今週金曜日。豆まき。
先住古代産鉄民は鬼にされて
しまった。
「福」は「吹く」だ。真金吹く
吉備の中山の吹く。
つまり、古代製鉄の事である。
血塗られた古代史の真実を忘れ、
中央権力にひれ伏した民たちは
一千数百年後の今では、ただの
季節行事のように豆まきをして
「鬼」を排除する。
排撃対象は鬼ではない。
人だった。
広島県三原市の旧城下地区には
奇習が残っている。
それは、節分の日に子どもたち
が旧城下の各家庭を周るのだ。
「おにのまめ、つーかーしゃー。
くれるうちゃーしんしょ。
くれんうちゃーびんぼ」
と節をつけて集団で各戸を訪問す
る。
各家では子どもたちに菓子をあげ
る。そして追い払うようにする。
(これが古式。現代では言葉も
標準語になり、戸別に対する
選別言辞は削除されている)
言葉の意味は「鬼のまめをくださ
い。くれる家は金持ち。くれない
家は貧乏」という意味だ。
子どもたちに各戸の人別改めをさ
せているのである。差別を作る為
の区別を手始めに。
この「鬼の豆ちょうだい」という
三原の奇習は東京にかつてあっ
たふいご祭りの風習に似ている。
かつて江戸東京では、11月のふい
ご祭りの際に子どもたちが鍛冶屋
の軒先に集まり「鍛冶屋の貧乏、
鍛冶屋の貧乏」とはやしたて、
鍛冶屋がそれを追い払うという
風習があった。
現代でも言葉のみが生きている
「鍛冶屋の貧乏」という定型句
はそこから生まれた。
三原は450年前に誕生した「新し
い」町であるので、この奇習は
古代からのものではなく、城町
建設後の安土桃山以降にこの地
に登場した筈だ。築城以前は三
原の他はただの海なので。
新しい奇習だが、心幹部分は他の
豆まきと同じ思想である事が見て
取れる。選別をするための行動
として体現されているのだ。
要するに、「従わない者は排除
対象だぞ」という。
それを子どもたちに行なわせる。
日本の「旧時代」の社会構造は
人民の分割統治であった事を如
実に示している。
人々への差別と選別と分断、排
外排斥と飴玉によって社会体制
を維持する。
日本とはそれだったのだ。
それを中心幹に据えた社会体制
だった。
そして、それの維持の為には、
無垢な子どものうちから刷り込
みの洗脳を行なう。
王様の耳がロバだったり、裸だっ
たりする事を察知する民がいた
ら維持困難となるからだ。
だが、そうした専横は消滅させ
る事が人類には可能だ。
それは、そうした構造がそうし
た構造であるときちんと見て認
識できる頭脳を人は持ち得るか
らだ。
権力者によって為された洗脳
を解いて、そして、行動する。
人を人が尊ぶその英知に人類は
気づいた。
貴賎の貴とは賎を作る事で生き
ながらえている存在だ。
その社会的な仕組み自体に楔
を打ち込んで解体する。
それが可能であると人類は歴史
の中で気づいた。
西欧はそうして自ら血を流して、
自らに桎梏としてかけられたそ
の社会的鉄鎖を打ち砕いて民が
自分たちの国を作った。歴史
的事実として。
しかし、日本にはそれがこれま
で一度も無い。
貴も賎も、それを骨子とする社
会構造も民の意識も、日本では
残存されたままだ。
あえてそれらの構造と意識性を
残そうとする勢力のありとあら
ゆる硬軟の発動に対して、それ
を黙認して追従しているのみ
だ。
かくして、この国の民は、自ら
望んで国家体制の奴隷となり
続けている。