毎月広島市内から阿蘇に行っている
友人たちがいる。
それ程、阿蘇に魅せられたのだろう。
広島市内から阿蘇大観峰まではこれ
くらいの距離。
広島県東部の三原からだとこれ。ただし、彼らは別府からは下町で
阿蘇入りする。
毎月(笑
結構な距離ある。
阿蘇に行ってからも走りまわるのだ
から。
私も先月連れて行ってもらったが、
1日5回満タン給油した。
私も彼らよりさらに若い頃、毎週
横浜から箱根に行っていた。毎週。
だが、広島から阿蘇へ行くのとは
距離が違う。90km程度なので、
「すぐそこ」だ。
下手したら、広島県東部から広島県
西部エリアあたりまで程度だ。
三原市から北へなら三原駅から県内
の三次(みよし)の城下町へ行くのと
同程度だ。
阿蘇は大観峰、箱根は大観山となる。温泉も多い。地が湧いている。私が箱根に行くルートは、海沿いの
西湘バイパスを使って小田原から
東急のターンパイクを抜けるルート
と、一般道で芦ノ湖から登るルート
のどちらかだった。
そして、芦ノ湖箱根スカイラインを
たっぷり走り、一度下りて給油して
また尾根に登ってスカイラインを走
る。
それから長尾峠を下って御殿場方面
から乙女道路を何度も往復した。
1980年代前半当時、箱根スカイライ
ンも芦ノ湖スカイラインも有料だっ
たし、乙女峠も「乙女道路」という
有料道路だった。
峠の茶屋。現在廃業。
毎週水曜日の夜明け前に出立して、
早朝の箱根を走った。雨の日以外
は凍結で走れなくなるまで毎週だ。
革ツナギの上にトレーナーを着て
相方の弁護士と2台で走っていた。
まだ「ローリング族」という呼称
は登場していない頃だ。
コットンのトレーナーは夏でも早朝
には必須だった。
二人とも同じカッコをしていた。
ある日、ここのコーナーで退避エリ
アにバイクを停めて、地べたに座っ
て休憩していた。
もう大分日が高くなり、そろそろ
帰還しようとしていた頃だった。
出たばかりの新車をテストしている
宮崎敬一郎氏を見た。何度も往復
している。挙動確認だろう。
メットとツナギですぐ彼と判る。
物凄い回転数で膝を擦って超速で走
っている。
何度目かの時、下りのこのコーナー
を抜けた短い直線で挨拶代わりか
「よっ!走らないのかい?」と
いう感じで派手なウイリーをした。
下りで。乙女道路は勾配が結構ある
のに。
「ぶひゃひゃひゃ」と相方と二人で
思わず笑った。参ったー!てな感じ
で。
ずっと後年に映画『キリン』で観た
隼を走らせる宮崎さんのライドと全く
同じだった。歳は私の2個上。
当時はめちゃくちゃ男前で、モデル
みたいな風貌だった。
全日本ではワークス相手に上位には
食い込めなかったが、国際A級だ。
選手権でポイントを取って来た
からノービスから上がれた。
レースはそうした国内屈指の上級者
同士が戦う。
私などはサーキットによくいたボロ
雑巾のようなツナギを着た亡霊のよ
うなものだ。
今のマップ画像を見ると、乙女は
めちゃくちゃ路面が荒れている。
昔はかなり綺麗な路面で、レイン
グルーブも無かった。
そもそも、峠には全国どこにも段々
塗装が存在しなかった。グルービン
グは埼玉の秩父正丸峠などには
1970年代初期からあったが。
また、センターにキャッツアイやポ
ールなどもどこの道にも無かった。
それらが登場したのは1980年代後半
からだ。
広島県福山市のグリーンライン。
1982年8月。
路面もガードレールも1982年夏時点
では、まだとても綺麗だ。
全国の観光道路の峠は、どこでも
このような綺麗な状態だった。
このグリーンラインのその後のあま
りにもひどい荒廃ぶりは、この
頃には想像すらできなかった。
暴走族も峠族もいない。
二輪ではめちゃくちゃ速い赤白
のRZ250がいた位だ。
なんだか妙にプロっぽい走りだった。
箱根乙女道路で毎度の地べた座りの
駐車エリアでの休息はこのコーナー。
乙女を何本か走って、帰りは北に下
って御殿場から高速で帰還するのが
毎週のルートだった。昼食は帰って
から学食か地元の街中で食べた。
私は箱根が好きだ。
今は西日本に住んでいるので、サクッ
と行けなくなったのが残念だ。
かといって、同質の魅力を持つ阿蘇は
チョチョイと行ける距離ではない。
夜明け前に出て、午前中走って昼食は
帰ってから、という訳にはいかない。
もどかしい。
箱根の山は歌にも歌われた「天下の
剣」だ。
箱根から見る富士は格別なのです。
富士山は「どこにでもある山」では
ないので、富士山が見えるエリアに
住んでいる人たちは「富士山が見え
る事」に言葉にならない安堵感
を覚える。その日常性がある。
これは江戸東京に「富士見」と
冠する場所がべらぼうに多い事
からも察する事ができる。
富士は「ふーん、あっそ。あん
な山はおいらとは関係ない山」
ではないのだ。
私が西日本に転住して、これは当た
り前の事なのだが、何が一番の喪失
感があったかというと、富士山が
全く見えなかった事だ。
「あれ?富士山どこ?」みたいに。
子どもでも分かる当たり前の事では
あるのだが、あの現実に直面した時
には、小さくはないカルチャーショ
ックを覚えた。
この感覚は、富士山が毎日見えるエ
リアで生まれ育った者にしか解らな
い事だろう。
富士山が見えない場所に住むという
のは、まるで外国に住むような
感覚になるのだ。