川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

Nちゃんのチョコレート

2013-02-19 08:14:35 | 友人たち

2月16日(土)

 不在で受け取れなかったRさん母子からの郵便小包が朝早く届きました。開けてみるとなんとチョコレート。小さくてかわいいのが高校進学が決まったNちゃんからのものです。

手紙が入っていました。高校合格に「早春賦」を送ったのを喜んでくれたようです。

「わたしの中学校生活はとても充実していたと思います。」「高校生活も充実したものにしていきたい」と結ばれています。

 小学生のときに北朝鮮を命がけで脱出した人です。中国で「日本に行く」と知って泣いて拒否したと聞いています。幼少時からの教育で「日本」=「怖いところ」と思い込んでいたのです。

小6~中3と日本の東京で4年間の学校生活を送って、いま、「充実」という言葉をきけるのは本当にうれしいことです。本人はもとより家族・先生方・友人たち、さまざまな人たちの努力・協力の賜物です。

進学の祝いに『アンネの日記』を送りました。僕が教員だった頃に高一のすべての生徒に紹介した本です。

 川越だより「アンネの言葉 ①理想と希望」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/4183f4dc7835cd9fd1c17e25c5443fce

アンネは15歳でいのちをたたれました。同じように出口の見えない圧政下で北の少女たちはどんな風に生きているのでしょう?

豊かな感性に恵まれたNちゃんの東京での高校生活がどのように展開するのか、わくわくどきどきしながら応援できるのはうれしいことです。

2月18日(月)曇

昼前、癌研有明病院で西尾医師の診断がありました。X線・血液検査ともに大きな変化はありません。抗がん剤「タルセバ」の効能は落ちてきていますが4月のCT検査まではこのままの治療を続けることになりました。

元主治医のN先生がまだまだ大丈夫、75までは今までどおりがんばろう、と励ましてくれました。旧友の言葉を聴くとうれしくなって元気が湧いてきます。


洪大杓(ホンテピョ)さんの忘れられない一言

2013-02-13 06:19:10 | 友人たち
2月11日(月)晴
 
 12月に急逝した洪さんのお姉さんが我が家を訪ねてくれました。数年前に川越に転居されたとのことです。かつて弟さんも座ったことのあるコタツでしばらく懇談。次回はお姉さんの朝鮮語の先生であった高柳俊男さんを招いて交流することにしました。
 大杓さんはさっさとどこかへ行ってしまったけれど、お姉さんを紹介してくれたことになります。彼らしくぶっきらぼうに。
 
 妻が洪さんを追悼する短文を書きました。この機会に紹介します。

 
 洪大杓(ホンテピョ)さんの忘れられない一言
                                        鈴木倫子
 「リンさん、あそこ。あれはイジメだな」。洪大杓(ホンテピョ)さんがわたしの傍に来て、小さな声で告げた。
                                                                 2008年10月4~5日、足尾銅山から奥日光を巡った第8回きいちご移動教室2日目の朝のこと。前夜の宿舎「かじか荘」への山道は狭くて、両側から木々の枝が覆いかぶさっているような道だったので、大型バスを乗りつけることができない。わたしたち一行は下の道の駐車場でバスを降り、そこからは宿の送迎用マイクロバスを利用していた。総勢40人余なのでマイクロバス一台には乗りきれず、ピストン輸送だった。後便到着まで30分以上ある。第1便で下ってきた子どもたちは、木立に囲まれた広い駐車場を駆け回って遊んでいた。中国帰国者の孫のM君とK君、在日韓国人のS君。3人の男の子のうちS君が1つ2つ年下だった。そのS君が「待ってよ、待ってよ!」と叫びながらM君とK君を追いかけていた。2人は何か言いながら逃げる。3人とも笑い声をあげている。    わたしには「ふざけあっている」と見えた光景を、ホンさんは「イジメだよ」と言った。「人数の多いほうがいじめる側になるんだなあ」とつぶやきながら、ホンさんは子どもたちの姿を目で追っていた。何ともいえない淋しそうな横顔だった。ホンさんに指摘されて初めて、わたしにもそれがただの悪ふざけではなく、2人してS君をなぶっているのだと知れた。S君も笑い声をあげているのだが、それは、ほんとうは心の悲鳴なのだということがやっとわかった。しばらく見ていたホンさんは、やがて走り回っているS君にゆっくり近づいていった。ただそれだけのこと。ただそれだけのことだが、わたしには忘れられない。                                                    約束の時間を守れない。執筆や校正の締め切りを守れない。業を煮やして催促の電話を入れても「今やってます」「あともう少しです」がいつまでたっても、「今日送りました」にならない。「ホンさんのは〈蕎麦屋の出前〉だ」と嘆きながら、80年代からつきあってきたホンテピョさんだっが、あの時わたしは、彼という人間の真実味を見せてもらったと思う。「気がつけばたがいに寄り添って歩いていたんだなあ」と思える友人が一人、あっという間にいなくなってしまって、わたしは右の肘の辺りがスカスカしているような気分でいる

「ガン」とどう向きあったらいいのか?

