心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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十五夜

2015年09月27日 | ほんのすこし
夕方、温泉の帰りに、母とフロントガラスに見えるお月さまを発見。
なんという大きさ!しかもクレーターとかがくっきり見えて、幽玄の世界を物語っている。母が
「こんなに大きく見えても、夜になればもう少し小さく見えるんだよね~夜に窓を開けてみてみようか」
と、話していた。わたしも運転しながら頷いていた。
あまりに大きかったけど、スマホで写すと思っていた以上の画像は取り込めなかった。しょうがないね。



朝から十五夜だということがわかっていたので、ちょっと変化を与えようと思ったけど、やっぱり付け焼刃は無理だね。満月も全然大きく映らないし、ぼんやりしか映らない。

苦肉の策(笑)それが冒頭の画像です。
以前に買っていた大判風呂敷。月夜にうさぎさん。ススキの中をうさぎさんが飛び跳ねているのが素敵だったのでつい買っていた。
それを40型のテレビに掛けて、十五夜の雰囲気を味わった。お供えは何もないが。
今しがた、ベランダから空を見たら、煌々と光るお月さまが。
なんて素敵な月夜。

お月さまがそこにいる。それだけでなんて気持ちいいのだろう。

美しい言葉を使いましょうね

2015年09月27日 | ほんのすこし
「美しい言葉を使いましょうね」
その言葉を反芻してみた。美しいという言葉にとらわれ過ぎていて、本意を考えることまでできていなかった。通り一遍の見てくればかりに囚われていたように思う。何年も前にゴスペルを指導してくださっている高瀬先生が隣町の成人式でおっしゃった言葉だ。
「言葉を綺麗に使おうとすれば、所作も綺麗になりますよ。所作が綺麗だと、気持ちも綺麗になりますよ」
気持ちが綺麗だから所作が綺麗になり言葉も綺麗になるではなく、言葉を丁寧に使っていくうちに、自分の内に在るものが清められていくのだと先生はおっしゃっていたのだと思う。時折、あのときの先生の言葉が脳裏に浮かんでくるときがある。

何かにイラついて、怒っているとき。激しい言葉が口を衝いて出る。そのとき「美しく」怒って言えるのか?
否、である。怒り、怒鳴り散らかす、そこにある言葉は周りに衝撃を与えるものばかり。話す本人は、話したことでうっぷんが晴れるかもしれないが、その場に漂う不穏な空気はなかなか消え去らない。
それが自分だったら……この狭い部屋に苦しい居心地の悪い空気が充満するのだと考えると、怒り狂うのはあまり体に良くないことだと思ってしまう。
それでは自分は美しい言葉を使っているかというと、それがそうでもない。ぞんざいな口調で話すことが多いし、口をついて出たあとで、しまった!と後悔することもたびたびある。なかなか美しい言葉を使う自分にはお目にかかれないのが実情だ。

美しい言葉というものを考えてみるに、聞いていて気持ちのよいものということがある。なぜ気持ちがいいのかというと、その言葉を発したときの相手の心根に共感するものがあるからだと思う。それは決して気取った言い方という意味ではない。方言だろうと、幼い子が言う言葉だろうと底にある優しさが見えれば、美しさにつながるのではないかと思う。
先生はきっと言葉づかい一つにでも心を込めて接すれば、相手との関係も豊かで温かいものになると教えたかったのだろう。そして、常に言葉というものを大事にしていくことを忘れないでほしいということなのだろう。

乱暴な言葉づかいをしないよう、相手を傷つけるような言葉を使わないようにしようと、時々思い出しては反省材料にしている。
そういえば、先生の言葉づかいはいつも綺麗で美しい。いつも笑顔が絶えない。
あるとき先生がこう言った。
「皆さんは鏡を見るでしょ?わたしも見ますよ。わたしは毎朝起きたらすぐに見るの。そして、鏡に向かって笑顔でこういうの。〈あら、今日のわたしはなんて素敵なの!〉昨日、寝不足で顔が腫れていてもかまわないのよ。目の前の自分が最高に輝いているって信じることが一番なの。朝一番に笑顔で自分に言うのよ。〈今日も素敵な一日が始まる!〉皆さんも試してみてくださいね」
綺麗な先生は笑顔も素敵だし、いつだって綺麗だからいいよねなんて思って聞いていた。でも、後になってわかった。先生が毎日続けてきたことが今の素敵な先生になっているんだって。

美しい言葉を使う。先生の顔を思い出して、わたしも使っていけたらと思う。




どこに行っても空はある

2015年09月27日 | 朝のことば&つぶやき
見上げる空、その色や雲の形、それぞれ毎日違っていて、わたしが住む町でも子どもたちが住む町でも見上げるとそこに空はあった。
そしてまさしく秋の空だった。

わたしからすれば、都会だと思う息子の住む街はどこか田舎の空に似ている気がした。見える視界の広さがそう感じさせるのかもしれない。空の下には高いビルやぎっしりした建物覆われているといった感じの娘の住む街とはまた違う印象を受けた。東京から少し離れただけでこんなにも空気感が違うのだと思った。それぞれの空の印象は違っても。

それでも見上げる上には空がある。
わたしとふたりを結ぶ空がある。
そしてふたりと誰かを結ぶ空がある。

見上げたその先に、いつもどこでも空があるということにホッとする。
この空がいつも通りにそこにあるということが、奇跡であり、当たり前ではないのだということを何かが起きたときに知る。それまではちっとも考えもしなかったのに。浅はかな自分。恵みの中にいることに少しも気づかずに生きている。この空があるから、わたしは息をして生きていける。わたしを守ってくれている空よ。

ふと見上げた先に在る空。どこに行っても視界の上にある空。青というたぐいまれなる美しい色のグラデーションをその変化を楽しませてくれる空に、わたしはいつも憧れる。

ときにはどんよりとした雲に覆われ、グレーという色のグラデーションだけがある空でも、やがてはその後ろにある青の世界が開けてくるのだ。決してグレーが一生続くわけはない。そう思えば、今目の前の空がグレーであっても、やがてあの青の世界がわたしの前に開けてくるその瞬間を待ちわびるという楽しみが生まれるのだ。
あぁ、空がそこにあること、どこに行っても見上げるそこに空があること、それがどんなにココロに安心感を与えてくれていることか……
ありがとう、空よ。
わたしに幾ばくかの力を与えてくれる空よ。