1日は妻の母・柳子(りゅうこ)さんの90歳の誕生日でした。私たち家族のお祝いは九州の旅でするということにして、この日は3人で坂戸のふるさとの湯に行きました。途中、川島の広徳寺に寄り大御堂を見学しました。前日の川島行き当たりばったりサイクリングで行き当たった名刹です。広大な寺域に人影もなく時がゆっくり流れていきます。(川島では商工会が無料でサイクリング用の自転車を貸してくれます)。
日本橋高校事件についてmatumotoさんからコメントをいただきありがとうございます。よろしかったら他の方も書き込んでください。学校現場の方に参考になると思います。
2年前の新聞記事ですが「水俣病の今」を知るのにぴったりの文章を見つけました。<水俣病>は終わっていないどころか、今ようやくにしてその全貌を現し始めたのです。御所浦島・牧島…今回の旅でたずねることができるか?気になっています。
水俣病50年(『西日本新聞』)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/
第2部 解け始めた封印・水俣病「沈黙の島」
<1> 呪縛 差別、ねたみ越えやっと
「今まで水俣病は黙して語らずだったのに、今回の新対策に集落ごと名乗りを上げた地区がある」。ある支援者から、そんな話を聞いた。どうしてこれまで沈黙していたのか? なぜ今、声を上げ始めたのだろうか? 取材班は、その地を訪ねた。不知火海を挟んで熊本県水俣市の対岸に浮かぶ島。名は牧島(同県御所浦(ごしょうら)町)といった。
先月26日に届いたばかりというその青い手帳は、まだ新品の輝きがあった。「水俣病総合対策医療事業」と記された新保健手帳。女性(70)は、大切そうに手に取ってつぶやいた。「ずいぶん遠回りをしたっです」―。
取材に訪れた日の前夜も発作に襲われたという。就寝中に突然筋肉が硬直する。地元で「カラス曲がり」と呼ばれる、筋肉の引きつり。水俣病特有の症状だ。
何とかベッドから起き上がると、明かりもつけず部屋の中を歩き回りキリキリ痛む足を少しずつ伸ばしていく。「痛みが引くまで長いときは一時間もかかるとです」。20年近くも前から、毎晩続く。
水俣市の生まれ。8歳で父親の故郷牧島に移った。毎食、不知火海の魚が食卓に上った。22歳で結婚。夫と船に乗り海運業を営んだ。チッソ水俣工場の排水口があった水俣市・百間港に船を泊め、海水をくんで米をといだ。
50歳前後から体に異変が出始めた。歩いていると、足がつって転びそうになる。仕事中も手がしびれる。「自分も水俣病じゃなかか」。わき起こる不安を胸の奥底に押し戻した。
あの光景を見て以来、口に出すのが怖かった。
■ ■
「われげん、むこどんとじっさんな、水俣病のゼニばもらわいたでな」(あの人のだんなさんとじいさんは、水俣病のお金をもらったらしい)。
そう言い放った同僚の女性は、右手をダラリと胸の前に垂らして震わせ、口をゆがめてよだれを流す格好までした。周りから笑い声が上がった。
11年前、働いていた真珠工場で見た光景。その年、政府は政治決着として未認定患者に260万円の支払いを決めた。同僚たちは、一時金を受けた隣の御所浦島の患者のことをうわさした。差別とねたみを感じた。
「水俣病って疑われるだけで、白い目で見られたっです」。小さな漁業の島。被害発生となれば漁と生活は壊滅する。結婚や就職。子どもたちへの影響もある。島を訪れた水俣病の支援者や研究者たちは、玄関戸も開けてもらえずことごとく追い返された。島は丸ごと水俣病を封印した。
意を決して認定申請などを行う者は、異端視された。″掟(おきて)″に逆らう者。「金欲しさ」と陰口が飛んだ。
夜の激痛に加え、数年前からは両手の小指が変形し始めた。手のひらはしびれたままだ。それでも「水俣病なんて口が裂けても言えんじゃった」と女性は明かした。
■ ■
沈黙の島を最高裁判決が揺り動かした。2004年10月、最高裁は現行の認定基準より緩やかな救済の条件を示した。
半年後の昨年4月、女性は近くの親類と認定を申請した。症状を隠してきた近隣の人たちが、徐々に申請を始めていた。周囲の目は気になるが、年を重ねた老後の健康はそれ以上に切実な不安だった。子どもたちも独立。最高裁判決で、救済の門戸が広がるのでは、との期待もあった。