2013-02-11 11:45:46 | 友人たち

2月11日(月)晴

 昨日、友人たちと入院中のHさんを見舞いました。孤軍奮闘の闘病ですが、それはもう限界だということでご家族の住む北海道に近く転院するとのことです。長く一緒に歩いてくれた友人です。

 何の力にもなれません。北の大地で幸運に恵まれることをただただ祈るばかりです。「季節が良くなったら訪ねるからね」、友人たちと一緒にそんな言葉を贈るのがやっとです。

 往復の電車の中で『ガンを治す「仕組み」はあなたの体のなかにある』(真柄俊一著・現代書林)を読み始めました。「抗がん剤・放射線治療からの脱却!」がサブタイトルです。

 左肺摘出手術から7年、抗がん剤治療を受けながら「僥倖」(もと主治医のことば)にもおおむね元気に生きてこられました。4種類目の「タルセバ」には目立った副作用がなく日常が過ぎていきますが、そろそろ丸一年。効能切れかと思われる気配です。

 この機会に先輩が薦めてくれた本を探し出して「ガン」とどう向き合うかを改めて考えてみることにしたのです。僕の場合は闘病を支えてくれる妻という存在があるので心強い限りです。

 ここしばらくは本を読んだり、先生と相談したり、黒い箱で調べたりして「闘病方針」を確立する期間です。「ガン」が発覚して7年余、初めてこういうことをやります。いい知恵や情報があったら皆さんも教えてくださいね。   

 

 


胤賓くん来宅

2013-01-27 09:43:36 | 友人たち

1月26日(土)晴れ

昼前に胤賓くんが来てくれた。北高校を卒業して20年くらいになる。台湾生まれの中学生が来日してからの波乱万丈の物語。高3のときに僕がHR担任。

 広州やヴェトナムに活路を求めた数年間を含め、起業に挑戦し続けてきた日々であったようだ。何があってもゼロから立ち上がるたくましい精神力はすごい。

近頃は仏教と道教が融合した?「九蓮聖道」という宗教活動にも力を割いていて暇というものがなさそうだ。

 新しい会社が所沢にあり、これからはたまには寄ってくれるという。僕も自転車で訪ねられる距離だ。楽しみが増えた。

 夜、遠戚(祖母が姉妹)の亜子ちゃんと交信。この4月には娘さんが独り立ちする。川越を訪ねるといってくれた。うれしい春の日が待たれる。

 


月 昼前 TBSラジオ 小山省吾くん

2013-01-26 09:30:22 | 友人たち

大島高校OBの小山くんからFAXがありました。

28日(月)のTBSラジオ 永六輔・えんどうやすこの「誰かとどこかで」(AM11時35分~11時45分)で省吾くんの手紙が紹介されるということです。

省吾くんのメッセージ

「年とって、よかったこと」 「永六輔さんが病にも負けず、人の在りよう、文化とは?を問いかけてくださっています。そんな永さんへ わたしからのエールとして投稿させてもらったものです。聞いてください。」

小山くんは70年3月、都立大島高校卒業。茨城県(旧)八郷町に住み着いて大工さんをやっています。

川越だより「小山くん」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/36d5151b474df4b499a045e5e91a9e45


「もう一つ 余命延して 年新た」 年賀状から

2013-01-19 09:15:02 | 友人たち

1月18日(金)晴れ

 よく晴れた寒い一日です。日当たりの良いベッドで半日を過ごしました。

いただいた年賀状の整理、iフォンへの電話番号や住所の打ち込み。 

①推雲さん 書家 

タジキスタン、中国、ロシアなどで日本語の先生をされました。僕の最初の同僚のお一人です。

②輝章さん 社会科の先生

フクシマ。浜通り、中通り、会津。何度も訪ねたところです。去年、東北の旅を重ねましたがここだけは遠慮しました。いつか、また、ゆっくり訪ねたいところです。そんな日がいつ、来るのでしょうか。

