心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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サウナの中で

2015年09月17日 | ほんのすこし
少し前に温泉に行ったときのことでした。
暑い夏の間はサウナに入らなくても、湯殿に腰掛けているだけで汗が噴き出てきましたので、サウナからは遠のいていました。でも、最近の寒さにサウナが恋しくなって、久しぶりに入りました。サウナの中ではサウナ常連組さんの会話が弾んでいました。黙って耳を傾けていると。

自分は結婚して子供が出来たが、働かなくては食べていけなかった。働くためには子どもを見てもらわなければならなかった。そのとき助けてくれたのが、本家だった。本家の嫁さんは、自分の子どもでもないのに弘前に連れていってくれたり、子ども同士遊ばせてくれたり面倒を見てくれた。だからたいした助かった。今は、すでに子どもも巣立ち、自分たち夫婦だけの生活で悠々自適の生活だが、いつでも本家がしてくれたことに感謝する気持ちは忘れていない。本家が落ちぶれたり困っていたら、素知らぬふりなどできない。助けてもらった恩は決して忘れないのだ、と、周りの人に語っていました。

本家・別家という仕組みについては、よくわかりませんが、本家というのは大きな存在なのでしょうね。田舎に行くと本家・別家という制度が今もあるようですが、今は昔よりその密接なつながりは薄れているのかなぁ。母の田舎にもそういうものがあったように思います。ときどき昔のことを語ると、本家と言う言葉が出てくるときがあります。頼りになる存在といった感じなのでしょうか。後で母に昔を語ってもらうのもいいかもしれません。

人間がおろかだとすれば、自分が苦境に立たされたときに手を述べてくれたときは小躍りして喜んで受け入れるが、その後立ち直り、昔以上に成功したときに、手を差し伸べてくれた方が今度は苦境に立たされていても自分が受けた恩を返そうと思う気持ちを忘れてしまう、あるいは知らぬふりをするといった行動を取ることだろう。

感謝する、その気持ちを忘れないでいたいと何度も繰り返していたその方を見た時、柔らかな表情だったなと思い出しました。自分の中の清浄な部分が外に出たとき、人は外ににじみ出るものがあるのだと思います。

日常の何気ない中にも考え込むことや、しみじみ思うことが沢山あります。その中の一つだけでもココロに残るものを見つけていけたら、その一日が単なる一日で終わらない。そう思えるような素敵なことを探していけたらなあと思っています。