ていないようですが。
ちでやってみれば分かりますよ。
仕事帰りに酎ハイの素というの
この酎ハイを生み出した店、すんげ
行きてえ。
映画『ブラッドダイヤモンド』から
発砲の際に一切目を閉じない
ローデシア出身の元南アフリカ
兵士役を演じるレオナルド・
ディカプリオ。完璧である。
場面によっては一瞬目を閉じる
カットもあるが、ほぼ全域で
両目をしっかりと開いている。
発砲の際にどうしても目をつむ
ってしまうのがクリント・イー
ストウッドだが、とうとう現在
に至るまで、その悪しき癖は直
らなかった。
ディカプリオはこの映画の撮影
に際し、かなりの実弾射撃の
レクチャーを専門家から受けた
というのだが、小銃にしろ拳銃
にしろ実に正確な射撃をしている。
映画作品の中で誤謬は一切無い。
射撃もダブルタップで正確に射撃
している。
正しい頬付けと肩当て、そして肘
のスタンス、そして一切頭は素人
のように傾けない。
最新の近接戦闘タクティカルでは
銃を浮かす射撃法もあるにはある
が、この映画作品のディカプリオ
の射撃方法が自動小銃の射撃の
基本だ。
そして何よりも大切な事。
それは、キンバリーシステム発効
前の時代、この射撃法が適正技法
であったのだ。
それをレオナルド・ディカプリオ
は正確に再現表現演技をしている。
デパーテッド(2006年 アメリカ)
リメイク作品が原本を超えたと
いう世にも稀な作品。アカデミー
賞を4部門獲得した。
この映画、マフィアと警察の
謀略合戦サスペンスなのだが、
作りのプロットにチャチな齟齬
は一切ない。
謎のように見える部分も、すべ
て、ある線で説明がつく。論理
にも流れにも不整合は存しない。
ネット上では「突っ込みどころ
満載」とか、「意味が分からな
い」という意見が溢れているが、
作品をよく見ていればよく分か
る。登場人物
各人の心理的な部分も物理的な
流れも。
よく出来ている。
この作品の役どころは、マット・
デイモンが出世街道まっしぐら
のエリート私服警官で、レオナル
ド・ディカプリオが幼い時から
家庭環境で苦労続きで、ようやく
自分の実力で警官になったという
ものだ。
このキャラクタはそのまま俳優
二人の実像に重なる。
マット・デイモンは名門ハーバド
大に進学した(のち中退)し、レオ
ナルド・ディカプリオは恵まれ
ない家庭で育ち、子役で芸能活動
をすることでいつか見る太陽を
夢見ていた。
マットは恵まれた裕福な家庭に
生まれたが、両親はマットが幼
い頃に離婚した。だが、大学教授
の母が彼をしっかり育てたようだ。
学業もきちんとズバ抜けて出来
なければ、偏差値80のハーバード
大には合格しない。
一方、レオナルドもヒッピーの
イラストレーターの父と移住者
の母は彼の生後すぐに別居し、
彼は苦労したようだ。ローティ
ーンの1980年代後半からドラマ
やCMに出るようになり、その後
97年の『タイタニック』でブレ
イクした。
だが、私は彼が19歳の時に撮影
された『クイック&デッド』を
推したい。すでに人気テレビ俳優
だったが、監督たちが彼を適役と
口説き落としての出演だった。
興行収入は振るわなかったが、
1992年のアカデミー賞作品『許さ
れざる者』での怪演が印象的だっ
たジーン・ハックマンの名演技
が観られるし、何よりもディカ
プリオの演技がなかなか良い。
マット・デイモンは、ジェイソン・
ボーン役が有名だが、なんと
いっても『グリーン・ゾーン』
(2010)を推奨したい。これは映画
ファンは是非ご覧になってほしい。
レオナルド・ディカプリオの
『ブラッド・ダイヤモンド』
(2006)と共に。
この『デパーテッド』は、かなり
オススメだ。