③正太さん 元新聞記者 大学後輩

そうだったのか。春になったら、信州・塩尻を訪ねて「よもやま話」をしに行こう。

④村上くん 大学の先生

一昨年?10年ぶりに再会。もともとから芸術家。娘が三河に嫁いだので浜松が身近に感じられるようになりました。

 

九州や北海道の友人から美しい写真入りで「歩きにおいでください」との誘いもありました。

共通の友人・勝義さんがその気になれば北に南にと旧友を訪ねるたびをすることができます。


Mさん沢内村への道を開く 1974豪雪

2013-01-15 21:36:36 | 友人たち

 1月15日(火)晴れ

夕方6時、お隣のMさんに呼ばれて恒例の新年会。

秋田から届いたはたはたの焼きもの。

本当は生で食べさせたかったようです。そうはいかないので味醂付けにして軽く焼いたそうです。

Mさんの故郷・岩手県西和賀地方ではこれがなければ正月になりません。若いときには秋田の八森まで行ってトラックいっぱい買いつけ、バケツ一杯いくらで頒布したと聞いています。

奥羽山地の山の幸の煮物をご馳走になりながらMさんの人生物語を聞きました。

雪の武勇伝。昭和49年(1974)1月、豪雪で湯田から沢内村への道が通れなくなったとき、県の土木部の依頼で道を切り開いた。M建設が持つ最新式のブルドーザーを運転して深更の2時から昼近くまでかかったという。難所ではさすがのMさんも恐怖を感じるほどだが知恵と経験を総動員して切り開いた。

 このとき沢内村の人たちから挙がった歓呼と感謝の言葉はMさんの生涯の勲章のようなものでしょう。顔をほころばせて語ります。

黒い箱に聞いてみると当時の記録がありました。

1974年(昭和49年) - 1月25日の豪雪で積雪量3m68cmを観測。(湯田温泉郷)

市街地でこれほどの積雪ですから沢内村方面に向かう山道はいかほどだったのか。土木部の出張所長の文章にも記録が残っている限りでは空前の豪雪とあります。

今年もかなりの豪雪と伝えられています。それでも現在では道路も改良された上に、重機類も整っているので旧沢内村が孤絶することはないのでしょう。

和賀川の源流部から秋田側に抜ける「八郎林道」の工事を請け負ったといいます。その道はどうなっているのでしょう。八郎潟の「八郎」と「辰子姫」の伝説にかかわる道のようです。

いつか訪ねて歩いてみたいものです。旧沢内村は医療の先進地であり、乳幼児死亡率ゼロの村として僕でも知っています。

村長だった深澤晟雄(まさお)さんの資料館があるようです。

深沢資料館●http://www.fukasawa-masao.jp/


年明けにうれしい訪問つづく

2013-01-11 09:06:40 | 友人たち

9日、10日と女性たちが我が家を訪ねてくれてゆっくり交流することができました。旧知と始めてお会いする人と。こんなうれしいことも人生にはあるものですね。

1月9日(水)

 昼ごろに菜穂子さんと満智子(みちこ)さん。妻の手料理を肴に夜の10時まで語り合う。今年は二人の知友を誘ってこのような会を何度か開きたいという。妻の手料理講習会プラスお話。

 僕らにもとより異存はない。70年を生きてきて、若い人から何かを学びたいといわれたらうれしいに決まっている。妻の手料理は美味しいので十分その期待に応えられるだろう。僕には伝えたい思いは山のようにあるが何か役に立つだろうか。この日のようにそれぞれの人生の話を交流しながら議論するのが意味のあることのように思われる。

 この4月に大学生になる満智子さんのお子さんの話が印象に残った。近影を見せてもらった。多くの友人たちに誕生日を祝ってもらうような人間関係を作っている人のダンディーで穏やかな表情が印象的だ。

 右手に先天的障害を持って生まれた。母子ともに苦闘の連続だった。野辺明子さんをはじめとする「先天性四肢障害児親の会」との出会いに助けられたが、お母さんの聡明・気丈夫・おおらか¨などの要素が子どもや家族をしっかり支えたのに違いない。さすがだと思った。

 ふだんはなかなか交流することのない一人ひとりの人生が出会うことで励ましたり励まされたりの関係が豊かになっていく。私たちの茶の間がそういう交流の場になるとすればこれ以上のことはない。

