12月7日(金)晴
洪大杓(ほん・てぴょ)さんが17時52分死去したとお連れ合いから知らされました。覚悟していたとはいえ、募る悲しみ、寂しさをどうすることもできません。1950年7月生まれですから62歳、僕よりは9歳下の「弟」です。
いつごろからか気が合うようになり、90年代・2000年代を一緒に歩いてきました。僕が癌研有明病院に通うようになってからは時に自転車で葛西のお宅を訪ねて人生の話を語り合いました。早くに両親を喪い、育ててくれた長兄にも早世されてさびしかった少青年期ですが、配偶者と三人の娘さんに恵まれ幸せそうでした。昔の写真や資料を引っ張り出してきて語ってくれたのが昨日のようです。
最後にあったのは10月の末です。お連れ合いとの三陸慰霊のたびの様子を語ってくれました。12月14日の新潟の旅を約束して別れました。先日は切符が届いたと元気な声を聞いたばかりです。
在日コリアン二世で僕と一緒に最後まで歩いてくれた数少ない人です。在日コリアン問題、北朝鮮問題はもちろんのことですが古事記や日本書紀の時代にまで話をともにできる人ですから妻にとっても大切な存在です。こだわりなく付き合える数少ない友人です。
僕を「先生」呼ばわりしますが、あるときから「お前は俺の弟」だと宣言しました。敬称抜きで呼んで来ました。愚兄で申し訳ないが「弟」はそれなりに心を許していてくれるようでした。
見舞い帰りの電車の中で「弟・重態」の知らせに祈りながらバスに揺られた夜を思い出しました。1955年10月31日のことです。半世紀の後に新しい「弟」を喪って僕は本当にさびしい。
●「洪さん死去」に関する友人たちの問い合わせは鈴木啓介までお願いします。 080-1278-4906
以下は昨朝書きかけだった日記です。
12月6日(木)晴
東京見物に出かけることにしました。車は廃棄したので「電車と散歩」の一日を時々過ごすことにしたのです。来年から始める「きいちご散歩教室」の下見でもあります。
①佃島(つくだじま) 地下鉄有楽町線「月島」下車。ここは癌研有明病院の行き来によく寄ります。「田中屋」で当分の間の佃煮を買いました。義母にも送りました。日本橋界隈で育った義母には喜んでもらえるでしょう。
江戸開府の頃、大阪西成の漁師たちがここに移住し、故郷の名をつけたといいます。友人の潔さんはその末裔だというから驚きです。戦後もかなりの時期までここにも漁師の生活があったと聞きました。
②豊洲・林さん夫妻宅
豊洲から水上バスに乗って浅草に行くことにします。時間があったので「きいちご移動教室」の常連・林さんのお宅に寄ってみました。あいにく林さんは外出中ですが奥さんの祐子さんが出迎えてくれました。
まるで小さな歴史資料館に来たみたいです。部屋の壁にこんな風な歴史的な資料が展示されているのです。コーヒーのご馳走になりながら四つ年上の祐子さんの説明を聞きました。
「田作霖」は祐子さんのお父さん。日本留学の予備校のようなところの卒業証書でしょう。
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「閻錫山(えん・しゃくざん)」は高校の世界史の教科書に出てきた人です。辛亥革命に参加後、「山西督軍」「山西省長」となり、共産党の天下となるまで山西省を支配した軍閥の大親分です。
中華民国9年とは1920年(大正9年)のことです。
田さんは成城中(東京)七高(鹿児島)京都帝大・農学部を卒業後、故郷に帰り太原の大学教授になられたようです。七高在学中に出会った福元タマさんと結婚し、祐子さんが生まれたというわけです。
共産党の天下となった後の一家の生活は困難を極めました。「国民党」「親日派」のレッテル。82年にご両親は帰日、90年に相次いでなくなられたそうです。
辛亥革命以来の東アジア近代史の只中にいる感じです。近くあらためて訪ねてご夫妻のお話をゆっくり聞かせてもらいます。中国共産党独裁下で「国民党」「親日派」のレッテルを貼って葬り去られた人々の営みは近代中国の近代化の核心となったはずです。
祐子さんのお父さん田作霖という方はどんな人だったのか。中国近代史が急に身近になってきたような感じです。
来年にはお母さんの故郷・鹿児島にもご一緒できるかもしれません。結婚するまで中洲小学校の先生だったといいます。
③浅草・浅草寺
12時45分、祐子さんに見送られて水上バスで浅草へ。久しぶりに観音さんにおまいりしました。
坂東33観音めぐりの始まり。今にして思えばこれは洪さんにヒントをもらったのかも知れません。お連れ合いの休日に観音めぐりをしていると聞いていたのです。
私たちのことですから「順番」はありません。日和見をしながら楽しみます。