〇誠の力。
もしこの誠を体得することが出来たら非常に大きな力となり、
天地間に、これ以上に強い力というものは恐らく無いと思う。
「至誠は神の如し」と。本当の誠は神様のようなものである。
我々が一番手っとり早く感ずることは母親の愛である。これは誰が考えても誠である。
いざという時、わが子のため、人間わざでは考えられない力を出す。
「至誠にして動かざるものあらず」ということは、どんな場合でも本当であろうと考える。
こう考えてくると、天の誠と人間の誠は別々のものではなく、同じものである。
故に人間は自然の誠を保存し、生かしていくようにするのが人間の道である。
そしてその道を修めていくのが「教え」である。
中庸に「天の命、これを性という、性に従う、これを道という。
道を修める。これを教えという」といってあるが、まさにその通りである。
要するに、天の誠、人の誠ということの一番の中身は
物を成長させる物の生命を完全に発達させるということである。
人間は生まれながらに持っている本来のものを生かし、
育てるのが最大の目的であり、天から授かったそういう本質的なもの(性)はあるのだが、
一方に又、生存するために必要なものがある。
これを儒教の方では「気」といっている。
耳、目、口、腹の欲望、男女の欲望、喜怒哀楽の感情といったようなものがある。
これらの「気」が「性」と一緒にあり、生存のためには無くてはならないものであるが、
欲望というものは次々と大きくなるものである。
こうなっては「誠」は、もうどこかへいってしまいがちである。
それで生きていく為の欲望をとめる必要はないけれども、
方向を間違わないようにし、反省に反省を重ねて「誠」を実行してゆくのが人間の道である。
云々・・・・・
諸橋先生は更にこれを具体的に深く説いておられるが、
ここで一応区切りとして省略させて頂くとして、
以上のように「誠」は剣道修行上最高のものである。
従って我々は竹刀を抜き合わして相対した時、
己れの最高の「誠」を竹刀の上に表現していかなければならない。
敢えていうならば、最初向き合った正眼の構えに、
最高の正しさ、道徳を相手に表現し、攻防打突の竹刀の上に
己れの「誠」を表現し合い修練していくのが剣の道であり、
人間の道である。
ここに稽古中の大切な礼儀が生まれるのである。
これが本物の剣道ではなかろうか。
以上