稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.12(昭和60年2月18日)後半

2018年07月31日 | 長井長正範士の遺文


〇誠の力。
もしこの誠を体得することが出来たら非常に大きな力となり、
天地間に、これ以上に強い力というものは恐らく無いと思う。

「至誠は神の如し」と。本当の誠は神様のようなものである。
我々が一番手っとり早く感ずることは母親の愛である。これは誰が考えても誠である。
いざという時、わが子のため、人間わざでは考えられない力を出す。
「至誠にして動かざるものあらず」ということは、どんな場合でも本当であろうと考える。

こう考えてくると、天の誠と人間の誠は別々のものではなく、同じものである。
故に人間は自然の誠を保存し、生かしていくようにするのが人間の道である。
そしてその道を修めていくのが「教え」である。

中庸に「天の命、これを性という、性に従う、これを道という。
道を修める。これを教えという」といってあるが、まさにその通りである。
要するに、天の誠、人の誠ということの一番の中身は
物を成長させる物の生命を完全に発達させるということである。

人間は生まれながらに持っている本来のものを生かし、
育てるのが最大の目的であり、天から授かったそういう本質的なもの(性)はあるのだが、
一方に又、生存するために必要なものがある。

これを儒教の方では「気」といっている。
耳、目、口、腹の欲望、男女の欲望、喜怒哀楽の感情といったようなものがある。
これらの「気」が「性」と一緒にあり、生存のためには無くてはならないものであるが、
欲望というものは次々と大きくなるものである。

こうなっては「誠」は、もうどこかへいってしまいがちである。
それで生きていく為の欲望をとめる必要はないけれども、
方向を間違わないようにし、反省に反省を重ねて「誠」を実行してゆくのが人間の道である。

云々・・・・・
諸橋先生は更にこれを具体的に深く説いておられるが、
ここで一応区切りとして省略させて頂くとして、
以上のように「誠」は剣道修行上最高のものである。

従って我々は竹刀を抜き合わして相対した時、
己れの最高の「誠」を竹刀の上に表現していかなければならない。

敢えていうならば、最初向き合った正眼の構えに、
最高の正しさ、道徳を相手に表現し、攻防打突の竹刀の上に
己れの「誠」を表現し合い修練していくのが剣の道であり、
人間の道である。

ここに稽古中の大切な礼儀が生まれるのである。
これが本物の剣道ではなかろうか。

以上
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