翡翠の大変美しい衾に寝ているにもかかわらず、その蒲団で誰と寝たらいいのだろうか、誰一人として一緒に寝る人も、今はいなくなってしまって、暖かいはずの布団も冷え切ってしまっている。あの楊貴妃さえいてくれればと思うのですがどうしようもない。その玄宗の悲痛な思いを
“翡翠衾寒誰與共”
と、詩人は歌っております。「翡翠の衾<シトネ>は寒くして誰と共にせん」と。眠ろうとしても眠られず、長い夜もまたたく間に明けてします。「欲曙天<曙成らんと欲する天>」
この辺りが、この詩「長恨歌」の一番盛り上がっている所です。あれほど精強な権力を持っていた人の寂寞とした老いぼれ姿を描くことによって、読む人をして、いやがおうにも、感涙に咽せばせずにはおれないような感情に引き込んでおります。
この詩が生まれてから、もう1200年以上も経ているにもかかわらず、未だに、日本でも、その人気の高さを誇っている理由があるのではないかと思います。
その後まだまだ比人の筆は続いていきます。
悠悠生死別經年 <悠悠たる生死 別れて年を經たり>
そのような人の感情など一切無関係のように時はゆったりと流れます。しかし、よくよく考えてみると楊貴妃とあの馬嵬駅での別れから年はどれほどたったのでしょうか、随分と時間は流れたように思うのだけれど・・・・
魂魄不曾來入夢 <魂魄曾つて來りて夢に入らず>
魂魄とは、ここでは楊貴妃の魂の事です。楊貴妃の魂だけでも逢いに来てくれたらうれしいのですが、それが、未だかって一度ならずも玄宗の夢の中にさえ入ってくることはないのです。一体、今、楊貴妃はどうしているのでしょうか。玄宗は気になって仕方がありません。