稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.12(昭和60年2月18日)前半

2018年07月23日 | 長井長正範士の遺文


さて前述の如く「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」
と結びましたが、ここでもう少し誠を詳述しておかなければなりません。

あの「大漢和辞典」全十三巻を刊行された漢学者、
諸橋轍次先生の誠のお話の要旨を次に転載させて頂き剣道も亦、
誠の表現に他ならない点、ご賢察頂きたい。

〇誠は天の道。大自然の現象は何ひとつ考えても一つも間違いがない。
それが「誠は天の道」である。故にこの大自然のずべてが我々の教訓になる。
日本の言葉の「マコト」とは「真事」であり、本当の事がらで、いつわりの事がらではない。
「真事」というものである限り、本ものでなければならない。

即ち「まこと」の一つの要素は「ほんもの」ということ。
又、「まこと」である限り、今日、明日と変わってはいけない。万古不変でなければならない。
この「ほんもの」が、いつも変わらない万古不変ということが「誠」の要素であると思う。
(剣道も亦、本物でなければならない)

〇これを誠にするは人の道。
誠は又、「真言」本当の言葉という意味も含み、うそを言わないのが「誠」の第一歩である。
中国の古い言葉に「忠」と「信」とがある。これも「誠」である。

「忠」は中の心であり、人間の本当の中の心である。
我々は中の心でないことも、心ならずいうことがある。
そうではない、本当の中の心であれば、それは本物。

又「忠」という字は、口と心、それを堅の棒「|」で貫いたものであるという説明もある。
口でいうのと心とが一貫したもの、即ち、言行一致が「忠」である。
「信」というのは、人間の言葉である。

元来、人間の言葉は正しくあるべきものだということになっている。
この二つの「忠」と「信」から考えてみても、誠に入るためには、先ずうそを言わない、
人を欺かないということが、だんだん深く入ってくると、
今度は人を欺かぬ、のではない、己を欺かないというところに進んでくる。

ここまで行かなければ本物でない。
人は弁舌や手だてをもって、何とか欺くことは出来ても、己れを欺くことは出来ないのである。
(己れが稽古中の心とわざをよく反省しなければならない。自分の剣道が本物であるかどうかを)
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