4月28日(日)晴
1952年4月28日は連合国軍の日本占領が終結し、日本国が独立した日です。「独立記念日」なのですが祝日にもなっておらず、「独立」についての話を聞くこともありません。
安倍政権になって急に「主権回復記念式典」を政府主催でやるといいます。61年目になってなぜ「主権回復」などという聞きなれない式典をやるのでしょう?
やるなら「独立記念日」を国民の祝日として制定した上で祝賀式典をやればいいのです。本当はそうしたいがそうはいかないのでこんな形になったのでしょうか。
そもそも「4・28」を巡ってはその始まりから国論は分裂し、対立抗争の火種です。
連合国との講和条約といっても中国は最初から除外されていました。
中国は日本の侵略を受け、計り知れない被害をこうむりました。この国を除外して「講和」条約を結ぶというのですから無理な話です。
当時は朝鮮戦争の最中です。米中は朝鮮半島で死闘を繰り広げていました。アメリカからすれば中国に続いて朝鮮が共産主義の手に落ちるのをなんとしても防がなければならなかったのです。日本の左翼を弾圧してでも、日本をなんとしてもアメリカ陣営の反共産主義の砦にしたかったのでしょう。
講和条約の締結と同時に日米安保条約を結んで米軍の駐留を正当化し、朝鮮戦争の基地として活用しました。
日本国内における左派陣営の抵抗が5・1「メーデー事件」を引き起こしました。サンフランシスコ体制(両条約はサンフランシスコで調印された)に我慢がならなかった人びとがメーデーの行進のあと皇居前広場に乱入して、警官隊と衝突する大惨事となったのです。日本の基地から出撃する米軍に抗議する在日朝鮮人の比率が高かったと聞きます。
「独立」というよりも日本がはっきりとアメリカ陣営に与し、反共の道を選んだ(選ばされた)日といったほうが事実に近いのかと思います。
「全面講和」(中ソを含む全交戦国との講和)を叫ぶ声が保守的な室戸の町でも聞かれたように記憶しています。港の上で「吉田内閣打倒!」を叫ぶ人がいたのもこのときだったかな?
吉田茂首相は高知県の選出です。それでも吉田内閣はもういいというような気持ちに小学生の僕もなっていたように思います。
少年時代から僕は「積極中立論者」でした。日本は米ソ(中)のいずれの陣営にも属さず、「非武装中立」の平和国家であれ、というものです。それが憲法の指し示す道で世界平和に積極的に貢献する道だとも思っていたのです。
しかし、この60年、少年の思いは夢にとどまり続け、現実の日本は「日米同盟」の強化を推し進める保守陣営が支配し続けてきました。社会主義の崩壊後は緊張が緩和すると思いきや中国の大国化に対抗して、自主国防論・核武装論までが台頭する気配です。安倍首相はこういう流れの中心にいる人のように見えます。
僕の「中立論」が中・ソ・北朝鮮などの「社会主義」への幻想の上にあったことは今日でははっきりしています。国際共産主義運動が朝鮮戦争を発動し、武力で朝鮮の「統一」を図っていたのです。当時の吉田首相が全面講和論を主張する南原繁・東大学長を「曲学阿世」と罵った気持ちを今ではいくらか理解することができます。
これからの日本はどうあったらいいのか?北朝鮮・中国とどうむきあっていけばいいのか?本当に安倍さんに国の舵取りを任せていいのか?
沖縄の人びとの多くが今日の式典にNO!といっているようです。「4・28」以後、「銃剣とブルドーザー」で米軍のやりたい放題にやられたのですから、知らん振りを決め込んだ「日本」の独立に異議を申し立てるのは当然です。
沖縄の人びとのNO!をきちんと受け止めながら、わたしたちも国の進路についてよほど考えてみなくてはなりません。
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