 一晩泊まって川越や郊外を楽しんで帰ってもらうと来てもらった甲斐が増すかもしれない。

関連「川越だより」●小蓮の恋人http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/d2e558ced4f73b1827c3f91d44eaf62b

1月10日(木)

市内に住むNさんという方が訪ねてきてくれた。「川越だより」を読んで話を聞きたくなったという。

二人の小学生のお母さんで子どもの人権に関心が深い。写真展や絵画展など自分のやり方で人々にも訴えてこられた。「コッチェビ」を知って北朝鮮の子どもについてもっと理解を深めたいと考えて居られる。

 ぼくらにできることは限られているがもちろん喜んで協力する。お話を聞いていると亡くなった父上が曼荼羅の主人とお友達だったことがわかる。うれしい縁。

 

 

 


勝義さんを励ます忘年会

2012-12-25 20:37:38 | 友人たち

12月24日(月)晴

 13時ごろから勝義さんを励ます2012忘年会。神奈川・東京・埼玉の各地から9名が我が家の茶の間に集まりました。

勝義さん・精さん・満智子(みちこ)さん・俊男さん・Kさん・俊英(としえ)さん・剛さん・倫子(のりこ)・啓介。

参加者が手料理を持ってきてくれるので食卓には並びきれません。

 昨年は年末の28日に、お連れ合いを喪った勝義さんを励ます忘年会を同じように行いました。残念なことにその後の一年もご難続きでした。交通事故による骨折・「脱腸」手術。持病と闘う人生に新たな苦闘を余儀なくされました。この間に住み慣れた浦和の家を処分して横浜に転居するという「大事業」もありました。

 近所に住む娘さんの支援を得て、忍耐強くリハビリに励んだ結果、バスと電車を乗り継いで川越まで来てくれるほどに恢復してきたのです。

Kさんから花束をもらってうれしそうですね。勝義さんは数年前、北朝鮮を脱出してきた方々に日本語を教えるボランティアをしました。Kさんは同世代の脱北者でボランティア仲間だった人です。夏にはみんなで古希を祝ったばかりです。

 30数年来の友人、近年「きいちご移動教室」で知り合うようになった人。中国から来た人、北朝鮮から来た人。夕方6時過ぎまで交流のときをすごしました。ここに集うはずの洪大杓(ほん・てぴょ)さんを半月前に喪ってしまったので追悼のひと時にもなりました。

途方もない困難を抱えて苦闘をする友人たちがいます。これからも時には集って心を通わせて生きたいものです。

Kさんと勝義さんは泊まって心行くまで語り合っていきました。北朝鮮の人々の日々の生活の話は日本中の人々に聞いてもらいたいものばかりですが今はわが胸にしまっておくほかはありません。

 

 

 

 

 


卵の芸術  横田初枝さん

2012-12-24 06:20:33 | 友人たち

12月23日(日)曇晴

先日、Facebookに下のような写真のクリスマスメッセージが飛び込んできてびっくりした。遠い昔、ぼくの生徒だった横田初枝さんの作品だ。卵の殻のアート。 

メールを読むと趣味でやっていたのを今年から企業化して、その社長になったようだ。

Fanncy Egg World

http://few-lesson.com/

代表取締役 横田初枝

数年前、板橋区成増のお店を訪ねて何十年ぶりかの再会を喜んだ。病気になった娘さんの力にはなれず残念だった。もともとがチャレンジ精神が旺盛な人だ。還暦が近くなって、新たな世界に挑戦する。夢を育む事業が人々の支持をえて広がっていくことを期待したい。正月には新宿のホテルに店を出すという。

ぼくには縁のない世界だが作品を見せてもらうのとおしゃべりは楽しい。癌研の行き帰りに寄らせてもらうことにしよう。

夕方、勝義さんが来てくれた。リハビリの成果が現れて元気そうで何よりだ。

 

 


「正人死去」

2012-12-16 06:43:56 | 友人たち

「あの日を忘れない!」新潟港追悼集会の終了後、夕焼けの福島潟の景観に魅了され、月岡温泉の露天風呂では時を忘れて友の話に耳を傾けました。30余年も歩みをともにしている人ですが知れば知るほどともだち冥利に尽きると感じます。