デパーテッドとは船出のこと。
デパーチュラーアゲインで再出発
のことだ。
だが、彼ら主人公たちには、全員
再出発は無かった。
そこにあるのはただ闇ばかり。
海にいるのはあれは人魚ではない
のです
海にいるのはあれは波ばかり
てやつさ。
一体、どこに向かう船出だったの
か。
本作はオスカー獲得の良作である
のだが、ブラッド・ピットの
『セブン』(1995年)のような最後
の一縷の人間の希望の光という
ようなものは微塵も存在しない。
原本がいかにもチャイニーズ
マフィアを題材にしているよう
に無慈悲だ。『ゴッドファーザー』
(1972年)が描く人間ドラマとも違
う。フランシス・コッポラ監督
の『ゴッドファーザー』は人間
愛の在り方について描いており、
主題曲はその名も「愛のテーマ」
だ。
『ゴッドファーザー』も『デパー
テッド』も裏社会のマフィアを
扱っているが、本『デパーテッ
ド』では一切人間愛については
深くは描かれない。すべての人間
の思いは報われない結果として
描かれる。
いわば、徹底的に夢も希望も
ない作品なのだ。
こうした精神性は香港映画
『ダブルタップ』(2000)にも
色濃く描かれており、その冷酷
なドラスティックさはチャイニ
ーズ独特の世界観なのだろうと
思う。
本作『デパーテッド』を観てい
て、鑑賞途中でちっともアメリ
カン的な思想性や行動様式や、
ものの考え方を感じられなかっ
たのは、原本が徹底的に中華
精神そのものだったからでは
なかろうか。本作は良作で
アカデミー賞を4部門獲得した
が、もしかすると、「異文化」
としての表現描写に全米が衝撃
を受けたことが基底にあった
からかもしれない。
とにかく、すべてが死ぬ。
お腹の子どもまで死ぬ。
キリスト教主義的な人の愛は、
この作品には一切登場しない。
同じ人間悪を描いた『クイック&
デッド』(1995)では、牧師のラッ
セル・クロウが無理やり決闘に
引きずり出される時に、ゴルゴ
ダの丘に向かうイエスを重ねた。
そこではイエスが人々の身代わ
りになる痛みが描かれてていた
し、作品中にはキリスト教的な
精神規範が貫かれていた。
だが、本作『デパーテッド』に
は、そうしたキリスト教的な精
神土台は一切登場しないのだ。
あるのは徹底的な無機である。
表現描写の映画作品としては衝撃
的で良作でも、これは映画とし
てはどうであるのか。
主要な登場人物が全員殺される
のだ。全員。報復合戦により。
すべて、自己中心主義により殺戮
が繰りかえされ、それにある種の
正当性があるかのような描き方を
する。
キリスト教的な「赦す」ことは
拒否するのである。
決定的なことは、最後には妊娠
した子どもまで中絶したと取れ
る表現描写を「復讐」として登
場させる。妻の首まで切断され
た刑事が『セブン』で見せた
最後の最後に持っていた人間
としての良心はそこにはない。
登場した役の上での女性医師に
それが無いのではなく、この
作品のシナリオを描いた人間
に「心の正義」が無いのである。
ただ淡々と人間悪を無機的に
羅列するように描いていくのだ。
そうした意味で、まさにサイコ
キネマとしては成功しているの
だろう。
ただし、「作品」という作り物
としてはよく出来ているが、こ
れがアメリカの現実だとしたら、
あまりにも生きる希望が無いし、
アメリカでなくとも、これでは
人間などやっていられない。
そういうことを反証的に伝える
映画作品なのかもしれないが、
原本から焼き直し描かれた本作
の世界観は、「徹底的に中華
精神である」ということだけは
確かだろう。極めて冷酷無比だ。
瑣末な例えとしては、チャイニー
ズマフィアと日本のヤクザを比較
