誕生日の花、俳句など

毎日が日曜日の私が、その日、その日の出来事や、世間話のなかで、悲憤慷慨何でもあり、想いのままを、書き撲ています

甘野老の花

2013-05-23 05:34:03 | 日記
甘野老;アマドコロ(ユリ科)花言葉は、心の痛みのわかる人。高さ40cm~60cm、葉は弧を描いて立ち、楕円形の葉を2列に互生する。5~6月、葉のわきから花柄を伸ばし、1~2個ずつ花をつける。長さ約2cm、淡緑色の筒状花である。「甘野老」は横に伸びる地下茎が太く、ヤマノイモ科の野老に似て、甘味があることに由来。「大和本草」には「黄精(あまところ)」とある。「木漏れ日と親しみさける甘野老 福原十王」「あまどころ夕日さびしくさしにけり 行方克己」「道しるべともなく傾ぎあまどころ 和田暖泡」。(甘野老 淋しきときも 群れて咲け ケイスケ)

雲の通い路

2013-05-22 06:22:49 | 日記
「雲の通い路」とは天と地を結ぶ道をいう。百人一首に<天っ風 雲の通い路 吹きぢよ をとめの姿しばしとどめむ 僧正遍正>◆雲を伴って空気が漏斗状に渦巻く現象を、古人は竜に見立てたもの、『雲の通い路』と似た發想からだろう。天女の舞い姿とは違い、こちらのもたらす災害は優美とは無縁である。◆米国オクラホマ州オクラホマシティー南郊で巨大な竜巻が発生し、大きな被害が出た。21日未明(日本時間21日夜)◆竜巻は小学校を襲って校舎をバラバラにし、児童を含む20人以上が死亡したという。瓦礫の下にはまだ多数の不明者がいる、との情報もある。犠牲者はさらに増るかも知れない。竜巻と津波の違いはあれ、日本人の誰もが、瓦礫の山に言葉を失う経験をしあばかりである。◆「しばし」ではない。これから何十年、花も実もある人生が待つ命である。末永く地上にとどめよと、遠くから祈る。実在する姪は(222Stonwood CT. Sanpoedoro.CA。90732USA)

訃報

2013-05-21 18:47:47 | 日記
今日石竹のブログで紹介した「星野麦丘人氏」は20日肺炎で死去された。と夕刊で報道された。本名星野重蔵88歳。石田波郷氏に師事し、1986年から「鶴」を主宰。2010年句集「小椿巨」で詩歌文学賞を受賞した。読売新聞夕刊より。

セキチク

2013-05-21 06:17:00 | 日記
セキチク;石竹;唐撫子;常夏。ナデシコ科の多年草。花言葉は女性の美。『万葉衆』にもその名があるように古くから栽培されているが、中国原産なで「唐撫子」と呼ばれている。花壇用の花で、草丈20cm、径3~5cmの五弁花が株を覆うように密につく。開花期は4~5月、花色は赤、桃、白など。「常夏」は石竹から改良された品種群で江戸時代に流行したようだが、現在はほとんど残っていない。代わって種間雑種がダイアンサスや撫子の名で出回る。四季咲き性のある品種が多く、こちらのほうが花壇でよく見る。◎硬い名前だがつつましい中に華やかさのある花である。俳句には、屈んで眺める花らしく、低めの視線が感じられる。「石竹の揺れ合う丈の揃ひたる 上野さち子」「石竹を君の娶りの花と挿し 星野麦丘人」「石竹や美少女なりし泣きぼくろ 倉橋羊村」「石竹や紙燭して見る露の玉 許 六」「常夏に水浅々と流けり 松瀬青々」。 (常夏の 野に群がりし 唐撫子 ケイスケ)

エプソンプリンター

2013-05-20 17:09:07 | 日記
エプソンプリンターの故障。文書を書いて、プリント使用とすると、プリンターが動作しない。購入は、2010年04月16日(型番AX-640)故障と思いエプソンのサービスコールセンター(050-3155-8600)に電話すると、担当の女性は、インクICC46=シアンが切れている、との診断で、(イエロー、マゼンタ、ブラツク)の4色の内1色でも無なると、プリント出来ないとの診断である。インクを購入の為に出掛けるのは?大変と思うと、先方は、0120-95-214(受付時間10~5時)に電話すれば、エプソンから送付可能との事。割引番号も支給された。即時電話すると、明日午前中(郵便)で届けます。との返事。価格¥3860-+送料525-=¥4725着払い。(割引番号1304690使用)を申し受ける。電話は5時ギリギリの滑り込みでした。便利なサービスに感謝。

シラネアオイ

2013-05-20 06:54:11 | 日記
シラネアオイ(シラネアオイ科)花言葉は、優美。キンポーゲ科から独立し、一科一属一種の日本固有種。花が美しいので古くから山草として栽培もされている。中部以北と北海道の雪の多い地帯の落葉樹林下に生える。高さ20cm、地際から出る葉は、掌状で大型。6~7月、花は茎の先端に一個つき、径5~10㎝、淡い青紫色、白色もある。花弁のように見えるのは萼片で、花弁はない。黄色の雄蕊が多数あり、目立つ。花が終わると草丈が60cmほど伸びる。「白根葵咲けりといふよ山彦も 水原秋桜子」「白根葵丘人の霊あそぶごとし 青柳志解樹」「白根葵なほ暮れかねて雪浄し 太田蓁樹」。(梅雨まじか 曇りて咲けり 白根葵 ケイスケ)。
昨晩「管理組合平成25年度総会」の日。所要の為17日委任状を書いて提出すべく準備して置きながら、投函を忘れてしまい、20時夕飯中に総会出席の長女から(お菓子)を頂いた。自分の惚けの兆候に注意しなければ?と反省するも、後のまつりであった。