今朝は阿賀野川の船に乗って山水画のような風景を楽しみました。

 8時過ぎ帰着すると「日高正人」くんの訃報が届いていました。11月30日、死去。僕がHR担任をした最初の生徒50人の一人です。

闘病中でしたが僕にとってはまさか、の知らせです。この2週間誰からも知らせがなく、夫人からの「賀状欠礼」はがきで知る始末。なんということだろう。

 大島を訪ねるたびに世話になりました。中国から来た残留孤児二世たちを歓迎してくれたこともあります。

今日は選挙の日ですが、それどころではなくなったような気がしています。

 

 


どこかへ逝った「天涯孤独」の人へ

2012-12-12 09:06:26 | 友人たち

 12月11日(火)晴

 「川越だより」を発信したあと、入間川の土手に出、公園の散歩。男体山をはじめとした日光連山が雪化粧して迫ってくるような感じがする。東京方面の空もよく晴れて真っ青。「洪大杓が煙になっていく」と思った。

 なぐわし公園の風呂。日差しが暖かいので露天の椅子に足を投げ出して昼寝。

夕食時に「野辺の送り」に加わった妻から「洪大杓」にかかわる話を聞かせてもらう。

両親を早くに亡くしたあと、親代わりに育ててくれた兄さんも逝った。「天涯孤独」と聞いたものだが、三人の姉妹にお会いすることができた。姉さんはなんと川越住まい。洪大杓と付き合いの長い高柳教授に朝鮮語を習ったことがあるとか。姉弟は日ごろ疎遠に見えてもこんな風につながっていたのか。うれしい話だった。

 うまく機会が作れたら若い日の話をゆっくり聞かせてもらおう。甥や姪の方々の頼もしい姿もあったという。何が「天涯孤独」だ。

夜はパソコンで歌を聞いた。洪大杓が移動教室で「長崎の女」を歌ったのが印象深い。

 「長崎の女」●http://www.youtube.com/watch?v=RAYCgC3Ypxw

 今朝(12日)菜穂子からのメールに気づいた。移動教室で出会った洪大杓の印象をつづって、僕には心地いい文章だ。

洪大杓に届ける。


 

洪さんがお亡くなりになったこと、今日川越だよりで知りました。

移動教室にも参加されていたお酒の好きな方ですよね。

私が初めて参加させていただいたときでしたでしょうか、バスの座席が洪さんの前で
した。

帰りのカラオケタイムで確か1番手か2番手に、忌野清志郎の「雨上がりの夜空に」
を歌われて

「なんか変な歌(移動教室の雰囲気に合っていないような歌を)歌っちゃってごめん
なさいね」

なんておっしゃっていましたが、こういう歌が歌えるなんてカッコイイー!!と思い
ました。



1日目、2日目と昼食のときも偶然、洪さんの近くでした。

歌と同じくらい印象に残っているのは、2日目の昼食。

洪さんの向かい側に座っていろいろお話しをしながら食べました。

洪さんは倫子さんからの美味しいお酒を飲んでいました。

私はコンビニかどこかで、おにぎりとパックに入った胡瓜のお新香を買って行ったの


おつまみがあったほうがお酒も美味しいかな。。と思い、胡瓜のお新香を「おつまみ
にいかがですか」と伺うと「これはいいですね」とニコニコ。

パックの蓋をお皿代わりに半分コ。周りの方からのキムチ等も加わり

「これは最高ありがとう」とニコニコ笑顔。

「菜穂子さんは毎回必ず野菜を一緒に食べていてバランスがいいですね」と昨日のこ
とも。

「昨日もコンビニのおにぎりとお新香ですよ」と笑いました。

そのあとも、洪さんが思う啓介先生、高校担任時代の啓介先生の話や長野県のお勧め
温泉等の話しをして

楽しいひとときを過ごせました



またお会いできる日を楽しみにしていたのに残念です。

ショックでした。

でも、楽しい時間を過ごせたこと感謝します。忘れません。

ご冥福をお祈り致します。





洪さんお勧めの長野県の温泉(タオル・バスタオル持参)

・片岡館(諏訪市) 入浴料¥200(昔、洪さんが行った当時) → 現在¥50
0(2008年12月~)

・岡谷ロマネスク館(プール有り、水着持参) 入浴料¥500  → 岡谷ロマ
ネットのようです。



 


わが友・洪大杓逝く

2012-12-08 09:35:13 | 友人たち

 12月7日(金)晴

 洪大杓(ほん・てぴょ)さんが17時52分死去したとお連れ合いから知らされました。覚悟していたとはいえ、募る悲しみ、寂しさをどうすることもできません。1950年7月生まれですから62歳、僕よりは9歳下の「弟」です。