したら、日本のヤクザなどは品
の良い不良でしかない、と言った
ら分かり易いだろうか。
そういう現実を本作は描いている
のだが、どうにも作中で描写され
る表現よりももっと奥にあるもの
から伝わる違和感は、それは本作
の原作原本がアメリカではない
からだ。アメリカ的な要素や世
界観を背景とはしていないから
だろう。
映画『ダブルタップ』で描かれ
ていたあの独特の雰囲気と精神性、
チャイニーズだけが持つ倫理と
論理、それが本作には貫かれてい
る。
その意味でも、リメイク作品と
しても、本作は大成功を収めて
いる。
己こそが唯一の中心であるとい
う中華思想を徹底的に貫徹して
いるからだ。
そして、全員を作者は殺す。
これの意味。
『イングロリアスバスターズ』
(2009年/米)
世界で一番映画を観ているの
ではなかろうかという映画人
のタランティーノ監督作品。
作中では非常に多くの「映画
的技法」や「映画独自の表現
技法」が用いられている。
映画ファンなら見逃すな、み
たいな仕上がりだ。
タランティーノ作品はファースト
フード(あえてファストとは私
は表現しない)の食品ではない。
噛めば噛むほど味が出るスルメ
イカのような作品をタランティ
ーノは作る。
でもね、フィクションとしての
エンターテイメントだけでなく、
この作品は本当にタラ監督の精神
背景が実に克明に描かれている。
彼自身はポストモダンを自ら語
るというポストモダニストは絶
対にしないことをインタビュー
等では為すが、それは人を喰っ
ているからであり、彼自身の表
現性はそうした構造論を超えて
いる。
この作品は「映画」という芸術
表現での特殊表現法としてだけ
でなく、物語のプロットや背景
に存在する歴史性や人々の精神
性についても実にきめ細かく描
写されている。映画作品として
の名作だといえる。
延々と続くワンカットでの役者
の演技、そして数々の名作映画
で登場してきた映画的表現手法
の導入による描写等は、舞台演劇
までをも含む、すべての表現芸術
に対するタランティーノ監督の
敬意の表出といってもいいだろ
う。
また、彼の作品全般にいえる事
だが、この作品でも瑣末で下劣
な衒学性は一切存在しない。
彼は映画への敬意と人を思う人、
暴虐に立ち向かう人びとへの敬意
こそ内在させた表現者であるのだ。
その豊富な知識量を自慢げに語る
極めて下劣で人的にくだらない
「知識のコレクター」ではない。
ほんとに、世界一映画を観てい
る映画監督だと私は思う。
ちなみに柳生一族の陰謀の35ミリ
フィルムはタラ監督が所有して
おり、深作監督を自宅に招いた
時に一緒に観賞している。
また、レオーネ監督の名作『続・
夕陽のガンマン』の原本フィルム
も持っており、自宅映画室では
よく観賞しているという。
ビデオやDVDではないです
からね。数々の名作の原版を
所有しているのだから。
まあ、大昔の映画館は皆フィ
ルム供給を受けてそれを各地
で複数保持していたとはいえ。
そのフィルム保有の姿は、映画
『グロリアス・バスターズ』の
主人公のユダヤ人少女→成人
女性の姿としても投影されている。
この作品は本当にお奨めです。
史実を曲げた創作劇と批判する
のは的を外している。
「映画」としての表現と、表現
描写を通してタランティーノが
何を人々に伝えたかったかを感
じる映画作品だからだ。
ちなみにタラは映画界一のアキバ
おたくだった。
ただ、今はただのインバウンド
観光名所と化して、ゼニカネ本
位のエリアとなってしまい、本
来の日本の80年代前中期サブカ
ル発祥地としての残り香の変遷
遷移の位相としてあったアキバ
の文化と、起発点としての存在