「これからは医療費もかかる。子どもに迷惑はかけられん、て思うて」。女性は「他人に何を言われてもよか、て覚悟した」が、拍子抜けするほど何も変わらなかった。
昨年10月には、町役場が各家庭に設置している町内放送で、国と県が開始する「新保健手帳」への申請を呼び掛けた。「町が水俣病のこつを言うとは初めて」。多くの住民がそう指摘する。
島を支配してきた呪縛(じゆばく)が解け始めた。
女性は、認定申請から新保健手帳の申請に切り替えた。医療費の自己負担が免除される手帳は、今月から効力をもつ。
「もう人の目ば気にせんでいい。それだけでん、ずいぶん気の楽かです」。発作は変わらず襲って来るが、心には少しだけ安心感が生まれた。
× ×
●制度複雑 なお救済漏れ 老いの不安背中押す
水俣病被害者への救済制度は、実に複雑だ。それは、細かく対応を定めてきたからではなく、まるで屋上屋を架すように行政が対策を継ぎはぎした結果だと言える。それでさえ、なお救済の手が届かない人たちがいる。
■4つの柱
現行の水俣病対策には(1)公害健康被害補償法に基づき、行政が水俣病患者と認めた「行政認定」者への補償(2)裁判所が水俣病と認めた「司法認定」者への補償(3)1995年の政治決着による救済(4)新保健手帳―と大きく4つの柱が併存する。
(1)は熊本、鹿児島県の審査会を経て各県知事が認定。認められると、原因企業チッソが補償金や手当を支払う。しかし、認定患者は両県で約2300人。数万人といわれる不知火海沿岸の被害者は未認定患者として取り残された。
認定を棄却された被害者らの一部は、患者認定を求め裁判に訴えた。訴えが認められた者は(2)のように「司法認定」患者と呼ばれるが、補償は(1)よりも低額の一時金のみ。司法が水俣病と認めても行政が認定しない、深刻なねじれも生じた。
未認定患者の救済を図るため、95年村山政権下で政治決着が行われた。「水俣病ではない」が「有機水銀の影響を否定できない者」を対象に、症状が重い者に一時金260万円と医療費が無料になる「医療手帳」(約1万人)を、比較的症状が軽い者に月額治療費7500円を限度とする「保健手帳」(約1000人)を交付した。
■最高裁後
政府は政治決着を「最終解決」としていたが、2004年10月の水俣病関西訴訟最高裁判決で状況は一変した。
最高裁は被害拡大の防止を怠った国など行政の責任を確定。緩やかな基準で広く救済を認めた。
判決を受け、環境省が昨年10月から導入したのが「新保健手帳」である。政治決着時の「保健手帳」を拡充。医療費の限度額を撤廃したものだ。
申請者は熊本、鹿児島両県で1979人(今月15日現在)に上り、すでに約1200人に交付された。認定の申請をしないことが条件だが、高齢化した被害者たちには「せめて医療費負担の軽減だけでも」との切実な思いがある。
一方、あくまで患者認定を求める申請者は両県で3631人(同)。このうち690人が裁判を起こしている。
「周囲の偏見」「生活への影響」など、さまざまな理由から政治決着時にも息を潜めていた人たちが、いま声を上げ始めた。
未認定患者の支援を続ける水俣病患者連合御所浦支部の松村守芳支部長(64)は「認定患者だけが患者じゃない。隠れた患者がたくさんいる。公害病なのに国が公害病にしない」と、国の消極姿勢を厳しく批判する。
水俣病公式確認(1956年5月1日)から間もなく50年。今も患者認定や保健手帳の申請者が相次ぐ現状は、救済策が十分でないことを如実に物語る。水俣病被害者は患者として広く認め、症状に応じて補償や救済をする。そうした特別立法も視野に場当たり的ではない、抜本的な施策が求められる。
× ×
▼牧島 熊本県天草郡御所浦町の島。同町は、御所浦島、横浦島のほか、大小の無人島など18の島から成り立つ。町の人口は約4100人。うち、牧島は約430人。主産業は漁業。水俣病認定患者は、町全体で51人。うち1人が牧島。2004年10月以降、現在までの認定申請者は、町全体で約450人に達している。
