渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

水上轢き逃げ殺害犯行

2021年09月16日 | open

















轢き逃げで子どもは死亡、母親は両
切断だ。
だが、ボートの同乗者にも口封じを
て、自分が逮捕されるかどうかだ
を心配していた。一年間もしらば
っくれて。
口封じに同意して黙っていた10名も
全員共謀共同正犯に近い犯罪を実行
している。

これ、犯人は実刑は確実だが、生半
可な量刑で収監されても、絶対にこ
の手は改悛はしないのよ。それ、い
ろんな刑事事件の係争と審理過程を
身近で見ていたらよ分かる。池袋
轢殺老人と同じ。
罪を償う心など絶対に生まれない。
絶対なのよね、残念ながら。
質性は変わらないの。
逮捕されても容疑を否認してるで
しょ?
そこ見ても、なにがどうだかよく分
かる。捏造検挙でない、冤罪ではな
いのならば。

これ、たまたま証拠確定で逮捕でき
からいいけど、警察が動かなけれ
そのままバックレでしょう?
悪質を通り越している。
悪人だよ、これ。悪。根っからの犯
罪者体質。
死刑で処刑しかないと思うよ。
現行法では難しいのだけど。


栗の季節

2021年09月16日 | open


早くも栗の季節のようだ。
関東の友人から「栗送ったよ」と
連絡あり。
こりゃ嬉しい。
毎年、名産の栗をくれる。
うまいんだ、これが。

日本各地、美味しい名産品が沢山
ある。
「タコ送れ」とか友人は笑いなが
ら以前言ってたが、生ダコだきゃあ
送れないからなあ(笑
あれ冷凍するとズドーンと味落ちる
し。
三原のタコはほんとに美味しいので
す。
タコの天ぷらてのが三原の名物。
あと、「たこめし」。炊き込みご飯
なんだけど、これがまたウマいの。
広島県西部で多く養殖してる広島地
方の牡蠣はなんとか全国に送れるけ
ど、タコは現在のところ難しいのす。
鮮度が命だし。牛肉のようにはなか
なかいかないみたい。

三原のたこめし。
これ、地元贔屓とかでなく、まじで
ウマいす。


備後国 三原城

2021年09月16日 | open


備後国三原城。


三原城は永禄10年(1567)に築城が
着手された。
それまで新高山城にいた毛利一門の
小早川隆景は、海上の大小の小島と
岩礁を埋め立てて繋ぎ、水上都市を
建設しようとした。
着工から13年後の天正8年(1580)に
は海城としての姿が整いつつあった。
だが、関ヶ原以降、徳川将軍家の命
により中国地区の覇者であった毛利
一門は長門・周防に封じられた。
そして、福島正則が備後・安芸両国
の太守として慶長5年(1600)に赴任
する。
福島正則は城作りの名人だった。自
ら手慰みで武具鍛造もするが、城を
作るのは職人だ。正則が大工をする
のではない。多くの極めて優秀な石
工や大工を抱えていたのだろう。
当代随一の城名人が福島正則だった。
正則は、広島城を整備して完成させ、
さらに支城である三原城も完備した。
三原城の海面の10基の二重櫓と隅櫓
32基、城内の城門14基は福島正則が
建造したと思われる。
だが、本藩広島城を無断で改築した
との嫌疑、謀反の意思ありとの捏造
工作により、福島正則は改易させら
れる。いらんわい!とすべて放り投
げて「武士もやめてやる」となった
のが彼だったのだが、正則の後には
紀州和歌山から浅野長晟(ながあきら)
が元和5年(1619)に広島城に入った。
安芸国と備後国は分割され、一国一
城の令により、備後には福山藩が設
置された。
ただ、三原城は特別扱いとして、備
後にありながら安芸国の広島藩の支
城として残地された。
浅野長晟は備中足守藩主、紀州和歌
山二代目藩主を経て、安芸広島藩の
初代藩主となった。
三原城にはその長晟の筆頭家老とし
て浅野忠長が城主として入った。
紀州新宮からの三原入府だった。
三原浅野家の三代目当主の忠真は
イケメンだったのか男ぶりがよかっ
たのか、江戸城で大奥の姫との大恋
愛事件があった。
幼い姫が「そこで遊ぶと危ないぞ」
と浅野忠真に注意され、それから
ぞっこんになって既婚者の忠真が忘
れられずに寝込んでしまった。
あまりの恋煩いに、春日の局が一役
買って仲をとりなし、徳川家光の落
胤である月姫を「側室」として浅野
忠真に輿入れさせたのだ。あり得な
ない。春日の局の大変化球投げだっ
た。
月姫は主人亡き後には剃髪し、三原
において月渓院という寺に入った。
だが、新婚時代から暮らしていたの
は江戸表だろう。

三原城の数十におよぶ支城として
は格式の高い二重櫓は、明治初期の
明治16年頃の写真ではすでに本丸の
櫓は取り壊されている。


二重櫓とはこれ。
三原城西築出の二重櫓もこのような
様子だったと想像できる。
この濠と石垣の内側が家臣団の武家
地であった。拝領屋敷街であり、住
宅や役所がズラーっと並んでいた。