意義を有したアキバは、現在は
まったく存在しないというその
歴史的な社会構造の哲学性を
タラ監督はジャストナウで知ら
ないのではなかろうか。
アキバにはもうすでに本当の
「萌え」は存在しない。すべて
「お定め商業」としてのビジネス
として「疑似萌え」を演出する
投資家と従業員のみが跋扈し支配
する街となってしまっているの
である。
江戸の難事件を解決する隠密同心。
十文字小弥太。
同じく、伝法寺隼人。
これ、実銃古式銃を使用しての
レミントンは雷管ニップルの間
このドラマはかなり面白かった。
第一、生まれたのが、東横線の
中区の山手、本牧から南なん
て陸の孤島だよ(笑
かつ現在東京横浜にいない人間
の感覚だ。明らか。
りやすい。
う駅は無いが駿河台、駿河台下
等で都会人は場所を相互認知する。
「小山は逆だンぞ」と言った。
事が認知できた。
だった。横の人への犯行時を現認
して現行犯として車内で床に完全
制圧して引っ捕えて官憲に引
き渡した。
駅員を呼んだ。
行動時代はとうに終了している
ので、ごく普通の市民としての
行動を取る。
また、1994年5月には新宿路地裏
で警ら中の制服警察官が外国人
に馬乗りにされて刃物を振り上げ
られてけん銃が奪われそうな場面
に遭遇した際に、犯人を完全制圧
して、駆けつけたPCの私服と制服
警察官に引き渡した。
馬乗りにされていた警察官は眼鏡
を飛ばされて暴行されたようだ。
眼鏡はいけない。警官が通常勤務
で眼鏡使用であっても、戦闘状況
出来(しゅったい)の予期がある
場合は眼鏡は即外すべきだ。
これは軍事戦闘経験がない通常
の一般警察官ならば、その大原則
に疎くとも致し方ないのかも知れ
ないが、白兵戦闘の前には眼鏡使
用者であっても眼鏡は絶対に外す
べきだ。
これ超近接戦闘の絶対原則。
この警察官救出行動についても、
私への表彰はない。これは国家的
には当然の措置だ。
この時は妻が横にいて行動開始前
にやめてと言ったが、周囲に共犯
らしき人間がいない事を瞬時に
確認した後に猛ダッシュで走った。
まず刃物を蹴り飛ばしてから、
顔面蹴りを発した。タタンと1秒
以内に踵で。アスファルトの路面
に犯人の顔面がずりずりに皮膚が
剥がれる程に押さえつけて、この
時は逆手にヒネリ上げて首を上か
ら踏み下ろして制圧した。首が
折れないようにしながら。さら
に踏み下ろせば脛骨は折れる。
軍事行動の白兵戦の時には折る。
その後、2001年、中国自動車道
の高速道路で遥か前方に家族の
ワゴンが横転事故を起こした瞬間
に後ろを走行していた。
車ぐっちゃぐちゃでタイヤや
サスが吹っ飛んでる。
中には赤ちゃんを抱きかかえた
母親と若い父親らしき人が乗っ
ていた。
呼びかけて意識確認、全員無事
を確認してから、横転した車
の上(側部)に乗って上から
全員を救出した。まず母親から。
爆発する危険があるので、風上
にかなりの距離を誘導退避させ
た。
救出してから安全を確保して
119番通報し、現場交通処理し
た。
私の車はバリケードのように
して事故現場からかなり手前
で斜めに停めて、さらに手前に
自己車両の発煙筒を炊いてから
事故現場まで猛ダッシュで走っ
た。爆発するな、と願いながら。
ガソリンが漏れていて揮発した
ら簡単に引火する。
銃弾がガソリンタンクに命中
しても爆発などはしない。それ
は映画の出鱈目だ。
実際には水が漏るようにガソ
リンが出て来るだけ。ガソリン
は揮発した時が恐ろしい。
その時は、救急車が到着して、
救護隊員にお願いしてから立ち
去った。
住所氏名は明らかだが、これも
警察からは表彰はされたりはし
ない。
国家権力の措置としてはそれが
極めて正しい。