昨日は国道16号に沿った安全な道を探索して大宮公園に行ってみました。広大な公園の一角にある歴史と民俗の博物館を見学したあと数キロ南の勝義さんの顔を見てきました。近く家を処分して横浜に住む娘さんの近くに住むことにしたといいます。こうやってひょっこり訪ねることができなくなるのですから、僕としては寂しくなります。つい話し込んでしまって川越についたのは7時前になっていました。
被災地訪問の旅のメモ最終回。26日に書いた「栗駒山耕英」の付け足しです。
5月25日(金)
くりこま高原耕英地区の熊谷養魚場でお会いした方々の写真です。
熊谷泰子さん 昭さん 昭市さん 菅原輝人さん (妻)
熊谷泰子・昭さん夫妻は開拓2世、息子の昭市さんは3世、菅原さんは1世です。
イワナを焼きながら話をしてくれていた昭市さんが1世のおじさんがみえられたと教えてくれたので、飛んでいって入植時の様子などをお聞きしました。菅原さんは昼食に立ち寄ったところだったのです。今は下の町に家があり、雪が溶けると軽トラで「山」(耕英地区のこと)の仕事にでかけてくるようです。大正15年(昭和元年)生まれといいますから、今年は86歳になられます。やがて店主の昭さんも話に加わってくれました。
耕英の開拓は満州から命からがら引き上げてきた耕野開拓団の人たちが母村(今の丸森町耕野)には住めず、この地で再開拓に挑んだのが始まりだ。駒の湯温泉の主人がこれに協力し宿舎を提供したという。菅原さんは登米の人で満州帰りではないが昭和22年(1947)の開拓開始の年の入植者だ。
栗駒山の中腹、海抜600mのこの辺りはブナの原生林だった。巨木をノコギリ一つで切り倒してゆく。一日一本がやっとだったとか。炭を焼いて下の町に売りに行った。何俵かを背負って3時間の山道をおりた。道路もなければ電気もない。雪と寒さという過酷な自然条件。去っていく人も多かった。
昭和33年(1958)に道路が開通した。電気が灯いた時のことを聞いてみた。意外な回答。「電気代が高いので参った」。ランプ生活の灯油代の方がはるかに安かった。現金収入の乏しい開拓地の生活がほんのちょっと想像された。
昭さんによれば菅原さんは森の芸術家でもあるらしい。森の素材を活かして民芸作品を作っているのだろう。
震災の被害から再起した「しらかば食堂」はその室内全体が民芸作品だ。明さんの手になるものだが菅原さんに教わったと聞いた。
昭さんはお店の裏側にある自宅を見せてくれた。裏山の銘木を活用した見事な家だ。大自然のただ中で自然の恵みを享受する生活を楽しんでおられるのだろう。店に来るお客さんにもその喜びを分かちたいと店作りにも丹精を込めているのだ。
被災から4年にもならないが栗駒・耕英の復興は順調に進んでいるように見える。地域の人々の協力の賜物だがその核になったいるのが1世たちの「開拓者魂」とでも言うものではないか、と思った。大災害に遭遇してめいったには違いないが三世代が力をあわせて復興に取り組んだ。
お別れに菅原さんに握手してもらった。小柄な方だががっしりとして力強い。
お店に『山が動いた 岩手・宮城内陸地震と栗原市耕英地区』と言う冊子があったので「山脈ハウス」に戻って手に入れた。「くりこま耕英震災復興の会」(0228-46-2220)が2010年6月に発行した。¥1000。
三世代、それぞれの人々の震災と向き合う姿が紹介されている。こういうことができるというところにこの地区の人々の並々ならぬ精神がうかがわれる。
雑誌『仙台学』8号には「開拓地<耕英> 被災者たちの昭和史」という特集記事がある。
ぼくはこれらを読んだらまたいつか栗駒に連れていってもらおうと思っている。今度は栗駒山(1627m)にも登れるかもしれない。車道の終点「イワカガミ平」(1113m)からの中央コースは「遊歩道」となっていて「初心者・ファミリー向け」だという。3Km、一時間30分とか。普通の人の二倍はかかるが、なんとかいけるだろう。麓から見ると穏やかでゆったりとした山だ。
(付けたし)
栗駒小学校耕英分校は入学者が昭市さんのお子さんだけになり閉鎖になったという。
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