 いつごろからか気が合うようになり、90年代・2000年代を一緒に歩いてきました。僕が癌研有明病院に通うようになってからは時に自転車で葛西のお宅を訪ねて人生の話を語り合いました。早くに両親を喪い、育ててくれた長兄にも早世されてさびしかった少青年期ですが、配偶者と三人の娘さんに恵まれ幸せそうでした。昔の写真や資料を引っ張り出してきて語ってくれたのが昨日のようです。

 最後にあったのは10月の末です。お連れ合いとの三陸慰霊のたびの様子を語ってくれました。12月14日の新潟の旅を約束して別れました。先日は切符が届いたと元気な声を聞いたばかりです。

 在日コリアン二世で僕と一緒に最後まで歩いてくれた数少ない人です。在日コリアン問題、北朝鮮問題はもちろんのことですが古事記や日本書紀の時代にまで話をともにできる人ですから妻にとっても大切な存在です。こだわりなく付き合える数少ない友人です。

 僕を「先生」呼ばわりしますが、あるときから「お前は俺の弟」だと宣言しました。敬称抜きで呼んで来ました。愚兄で申し訳ないが「弟」はそれなりに心を許していてくれるようでした。

 見舞い帰りの電車の中で「弟・重態」の知らせに祈りながらバスに揺られた夜を思い出しました。1955年10月31日のことです。半世紀の後に新しい「弟」を喪って僕は本当にさびしい。

 ●「洪さん死去」に関する友人たちの問い合わせは鈴木啓介までお願いします。 080-1278-4906


 

以下は昨朝書きかけだった日記です。 

 

12月6日(木)晴

東京見物に出かけることにしました。車は廃棄したので「電車と散歩」の一日を時々過ごすことにしたのです。来年から始める「きいちご散歩教室」の下見でもあります。

①佃島(つくだじま) 地下鉄有楽町線「月島」下車。ここは癌研有明病院の行き来によく寄ります。「田中屋」で当分の間の佃煮を買いました。義母にも送りました。日本橋界隈で育った義母には喜んでもらえるでしょう。

 江戸開府の頃、大阪西成の漁師たちがここに移住し、故郷の名をつけたといいます。友人の潔さんはその末裔だというから驚きです。戦後もかなりの時期までここにも漁師の生活があったと聞きました。

②豊洲・林さん夫妻宅

豊洲から水上バスに乗って浅草に行くことにします。時間があったので「きいちご移動教室」の常連・林さんのお宅に寄ってみました。あいにく林さんは外出中ですが奥さんの祐子さんが出迎えてくれました。

 まるで小さな歴史資料館に来たみたいです。部屋の壁にこんな風な歴史的な資料が展示されているのです。コーヒーのご馳走になりながら四つ年上の祐子さんの説明を聞きました。 

「田作霖」は祐子さんのお父さん。日本留学の予備校のようなところの卒業証書でしょう。

「閻錫山(えん・しゃくざん)」は高校の世界史の教科書に出てきた人です。辛亥革命に参加後、「山西督軍」「山西省長」となり、共産党の天下となるまで山西省を支配した軍閥の大親分です。

中華民国9年とは1920年(大正9年)のことです。

田さんは成城中(東京)七高(鹿児島)京都帝大・農学部を卒業後、故郷に帰り太原の大学教授になられたようです。七高在学中に出会った福元タマさんと結婚し、祐子さんが生まれたというわけです。

共産党の天下となった後の一家の生活は困難を極めました。「国民党」「親日派」のレッテル。82年にご両親は帰日、90年に相次いでなくなられたそうです。

 辛亥革命以来の東アジア近代史の只中にいる感じです。近くあらためて訪ねてご夫妻のお話をゆっくり聞かせてもらいます。中国共産党独裁下で「国民党」「親日派」のレッテルを貼って葬り去られた人々の営みは近代中国の近代化の核心となったはずです。

