先日の一刀流自主稽古は刃引の形稽古だった。
というより当分の間は刃引の形を行う予定である。
ある人の構えがどうも気にかかる。
彼は正眼に構えているのだが剣先が相手から外れているのだ。
つまり、剣先の延長線上は私の中心から外れている。
構えは基本中の基本なのだが本当に難しい。
「正しい構え」を意識し過ぎても、我が師匠の言う
「構えに構えさせられている」ことになってしまってぎこちない。
しかし剣先が相手から外れる構えは「正しい構え」からはほど遠い。
彼には、正眼に構えた時、剣先は相手の左目を指すよう指導した。
高さは変わっても「常に相手の中心から外れないように」と説明した。
正眼の構えをどうも勘違いする者が多い。
剣先を左目に付けようという目的と思いはわかるのだが、
妙に平正眼となって剣先が中心から外れてしまう。
刃先は基本は下に向ける。意識して左下に向けるのでは無い。
やや半身に構えるので「自然と左下になる」程度の「左下」である。
そして顔の中心と左目は1寸(3cm)しか離れていないことに留意したい。
(自分自身で確認して欲しい)
(左目とは左の目尻なのだということも聞く、目尻なら半分になる)
一足一刀の間では相手との身体と身体の距離は2mほどである。
ということは剣先の開きは1寸の半分の半寸(15mm)しか無いことになる。
これは遠間で1cm、より遠い9歩の間合いだと数mm程度でしか無い。
それを遠間で1cmどころか1寸離して構えるから、
相手の中心から大きく外れた妙な構えとなってしまうのである。
これでは正眼の構えになっていない。
相手から見たら「何それ?」という感じなのだ。
剣先を左目に付けても中心を取ることに変わりは無い。
左目に付けるから中心を外れるというのは間合いと開きの加減がわかっていないからだ。
(切先の高さについては遠間ではさほど厳密になる必要は無い)
開く意識は剣先では無く柄頭のほうである。
左手の親指付け根の第1関節が臍の前。身体から拳2つ離す。(竹刀では拳1つ離す)
拳2つと言っても体格の違いによる個人差は許容範囲としたい。
そして剣先は相手の中心から離してはならないのが原則である。
中心を取るから圧力になる。つまり攻めになる。
攻めになるから「剣先を外す動き」も活きてくる。
最初から外していたら意味は無い。
つまり外す動きが誘いにすることが可能になるわけだ。
しっかりした構えは攻めでもあり守りでもある。
中心をしっかり取った構えは、そのままでは絶対に打たれない。
よく剣道で、中段に構えたところを鍔の上から小手を打つ者がいるが、
あれは打てたように誤解するだけで実際は鍔しか叩いていない。
竹刀はしなるから小手を打てるだけで木刀ならまず打てない。
竹刀のしなる特性で打てたと勘違いするところが剣道の難点である。
竹刀のしなる特性で剣術の技が剣道で通用しないのも剣道の難点である。
笹森順三著「一刀流極意」の592頁に「傘の切先」という記述がある。
日曜の稽古に参加した別の剣友が後日教えてくれたのだ。
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傘の切先とは、わが切先を少しばかり開いて敵に向かってさしたようにする。
敵の移動する体と心をわが切先にて自由に制する法である。
剣中体の極意はこの傘の切先の教から生まれてくる。(要約)
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傘の切先は構え全体で傘の切先とするのであって、
ただ単に剣先のみ傘のように開くことでは無いと思うのだ。
そうなると山岡鉄舟の「三角矩の構え」こそ「傘の切先」では無かろうか。
「わが切先を少しばかり開く」とは、剣先を相手からそらすのでは無い。
わずかに半身に構えるからこそ「わずかに開いた傘」になる。
その上で相手の中心を捉えることが大切だと思う。
というより当分の間は刃引の形を行う予定である。
ある人の構えがどうも気にかかる。
彼は正眼に構えているのだが剣先が相手から外れているのだ。
つまり、剣先の延長線上は私の中心から外れている。
構えは基本中の基本なのだが本当に難しい。
「正しい構え」を意識し過ぎても、我が師匠の言う
「構えに構えさせられている」ことになってしまってぎこちない。
しかし剣先が相手から外れる構えは「正しい構え」からはほど遠い。
彼には、正眼に構えた時、剣先は相手の左目を指すよう指導した。
高さは変わっても「常に相手の中心から外れないように」と説明した。
正眼の構えをどうも勘違いする者が多い。
剣先を左目に付けようという目的と思いはわかるのだが、
妙に平正眼となって剣先が中心から外れてしまう。
刃先は基本は下に向ける。意識して左下に向けるのでは無い。
やや半身に構えるので「自然と左下になる」程度の「左下」である。
そして顔の中心と左目は1寸(3cm)しか離れていないことに留意したい。
(自分自身で確認して欲しい)
(左目とは左の目尻なのだということも聞く、目尻なら半分になる)
一足一刀の間では相手との身体と身体の距離は2mほどである。
ということは剣先の開きは1寸の半分の半寸(15mm)しか無いことになる。
これは遠間で1cm、より遠い9歩の間合いだと数mm程度でしか無い。
それを遠間で1cmどころか1寸離して構えるから、
相手の中心から大きく外れた妙な構えとなってしまうのである。
これでは正眼の構えになっていない。
相手から見たら「何それ?」という感じなのだ。
剣先を左目に付けても中心を取ることに変わりは無い。
左目に付けるから中心を外れるというのは間合いと開きの加減がわかっていないからだ。
(切先の高さについては遠間ではさほど厳密になる必要は無い)
開く意識は剣先では無く柄頭のほうである。
左手の親指付け根の第1関節が臍の前。身体から拳2つ離す。(竹刀では拳1つ離す)
拳2つと言っても体格の違いによる個人差は許容範囲としたい。
そして剣先は相手の中心から離してはならないのが原則である。
中心を取るから圧力になる。つまり攻めになる。
攻めになるから「剣先を外す動き」も活きてくる。
最初から外していたら意味は無い。
つまり外す動きが誘いにすることが可能になるわけだ。
しっかりした構えは攻めでもあり守りでもある。
中心をしっかり取った構えは、そのままでは絶対に打たれない。
よく剣道で、中段に構えたところを鍔の上から小手を打つ者がいるが、
あれは打てたように誤解するだけで実際は鍔しか叩いていない。
竹刀はしなるから小手を打てるだけで木刀ならまず打てない。
竹刀のしなる特性で打てたと勘違いするところが剣道の難点である。
竹刀のしなる特性で剣術の技が剣道で通用しないのも剣道の難点である。
笹森順三著「一刀流極意」の592頁に「傘の切先」という記述がある。
日曜の稽古に参加した別の剣友が後日教えてくれたのだ。
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傘の切先とは、わが切先を少しばかり開いて敵に向かってさしたようにする。
敵の移動する体と心をわが切先にて自由に制する法である。
剣中体の極意はこの傘の切先の教から生まれてくる。(要約)
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傘の切先は構え全体で傘の切先とするのであって、
ただ単に剣先のみ傘のように開くことでは無いと思うのだ。
そうなると山岡鉄舟の「三角矩の構え」こそ「傘の切先」では無かろうか。
「わが切先を少しばかり開く」とは、剣先を相手からそらすのでは無い。
わずかに半身に構えるからこそ「わずかに開いた傘」になる。
その上で相手の中心を捉えることが大切だと思う。