これは四国愛媛県の伊予国の今治
(いまばり)城だが、三原城はこの
姿にそっくりだったのではなかろ
か。


城門は三原城のほうが規模が小さい
だろうが、造作はこのようなものだ
った事だろう。




三原城の14の門は誰でも潜れるもの
ではない。
これは城に面した大手門や本丸前の
街道にある後東門にしてもだ。
番士が通行人を厳しく詮議した。
家中にあっても、顔を見知らなけれ
ば誰何された事だろう。
最高裁図書館は誰でも入れず、法曹
関係者か特別許可を得た者しか入館
できない。門外で警備員から厳格に
身元確認がされる。
身元確認後は直立不動で最敬礼され
て門を潜るが、江戸期の城門通過も
そのようなものであった事だろう。



三原は地面部分面積が狭すぎる為、
明治26年の鉄道敷設の際に、城郭
の真上に線路を敷いた。
駅の南はずっと海で、遠浅部分では
塩田が広がっていた。
その塩田を潰し、明治期に臨海工業
地区が作られた。
帝国人絹(のちのテイジン)と三菱重
が誘致され、中国地区で水島に並
ぶ工業立地地区となった。
人口が爆発的に増えた。
炭鉱町のように人がよそから大量に
流入してきて、これまた炭鉱町と同
じ土地柄が明治以降に形成された。
江戸期には三原は城下町であり、ま
た中国地区では特筆的な尚武の町で
あったので、無骨かつ士魂を重んじ
る土地の気風だった。
だが、明治9年に旧家臣団の士族たち
はすべて屋敷を召し上げられて放逐
させられた。「明治維新」に貢献し
たのにだ。
そして、多くの旧家臣団の武士で
あった広島県士族が広島県を捨て
東京に出て行った。華族令により、
旧藩主の大名たる華族は東京在住が
義務化されたからだ。家臣の多くは
何のあても補償も無いのに東京に
随行のつもりで200年住んだ広島と
三原を捨てて自費で東京に転居した。
広島市内もそうだが、三原市内も旧
浅野家臣の士族で土地にとどまった
のはほんの数える程の士族の家しか
いなかった。
結論的に、現在の広島市も三原市も
全く士魂とは無縁、無縁過ぎる心根
の土地柄の地区となった。
なるべくしてなった。
これが「明治近代化」の一つの現実
の側面だった。
これは、かなり武家文化の良質部分
歴史的消失としては痛い現実だ。
現在、三原市内には士魂を解する
風土は全く存在しない。
聞くところでは広島市内もそのよう
だ。
それは仕方ない。
歴史の流れでなるべくしてなった、
物理的なものだからだ。
逆に、三原や広島にあって士魂を
「よそからあとから入って来た」
「今の在地の人」に期待するほう
がどうかしている。
アメリカでジャイアンたちに納豆
えと言っても拒否されるだけだ。
所変われば人変わる。
そんなもんだろう、世の中は。
そんただもんだよ。たべっせって
から人に押し付けはダメだよお。

備後国鞆鍛冶最古の刀剣展示

2021年09月16日 | open









個人所有の歴史的に珍しい刀剣が
博物館に寄贈された。
備後鍛冶の鞆(現在の福山市)の刀工
の作だ。
今の鞆の浦のあたりではなく、もっ
と芦田川上流の草戸千軒の町での鍛
刀だろう。
芦田川の流域変更により、かつての
沿岸部の町であった草戸千軒の中世
の町は中州になり、沈んだ。
昭和時代に発掘調査が行なわれて
全容が明らかになったが、遺跡は
その後中州として水没させられた。
備後国の鍛冶職は、備後国国分寺
尼寺廃寺跡地付近に備前一文字派
の刀工が下って来て鍛刀し、助国
を銘した。派手な一文字風な作域
ではなく、どちらかというと南北
朝時代の備中青江鍛冶に近い。
助国は備後鍛冶の祖に近い刀工と
いわれる。
やや時代が下り、芦田川流域の古
代山陽道沿線に刀鍛冶集団が散在
した。
鞆鍛冶は日蓮宗と関係の深かった
法華一乗と同一エリアでの作刀集団
であり、当時の備後刀工群の横の繋
がりを想起させる。
同時期、古代からの湊であった尾道
の周辺エリアに、いわゆる後世に
「三原」と呼ばれる鍛冶集団がいた。
場所は現在の三原ではない。現在の
三原の地は戦国時代末期の天正時代
以前はただの海だ。何も無い。そこ
には鍛冶どころか人も住まない。
いたとしたら現在の三原ではなくも
と内陸部だ。古名は「柞原(みは
ら/くはら)」であるので、その漢字
の如く森林地帯の中ではなかろうか。
多分だが、古代山陽道沿いのどこか
がミハラと呼ばれたエリアがあった
のだろう。
ミハラは後にミワラと読まれ、それ
が江戸期を通して明治まで続いた。
明治以降は読みは古語のミハラに戻
されている。

