林であったり、森であっても、
よく見て行けば、全ては、一本の木の集まりなわけですね。
僕たちの世の中も同じで、
街の風景あったり、多くの人が一緒に働いたりしておりましても、
つまりは、一人一人が集まっているのであって、
最終的には、その人一人、ということなのですよね。
小室さんの昨日の会見を、録画動画で全て拝見いたしました。
とにもかくにも、周りが何を言おうとも、憶測しようとも、
ご本人以外にには、絶対に分からないことがあるわけですよね。
と申しますか、
人のことなど、結局は、その本人しか、
あるいは、時には、その本人ですら、分からないことだってあるのだと、僕は思います。
プライベートの最たるものである、夫婦の事。
あるいは、才能というものに関しても、
目に見えないばかりか、世界でその人しか持ちえない(だからこその”才能”なのですが)、これまた、究極にパーソナルなもの。
その埋蔵量も、残量も、それが生み出されるメカニズムも、そのタイミングも、理由も、誰にも分からない訳です。
それを唯一、支える、あるいはキープするためのエネルギーが、気持ち、であるのような気も致しますが、
文字通り、
「気の持ちよう」
であるなら、
やはり、気が「元気」、でない時には、それらは、うまく作用しないのかもしれません。
KEIKOちゃんのことも、小室さんの事も、すべての発端であり、原因と思える、
「病気」
というものが、ただただ憎たらしく、
そして、人から「元気」を奪うこの病気というものに対し、怖さと同時に、やはり溢れる悔しさを感じながら、動画を見ておりました。
病気は、仕方ない事、誰にだって当然あること、これまで、それ以上あまり深く考えることもなく、
漠然と諦めのように、そう思っておりましたが、
なんだか、それだけでは割り切れないものがありました。
誰も幸せにならず、だれも救われないお話で、
ただ、なんといいますか、
大切にしていたガラス製の器を誤って落としてしまい、それが、「カシャン」と、
とても嫌な音を立てて割れるのを、
なにも出来ずに見た後のような、
残念な気持ちがしています。
でも、この先、僕たちに出来ることを考えるのは大切ですね。
小室さんの作られた素晴らしい音楽を、これまでと変わらずにずっと好きでいること、大切にすること。
そして、元気になった!泣けた!すげー!!やっぱり、かっこいいよ!という、心が震える喜びを感じられる、素直な気持ちを持ち続けること、
そして、それを生み出した小室さんと、歌にしてくれたKEIKOちゃんはじめ歌手の方々に、リスペクトの気持ちを持ち続けること。
全ては、そこからだと思います。
そして、僕たちは、より一層、元気で、頑張っていかなくてはいけないと思います。
ファンであったとか、そうではなかったとかではなく、
これだけの長きにわたり、小室さんの音楽で豊かに彩られた時代を、一緒に歩んできた身として。
ではー。