此処からが、その仙女としての楊貴妃の言葉です。その声は如何様であったかは分かりませんが、詩人は”含 情凝睇”と書いております。「情を含み」をどのように解釈してよいか分かりませんが、当然、その方士さえ、かって一度たりとも耳にしたことがないような妙なる響きを持った、言葉と云うよりも、音声といった方がこの場合より的確にその言葉を言い表わすのではないかと思います。この辺りの表現にも感心させられるのですが???
さて、その美しいくちびるからあたかも音楽を聞くかのように
一別音容兩渺茫 <一別音容 兩つながら渺茫>
朝陽殿裏恩愛絕 <朝陽殿の裏に恩愛は絕え>
蓬萊宮中日月長 <蓬萊宮中の日月は長し
回頭下望人寰處 <頭を回らせ 下人寰の處を望めば>
不見長安見塵霧 <長安を見ずして塵霧を見る>
と、切々と流れます。此処は、このように日本語で聞くより、中国語は分かりませんが、その響きを聴くことによって、より美しくこの場の状況が我々の耳に伝わってくるのっではないかと思いますが???残念ですが、私は、まだ、一度も中国語での朗読は聞いたことがありません。
お別れしてから陛下のお声とお姿の『両<フタツナガラ>』は渺茫、遠く彼方に霞んでしまって見ようと思っても見えません。朝陽殿は、かって、楊貴妃が住んでいた宮殿です。そこでうけた陛下の暖かい恩愛は今では夢のようです。そして、今、私が一人でいるこの蓬莱宮の暮らしも随分と長くなってしまいました。
この『絶』と『長』に込められた楊貴妃の思いは如何様でありましょうか??そこには、必ず、楊貴妃の「睇」から流れ出す涙があるはずです。それなしには、この場は説明がつきません。”春帯雨“の“涙欄干”ですもの。
そして、いつも、そのような、ため息の中に、此処から下の方、人界を見ているのですが、 陛下のいらっしゃる長安は見えません。そこら辺り一面は立ち込めた霞だけで、他のものは何一つ見ることはできません。 “不見長安” のたった4字で、そのような楊貴妃の心を、これ又、大変うまく表現しております。