昨夜は元横綱千代の富士が亡くなったこともあり、幼少時から交流が続いていた
薄野の「居酒屋しらちゃん」に、ご主人を励まそうと夫婦で出かけてきました。
「8月1日の第1月曜日は、ススキノは暇!」とFacebookに書き込んでいた
山崎いわお師匠の予言通り店内は閑散としていました。
二ッ八は商売繁盛とはならないと言われていますが、昨夜はなるほど薄野に出てい
る人は少なかったかも知れません。
お店に入り通例となっている「この度は・・と、お悔やみの言葉」を伝えました
が、案のじょう幼馴染の急逝には、かなりのショックを受けていました。
普段は饒舌な大将もこの日ばかりは、落ち込んでいてTV局のインタービューも
私用があると断ったそうですが、「携帯は昨夜から鳴りっぱなしだよ!」
「同じ同級生の町長からも、名古屋場所の途中で入院をしたと聞いていて、心配
をしていたんだけどね~」と呟くように話していました。
そしてやはりこのような時には思い出話となるのですが、子供時代の秋元貢少年は
周りが一目も二目も置くガキ大将であったそうです。
「やんちゃで当時は怖かった」と誰もが言う暴れん坊だったとも。
ご主人の白川誠さんは、高校球児から社会人野球に進み、秋元少年は、福島町出身
の元横綱千代の山を頼って相撲界に入り、進む道は違えども「スポーツつながり」
で交流はずっと続いていたそうです。
十両から幕内時代には何度もエレベーター時代を繰り返していたのは、私も良く
知っていますが、北海道巡業で札幌に来た時には、ススキノのネオン街に繰り出し
仲間と良く飲んだそうです。
当時から飲みっぷりは半端でなく「ウィスキーボトルを軽く2本は空けていた」と
目を遠くにやり思い出に浸る「しらちゃんの目元」には、うっすらと涙が溜まって
いました。
「縁」とは不思議なもので私自身も先先代の九重親方(故千代の山)とは、親方が
巡業部長をされていた時に薄野のBARでご一緒をしたことがありました。
まだ今も相撲解説で活躍中の北の富士さんが、大関にいた頃だと思いますが、私が
美幌町出身だと聞くと「大関も生まれは美幌だよ」と教えて下さったのが、今でも
鮮明に思い出します。
かっての戦後の相撲界を盛り上げた、吉葉山、千代の山の両横綱から始まり、栃若
時代の若乃花(育ったのは室蘭)、立浪四天王と言われた安念山(下川町)、北の
洋(網走)など昭和30年代は綺羅星のごとく道産子力士が活躍し、「巨人・大
鵬・卵焼き」のフレーズで世を席巻した大鵬(弟子屈町)にバトンは渡され、
私がファンだった先代九重親方の北の富士(旭川市)、にくいほど強いと言われた
北の湖(壮瞥町)から千代の富士(福島町)、大乃国(芽室町)北勝海(広尾町)
と昭和から平成への一時代は道産子横綱が相撲界をリードしたのは間違いないで
しょう。
〈大関北天佑(室蘭市)との土俵際の一戦〉
晩年は親方として九重部屋を引き継ぎ再び「北海道から横綱を」と育成に励んだ
そうですが、幼少時の「きかん坊気質」は抜けず、「他の親方などからは煙たがら
れる存在だった」としらちゃんは語っていました。
その反面、元大関だった小錦や元横綱の朝青龍からは、とても慕われていたそうで
すが、いかに強靭な身体を持っていても「膵臓癌」には勝つことが出来なかった
大横綱千代の富士のご冥福を心からお祈りをしたいと思います。
なお、秋元貢というお名前は「人格14画(癌は転移)外格10画(癌は転移)」と
いうお名前であったことを記しておきます。