私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

と、これだけ書いて・・・

2016-10-05 14:37:16 | 日記

 そうです、この「さ」です。「出さ入さ」がどうも気になってしかたがありません。広辞苑でもと思ったのですが何もありません。ネットではと、調べてみました。そこには、驚くべき、この「さ」についての記事が目に飛び込みます。この歌は「夫木和歌集」にある

            “武士の 出さ入さに 枝折する とやとやとほりの むやむやの関”

 の和歌に詠み込まれている「さ」だったのです。
 と云うことは、梨一が「むやむやの関」の言葉の説明に使ったこの文は「和歌」だったのです。(まあ、梨一は「とやとやとほりの」の部分を「とやとやどりの」としていますが。)だとすればと、早速、この「さ」について、辞書をみます。すると、『接尾語で、動詞について「時」や「折」の意味を表す』と。・・・・「知らぬが仏」とは、まさに、この事だと、深く反省しております。

 それにしても蓑笠庵は、なんって物知り博士でしょうかね。感心すること仕切りです。

 なお、この「夫木集」は勅撰和歌集に漏れた和歌を集めた歌集で、我が町吉備津に伝わる和歌の中にも数首入っております。その一つを。もうすぐそんなん景色が現れます。

                “麓まで 峯の嵐や さそうらん 紅葉散りくる 吉備の中山”

   


再び“象潟”に。意味深な「むやむやの関」は・・・・・・

2016-10-05 06:28:51 | 日記

 途中で松嶋へチャンネルを切り替えたのですが、また、象潟に戻して、芭蕉についての蓑笠庵梨一の博学ぶりをご紹介します。
 芭蕉は象潟の気色について

                     “その陰うつりて江に有 西はむやむやの関路をかきり”

 と書いておりますが、梨一は

                     “西はむや/\の関を限り”

として説明をしております。どうして「関路」が[関]になったのかは分かりません。更に、分からない事が続きます。と云うのは、この「むやむやの関」について次のように説明しているのですが

                     “・・・・武士の出さ入さにしをりするとや/\とりのむやむやの関・・・”

 とあります。どう解釈すればいいのでしょうか????。この「とや」と云うのは、どうも、よからぬ病気のことで、「むやむや」はわずらいもだえることですから、そのあたりの事と関係がありそうで、梨一も深く係りたくなかったのか。「さ」と云う、助詞でも感嘆詞でもないような、誠に、曖昧模糊とした言葉を造形して書いたのではないかと思われます。誰か、そこら辺りの事について詳しくご存じの方はお教え願えないでしょうか???

 でも、よくよく吟味してみると、これは大変な意味深な文章だと思われます。そこら辺りを梨一特有な言葉として書き著したのではないでしょうか????