「讃」「珍」に次いで、倭王「済」の時代です。
おっと、この「済」は書紀によりますと允恭天皇です。あの衣通郎姫と木梨軽皇子との悲恋物語のあった時代です。
「済」も、又、先王と同じように使いを遣わし奉献します。443年です。なお、讃が使いを遣わしたのは421年ですが、「珍」の時にはこのようなはっきりとした年号は、どうしてかは分からないのですが、その記述は有りません。それも又変でしょう????
この「済」も前の「珍]同様に、<安東将軍・倭国王>に任命されます。が、
“二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事”
と書かれております。ここで注目していただきたいのは、此の記述の中に「珍」の時にはあった「百済」が有りません。まさか「済」が百も沢山あったわけではないでしょうに、と云うのは冗談ですが、兎に角。ありません。後は全く同じなのですが、此の事について、古来、多くの学者が夫々の考えを云い張って論争を展開しているのだそうですが、大方の意見は次のような理由からではないかと云われております。
「当時、宋の国は、朝鮮半島を自国の属国にしたくて、その計略の第一歩を、この「百済」に置き、既に、外交関係結んでいたから、それで、倭国の王が百済を都督する使持節にはしなかったのでは・・・」
と。これが、[済]の時代の中国と日本の外交関係です。「日本や「天皇」と云う言葉が使われていなかった五世紀中ごろのお話です。朝鮮半島を倭の国は支配していたと言うことは分かるのですが。此の事については、あまり、現在では論争にはなっていません。