ヒナゲシ

2013-05-19 04:53:57 | 日記
ヒナゲシ;雛罌粟(ケシ科)花言葉は、慰め。東ヨーロッパ地方原産。我が国には中国から伝わった。草丈1m近くなり、5月頃うなだれた蕾を起こして、紅、赤、白、紫などの四弁花の可憐な一日花を開く。五月晴れの空の下に咲く罌粟の花は、華やかで明るいが、観る人の心により一種のかげりも感じさせる。観賞用に八重咲きのもの、ひなげし、鬼罌粟など、種類は多い。薊罌粟は薊に似て棘があい、黄色の四弁花を咲かせる。また球形をした実は罌粟坊主と呼ばれるのも面白い。そしてある種の罌粟の未熟の実の乳液からは、阿片、モルヒネを製するので、栽培は禁止されている。「白辛子に羽もぐ蝶の形見かな 松尾芭蕉」「散り際は風もたのまずけしの花 室井其角」「罌粟散りぬけふ一日の一隅に 千代田葛彦」「白罌粟の脆くなりにし月の前 柴田白葉女」「罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき 橋本多佳子」「首ふつて花と踊る罌粟坊主 石原八束」。家の近くの蕎麦屋の駐車場のかた隅に罌粟の草が一本だけ生えている。場所柄から見て自然に生えたもののようだ(道ばたに 孤独に立る 罌粟坊主 ケイスケ)

あやめ

2013-05-18 06:46:59 | 日記
アヤメ;菖蒲;渓蓀(アヤメ科)花言葉は、神秘な人、よきたより。江戸時代に「あやめ」と「しょうぶ」と呼び分けるようになった。サトイモ科の菖蒲と古くからよく混同されていたが、花姿は全く異なる。また花姿や開花期が似ているので杜若、花菖蒲などとよ混同されてきた。これを区別するには生えている場所である。水草の杜若は水の中、水陸どちらでも咲く花菖蒲は水辺、あやめは陸草なので普通の畑地に生える。アヤメは草丈30~50cm、葉は剣状線形で幅1cm、杜若より葉幅が狭い。花菖蒲は中肋が在るので区別できる。5月、紫や白などの優美な花が咲く。外側の花弁は垂れ下がり、基部に黄と紫の網目があって虎班模様をなしている。これが「あやめ」の語源である。内側の花弁三個は細長く直立する。「渓蓀」。「きる手元ふるひ見えけり花あやめ 曽 角」「野あやめの離れては濃く群れて淡し 水原秋桜子」「衣ぬぎし闇のあなたにあやめ咲く 桂 信子」「西行塚尋うて佇む野のあやめ 大橋敦子」。あやめを詠んだ句は、大変多い。(雨上が 黄鮮やかに あやめ咲く ケイスケ)

馬鈴薯の花

2013-05-17 06:27:32 | 日記
ジャガイモ(ナス科)花言葉は、恩恵;情け深い。煮物やサラダなどによく使う。早春に種薯を畑に植えると、開花は5~6月。葉のわきから花茎を伸ばし、白または淡紫色の合弁花を数個集めて開く。花は小さいが、畑一面に咲き揃うと見事。馬鈴薯は南米のアンデス山地原産。日本はオランダ人が、ジャガトラ(現インドネシア)から持ち込んだので「じゃがたらいも」と呼ばれのちに「じゃがいも」と呼ばれる。◎畝の頂に競うように咲く姿には、ひたむきなものの美しさが感じられる。地中の薯との対比も面白い。「じゃがいもの花に朝の蚊沈みゆく阿部みどり女」『馬鈴薯の花の日数の旅終わる 石田波郷」「じゃがいもの花の起伏の地平線 稲畑汀子」「嫁不足黄かむあさきか薯の花 丸山海道」『ジャイモの花の畑にしゃがみいし姉さまかむりの母こちら向く 鳥海昭子』。(芋の花 月夜に咲きて なを白し ケイスケ)

薔薇の句 (追補)

2013-05-16 09:13:21 | 日記
「夕風や 白薔薇の花 皆動く 正岡子規」「雷過ぎしことばしづかに薔薇を撰ぶ 石田波郷」「薔薇よりも淋しき色にマッチの焔 金子兜太」「老いにも狂気あれよと黒き薔薇とどく 殿村登四郎」「薔薇を剪る夜明けの音をつくりつつ 原田清次」「記念樹の薔薇の名アンネ爆心地 重本泰彦」「手に薔薇の傷いつぱいよ縫いたかり 矢島 恵」「自らへ贈るくれなゐ強き薔薇 櫂末知子」「少年の指の血甘し夜の薔薇 田口一男」「太宰の恋白薔薇ひとひらづつ毀れ 島貫 恵」『手の薔薇に蜂来れば我王の如し 中村草田男』この句を評した鍵和田柚子氏は、ギリシャ神話やキリスト教との結びつきで、西洋では愛と美の象徴の花である。高貴な美しさを生かした句が多いが、棘の故か、翳りのある句も生まれるが、中村草田男氏の句について『薔薇はイギリスの城館の庭園を埋め尽くした華麗な光景などを思い出される。作者も薔薇の真紅の大輪などを手にして、西欧的な雰囲気に浸り、誇らしげに思っていた。そこへ蜂までがやってくる。まるで家来のように、胸をそらせて王様のようになったような気分の作者。おどけた調子の誇張した表現が』、この句では明るく輝く薔薇の本情を余すところなく生かいている。との講評である。