■【きょうの人】 0926 ■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師 ■ 藤原 定家 歌人、『小倉百人一首』の撰者
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■ 藤原 定家 歌人、『小倉百人一首』の撰者
ふじわら の さだいえ/ていか
応保2年(1162年)-仁治2年8月20日(1241年9月26日)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人で、公家でもありました。諱は「ていか」と音読みされることが多く、『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称しました。
藤原北家御子左流で藤原俊成の二男、最終官位は、正二位権中納言です。京極殿または京極中納言とも呼ばれました。法名は、明静(みょうじょう)です。
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期に、御子左家の歌道における支配的地位を確立しました。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきました。
『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』という2つの勅撰集を撰進したことはよく知られています。
ほかに歌論書も数冊執筆していて、本歌取りなどの技法や、心と詞との関わりを論じています。
歌人としても卓越し、家集に、六家集のひとつに数えられる『拾遺愚草』があります。
定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」が、よく知られています。
『源氏物語』や『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わりました。この際に用いた仮名遣いが「定家仮名遣」のもととなりました。
建仁元年(1201年)に、後鳥羽天皇の熊野行幸に随行した折に記した『熊野御幸記』(国宝)は、定家の評価を高めています。
■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師
あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら
延喜21年1月11日〈921年2月21日〉- 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉
平安時代の陰陽師で、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖です。官位は、従四位下・播磨守です。
幼少の頃については確かな記録はありませんが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に、陰陽道を学び、天文道を伝授されたといわれています。
960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)でありました晴明は、村上天皇に占いを命ぜられていて、出世は遅れていましたが、占いの才能は既に貴族社会で認められていました。
979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗を封ずる儀式を行っています。
このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになりました。
花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めたようです。
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【 注 】
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