[06/02/20]
日本橋高校事件についてmatumotoさんからコメントをいただきありがとうございます。よろしかったら他の方も書き込んでください。学校現場の方に参考になると思います。
2年前の新聞記事ですが「水俣病の今」を知るのにぴったりの文章を見つけました。<水俣病>は終わっていないどころか、今ようやくにしてその全貌を現し始めたのです。御所浦島・牧島…今回の旅でたずねることができるか?気になっています。
水俣病50年(『西日本新聞』)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/
第2部 解け始めた封印・水俣病「沈黙の島」
<1> 呪縛 差別、ねたみ越えやっと
「今まで水俣病は黙して語らずだったのに、今回の新対策に集落ごと名乗りを上げた地区がある」。ある支援者から、そんな話を聞いた。どうしてこれまで沈黙していたのか? なぜ今、声を上げ始めたのだろうか? 取材班は、その地を訪ねた。不知火海を挟んで熊本県水俣市の対岸に浮かぶ島。名は牧島(同県御所浦(ごしょうら)町)といった。
先月26日に届いたばかりというその青い手帳は、まだ新品の輝きがあった。「水俣病総合対策医療事業」と記された新保健手帳。女性(70)は、大切そうに手に取ってつぶやいた。「ずいぶん遠回りをしたっです」―。
取材に訪れた日の前夜も発作に襲われたという。就寝中に突然筋肉が硬直する。地元で「カラス曲がり」と呼ばれる、筋肉の引きつり。水俣病特有の症状だ。
何とかベッドから起き上がると、明かりもつけず部屋の中を歩き回りキリキリ痛む足を少しずつ伸ばしていく。「痛みが引くまで長いときは一時間もかかるとです」。20年近くも前から、毎晩続く。
水俣市の生まれ。8歳で父親の故郷牧島に移った。毎食、不知火海の魚が食卓に上った。22歳で結婚。夫と船に乗り海運業を営んだ。チッソ水俣工場の排水口があった水俣市・百間港に船を泊め、海水をくんで米をといだ。
50歳前後から体に異変が出始めた。歩いていると、足がつって転びそうになる。仕事中も手がしびれる。「自分も水俣病じゃなかか」。わき起こる不安を胸の奥底に押し戻した。
あの光景を見て以来、口に出すのが怖かった。
■ ■
「われげん、むこどんとじっさんな、水俣病のゼニばもらわいたでな」(あの人のだんなさんとじいさんは、水俣病のお金をもらったらしい)。
そう言い放った同僚の女性は、右手をダラリと胸の前に垂らして震わせ、口をゆがめてよだれを流す格好までした。周りから笑い声が上がった。
11年前、働いていた真珠工場で見た光景。その年、政府は政治決着として未認定患者に260万円の支払いを決めた。同僚たちは、一時金を受けた隣の御所浦島の患者のことをうわさした。差別とねたみを感じた。
「水俣病って疑われるだけで、白い目で見られたっです」。小さな漁業の島。被害発生となれば漁と生活は壊滅する。結婚や就職。子どもたちへの影響もある。島を訪れた水俣病の支援者や研究者たちは、玄関戸も開けてもらえずことごとく追い返された。島は丸ごと水俣病を封印した。
意を決して認定申請などを行う者は、異端視された。″掟(おきて)″に逆らう者。「金欲しさ」と陰口が飛んだ。
夜の激痛に加え、数年前からは両手の小指が変形し始めた。手のひらはしびれたままだ。それでも「水俣病なんて口が裂けても言えんじゃった」と女性は明かした。
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沈黙の島を最高裁判決が揺り動かした。2004年10月、最高裁は現行の認定基準より緩やかな救済の条件を示した。
半年後の昨年4月、女性は近くの親類と認定を申請した。症状を隠してきた近隣の人たちが、徐々に申請を始めていた。周囲の目は気になるが、年を重ねた老後の健康はそれ以上に切実な不安だった。子どもたちも独立。最高裁判決で、救済の門戸が広がるのでは、との期待もあった。
「これからは医療費もかかる。子どもに迷惑はかけられん、て思うて」。女性は「他人に何を言われてもよか、て覚悟した」が、拍子抜けするほど何も変わらなかった。
