「魂魄不曾来入夢」。楊貴妃のその「魂」、人の精神に宿るたましい、「魄」、人の肉体にやどるたましいは玄宗の夢の中にさえ今まで一度も入ってはきません。
あの権勢を誇った玄宗の姿を見たお付きの人、誰とも書いてはありませんが、多分「高力士」という人ではないかと思いますが、毎日、悲嘆に暮れている玄宗の姿を見てどうにかしようと考えます。
此処から、また、今までのそれよりも違った、全く新たな展開が始まります。その詩の転成の面白さにも、白居易の詩人としての非凡さ、その構成の鋭さに驚かされます。何回も言いますが、1300年前の人です。その展開に、何と奇想天外な「道士」を引っ張り出して、この問題を解決させるのですます。
臨卭道士鴻客
蜀の臨卭の道士で宮殿内に住んでいる者、「古文前集」には、その人の名前「揚通玄」と説明してあります。
能以精誠致魂魄 <能く精誠<セイセイ>を以って魂魄を致す>
その人はその気力で以って、よく死者の魂を呼び戻すことが出来るのです。
普通、多くの本には「精誠」という言葉が使われておるのですが、「古文前集」にはそれに変って
写真のように「精神」と成っております。「精誠」は誠心誠意の意味ですが「精神 」には気力生気の意味があり、「精神」という字をあてた方がよりよりこの場に合っているのではと私は思います。
爲感君王輾轉思
臣下の者(彼が高力士ではないかと私は思うのですが)は玄宗が楊貴妃を慕って安眠できないことを知っていたので、「輾転の思い」とは寝がえりを打ってなかなか寝付かれない様子を云います
遂方士殷勤覓
「教」は「、・・・しむ」で、使役の意味を表す助辞です。ついにその道士をしてねんごろに楊貴妃の魂を捜すよう覓めた。
また、前集には「覓」は「覔」としており、ルビに「モト」と打っております。