊賀の山並み、白山などの好展望地の山だったが、登り着いてシラケたことは、山頂の茶店かレストハウスかどこからか歌謡曲が音高く流れていたこと。それと「伊吹山ドライブウェイ」が頂上直下まで走っていて、観光客めいた軽装登山者で賑わいつくしていたこと。深田さんが、最も嫌う山頂の光景だったろう。もちろんオイラも。

この「伊吹山ドライブウェイ」を調べたら、昭和36年に着工して、昭和40年に竣工したとある。

昭和36年といえば、深田さんが人込みを避けて4月のまだ山頂に雪のある時に一人で登り、静かな山頂で1時間も展望を楽しんだとされる年。深田さんが、この道路のことを知っていたか知らなかったか。百名山には何も記載がないので、まだ耳に入っていなかったかもしれない。4年後にこのことを知って大いに嘆いたのだろう。

オイラは、走る様に元来た道を下り、翌日の荒島岳に登り行くために、その日のうちに近江長岡から米原、長浜、敦賀を経由し福井まで行ったのだろう。せわしない山旅ではあった。

     

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