昨年10月には、町役場が各家庭に設置している町内放送で、国と県が開始する「新保健手帳」への申請を呼び掛けた。「町が水俣病のこつを言うとは初めて」。多くの住民がそう指摘する。
島を支配してきた呪縛(じゆばく)が解け始めた。
女性は、認定申請から新保健手帳の申請に切り替えた。医療費の自己負担が免除される手帳は、今月から効力をもつ。
「もう人の目ば気にせんでいい。それだけでん、ずいぶん気の楽かです」。発作は変わらず襲って来るが、心には少しだけ安心感が生まれた。
× ×
●制度複雑 なお救済漏れ 老いの不安背中押す
水俣病被害者への救済制度は、実に複雑だ。それは、細かく対応を定めてきたからではなく、まるで屋上屋を架すように行政が対策を継ぎはぎした結果だと言える。それでさえ、なお救済の手が届かない人たちがいる。
■4つの柱
現行の水俣病対策には(1)公害健康被害補償法に基づき、行政が水俣病患者と認めた「行政認定」者への補償(2)裁判所が水俣病と認めた「司法認定」者への補償(3)1995年の政治決着による救済(4)新保健手帳―と大きく4つの柱が併存する。
(1)は熊本、鹿児島県の審査会を経て各県知事が認定。認められると、原因企業チッソが補償金や手当を支払う。しかし、認定患者は両県で約2300人。数万人といわれる不知火海沿岸の被害者は未認定患者として取り残された。
認定を棄却された被害者らの一部は、患者認定を求め裁判に訴えた。訴えが認められた者は(2)のように「司法認定」患者と呼ばれるが、補償は(1)よりも低額の一時金のみ。司法が水俣病と認めても行政が認定しない、深刻なねじれも生じた。
未認定患者の救済を図るため、95年村山政権下で政治決着が行われた。「水俣病ではない」が「有機水銀の影響を否定できない者」を対象に、症状が重い者に一時金260万円と医療費が無料になる「医療手帳」(約1万人)を、比較的症状が軽い者に月額治療費7500円を限度とする「保健手帳」(約1000人)を交付した。
■最高裁後
政府は政治決着を「最終解決」としていたが、2004年10月の水俣病関西訴訟最高裁判決で状況は一変した。
最高裁は被害拡大の防止を怠った国など行政の責任を確定。緩やかな基準で広く救済を認めた。
判決を受け、環境省が昨年10月から導入したのが「新保健手帳」である。政治決着時の「保健手帳」を拡充。医療費の限度額を撤廃したものだ。
申請者は熊本、鹿児島両県で1979人(今月15日現在)に上り、すでに約1200人に交付された。認定の申請をしないことが条件だが、高齢化した被害者たちには「せめて医療費負担の軽減だけでも」との切実な思いがある。
一方、あくまで患者認定を求める申請者は両県で3631人(同)。このうち690人が裁判を起こしている。
「周囲の偏見」「生活への影響」など、さまざまな理由から政治決着時にも息を潜めていた人たちが、いま声を上げ始めた。
未認定患者の支援を続ける水俣病患者連合御所浦支部の松村守芳支部長(64)は「認定患者だけが患者じゃない。隠れた患者がたくさんいる。公害病なのに国が公害病にしない」と、国の消極姿勢を厳しく批判する。
水俣病公式確認(1956年5月1日)から間もなく50年。今も患者認定や保健手帳の申請者が相次ぐ現状は、救済策が十分でないことを如実に物語る。水俣病被害者は患者として広く認め、症状に応じて補償や救済をする。そうした特別立法も視野に場当たり的ではない、抜本的な施策が求められる。
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▼牧島 熊本県天草郡御所浦町の島。同町は、御所浦島、横浦島のほか、大小の無人島など18の島から成り立つ。町の人口は約4100人。うち、牧島は約430人。主産業は漁業。水俣病認定患者は、町全体で51人。うち1人が牧島。2004年10月以降、現在までの認定申請者は、町全体で約450人に達している。
[06/02/20]
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