祐子さんのお父さん田作霖という方はどんな人だったのか。中国近代史が急に身近になってきたような感じです。

来年にはお母さんの故郷・鹿児島にもご一緒できるかもしれません。結婚するまで中洲小学校の先生だったといいます。

③浅草・浅草寺

12時45分、祐子さんに見送られて水上バスで浅草へ。久しぶりに観音さんにおまいりしました。

坂東33観音めぐりの始まり。今にして思えばこれは洪さんにヒントをもらったのかも知れません。お連れ合いの休日に観音めぐりをしていると聞いていたのです。

私たちのことですから「順番」はありません。日和見をしながら楽しみます。


姫花ちゃんの黄色いハンカチ 塩屋崎土産

2012-11-26 07:45:31 | 友人たち

11月25日(日)晴れ

 昼前、良子さんと菜穂子さんが遊びに来てくれました。良子さんは県北の寄居から、菜穂子さんは東京の赤羽から。二人は1984年4月、15歳の春、池袋商業入学以来の友人同士です。去年は二人して、級友・西田くんの墓参りに同道してくれました。

 先日のいわきへの移動教室にも参加してくれた菜穂子さんが良子さんへのお土産を披露してくれました。

塩屋崎で大津波の写真展をしていた山六というお土産屋さんで手に入れたハンカチでした。

鈴木姫花ちゃんという小学生の描いた塩屋崎灯台の絵が楽しい。説明書が添えてありました。

心をうたれ、写真に撮りました。 

  

4年生だった姫花さんは震災の犠牲になってしまったのです。

僕も妻もこのお店には下見を含めて二度は寄っています。しかし、「姫花ちゃんのハンカチ」には気づかなかったのです。移動教室の参加者でも気づいた人はほかにはいなかったのではないかと思います。レジのところにさりげなく置いてあったといいます。格別の宣伝は何もなかったのです。

 「さすがに菜穂子の目は違うなあ」。移動教室ではいつも「子ども担当」をやってくれる人です。

僕も塩屋崎に飛んで「姫花ちゃんの幸福の黄色いハンカチ」を買って来たいなあ、そう思っています。

妻が「五目寿司」をご馳走してくれました。5時過ぎまで互いの人生の話を交流しました。悔しいことも、恥ずかしいことも話し合える友だち、ありがたい半日でした。

鈴木姫花ちゃん●http://www.hibinoshinbun.com/files/201/201_toku1.html

 

 

 


ひなたなほこさん、柏でワンマンショー

2012-11-22 07:01:16 | 友人たち

11月21日(水)晴れ

妻の風邪はよくなってきたようです。台所仕事はできないが手芸は始まりました。僕のほうは咳と微熱。「タルセバ」服用に伴う「間質性肺炎」を警戒して療養に努めています。

 山野さんからいわきの海の写真が届いたので昨日のブログに貼り付けました。ごらんになってください。

 ひなたなほこさんがワンマンショウをやるそうです。遠い昔、僕の生徒だったN子さんの娘さんです。

どんな歌を歌っているのだろう?暖かい午後のコンサートにお母さんを誘って見に行こうと思いはじめました。柏方面の皆さん、よろしくお願いします。

 

ひなたなほこさん:歌の好きな子供たち、年明けライブに招待−−柏 /千葉

毎日新聞 2012年11月16日 地方版

 「ひななっちゃん☆」の愛称で親しまれるシンガー・ソングライターのひなたなほこさんが、歌の好きな子供たち400人を、来年1月に柏市で開くワンマンライブに無料招待する。柏をテーマにした自作の曲を歌い、ラジオパーソナリティーや演技講師もこなすマルチタレントのひなたさん。「感性を育むライブを子どもに見せたい」との思いで企画した。

 東京都荒川区出身。父が柏市内の高校教師をしていたため、同市を訪れる機会が多く、「若者の街」として発信力のある柏の魅力にひかれた。5年前、舞台女優からシンガー・ソングライターに転身し、柏市を拠点に音楽活動を開始。柏をテーマにした曲「柏シワ」を作り、保育園や幼稚園30園を回って子供とふれあってきた。

 持ち歌は、牛どん、肉まん、チーズケーキといった食べ物などをテーマにしたコミカルなものばかり。独特の雰囲気で楽しいライブが特徴という。

 来年1月5日にアミュゼ柏クリスタルホールで開くライブに、小学生から高校生まで400人を無料で招待する予定。すでに100席は決まり、残る300席分を募集中だ。

 無料ライブの運営費は、同日に有料で行う夜の部(当日2900円)の売り上げと協賛金でまかなう。ひなたさんは「自分の歌を聴いて豊かな心を育み、将来目標を持つような前向きな気持ちになってほしい」と話している。問い合わせはメール(hinata.kikaku2011@gmail.com)で。【橋本利昭】