刀剣界では、備後刀をすべて三原一
派としたがる向きがあるが、かなり
それは乱暴だ。
備前に実に多くの派があるように、
備後にもそれがある。
「三原」などという呼称で括らず、
「備後刀」と呼称する事が正しい
認識、妥当性を持つ呼称といえる。
時代的に三原の地で刀剣が作られる
のは三原城と城下町築城以降である
ので、それ以降の刀(戦国末期〜江戸
幕末)までの刀工は三原鍛冶と呼ん
でも整合性に齟齬はきたさない。
ただし、鎌倉末期〜室町の時代の
「備州正家」などを「三原」として
現在の三原城のある場所で鍛刀した
とするのは、絶対にあり得ない。
地面がこの世に存在しないのだから。
後年、二代目以降の正家は三原と
銘に切る事もあるが、それは当時
「三原」と呼ばれたどこかの別な
場所で作刀していた事になる。

今回公開された刀剣の銘は「アサ三」
だが、それは本当に「アサゾウ」と
読むのか。
これについても深い検証が必要だろ
う。「アサミ」であるのか「アザミ」
であるのか「刀サ三」なのかも。
アザであるなら、近隣の呰部(あざえ)
鍛冶との関係はどうであるのかまで
多角的に精査して調査する必要があ
る事だろう。

とにかく、貴重な刀剣だ。
こうした刀剣類は日本各地に眠って
いる事だろう。
とかく刀と聞くと貴金属のように
金に換算しての見方しかしない人
たちは世間に多すぎるが、金で歴史
は買えない。
まして自分の国の歴史だ。
また、甲冑や刀剣類の時代物は、極
力海外の美術品を尊ばない資産家た
ちへは売り渡さないほうがいい。
ボストン美術館のようなしっかりと
した視点で保存に尽力してくれるな
らば良いが、そうではなく、海外の
富豪の道楽での万国お宝集めのよう
なものに日本人はあまり手を貸すべ
きではない。
日本の文化遺産は、日本固有の文化
遺産として適切に対応される事が大
切だ。

温泉街

2021年09月16日 | open










温泉街というのは、冬がいいよね。
日本には温泉があってラッキーだ。

猪苗代湖の人殺し

2021年09月16日 | open
 
悪質だ。
死刑が相応しい。

 

東京の今

2021年09月16日 | open


兜町。
従前なら通勤ラッシュで祭りのよう
な人混みだったが、今はこう。



機械遺産 1985年製の回転寿司コンベア装置

2021年09月16日 | open

機械遺産 1985年製の回転寿司コンベア装置

回転寿司自体は1970年代末期から
首都圏では登場していた。
1979年~1984年にかけて、私は
かなり回転寿司店に行った。
大きさはやや小さくなったが、
1皿の値段が40年前とほぼ変わら
ない現代の回転寿司は驚異だ。

1964年に開通した「夢の超特急」
の東海道新幹線は、当時最高時速
210km/hで、一般人が体験した
事のない超高速だった。
その速度は、サーキットでのレー
シングカーしか地上乗り物では
人間は体験していなかった。
1964年に初めて新幹線に乗ったが、
発車の時の衝撃が全く無い事に
驚いた。
そして、1965年、5歳の夏に、私は
初めて東京から新大阪まで新幹線で
一人旅
をした。大阪府庁に勤務する
親戚
の大叔父の家に夏休み滞在する
だ。生れて初めての一人旅は生ま
れて初めて新幹線で、生まれて初め
て行く大阪だった。


回転寿司は大好きだ。

本物の江戸前の握り寿司ではない、
「刺身載せシャリ」であって握り
寿司ではないのだが、私は好きで
ある。江戸末期に世界で初めて
握り寿司が江戸に登場した時は
屋台の立ち食い寿司だが、その
ファーストフードの雰囲気が
あったのがかなり気に入った。
江戸時代みたいに、立ったまま
ちょちょいと食えたらいいのに
なぁ、とか思っていたら、1980
年代末期に東京に立ち食い握り
寿司店が登場して大ヒット。
それは現在でも勤め人たちに
人気を博している。(「魚可し
日本一」がうまい)
学生の頃はバイトの金が
入った
ら回転寿司に仲間たちと行っ

いた。
浅草あたりの本物の江戸前握り
店舗にも行ったが、
自分の金で
行くようになって、
「寿司屋
5000円の定理」の存在
を知った。
一人だとどんなに食べても、
大体
どこの寿司屋も5000円だった
のだ。
だが、同じ物を食べても二人だと
割増しになっていた店が多かった。
たぶん寿司屋のお勘定
はかなり
適当だったのだと思う。


回転寿司のベルトコンベアが機械

遺産として登録された。
なるほどなぁと初めて見た時に
感じたが、空港でも似たような
預け荷物のコンベアあったよね。